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颱風圏の女(1948年9月3日・松竹・大庭秀雄)

 昭和23(1948)年、占領下に作られた不思議なギャング映画。この頃、各社では剣戟スターによる勧善懲悪の時代劇がG H Qの「時代劇禁止令」で撮れなくなっていて、ならばと、片岡千恵蔵主演『七つの顔』(1943年・大映)に始まる「多羅尾伴内」シリーズなどの「和製ギャング映画」が作られていた。松竹でも水島道太郎主演の『地獄の顔』(1947年)などのギャング映画が作られていて、この頃、ギャングが暗躍する活劇が、娯楽映画の一ジャンルをなしていた。

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 この『颱風圏の女』は、そういう時代にならではの異色作。ヒロインを演じているのが原節子なのだ。戦後、黒澤明監督『わが青春に悔いなし』(1946年・東宝)で、戦前と変わらぬ美しさから、後半、逞しく生きていく女性を演じ、新たなるキャリアを重ねていた原節子。吉村公三郎監督『安城家の舞踏会』(1947年・松竹)でも没落華族のお嬢さんを、圧倒的な存在感で演じていた。一方、片岡千恵蔵の「多羅尾伴内」のバリエーションでもある「金田一耕助」もの『三本指の男』(1947年・東横映画)で、名探偵の美しき助手・白木静子を演じているなど娯楽映画に花を添えていた。

 『颱風圏の女』は、昭和22(1947)年10月15日に設立されたばかりの太泉スタジオで撮影されている。戦時中、閉鎖されていた新興キネマ東京撮影所を、吉本興行の林弘高が買収、貸しスタジオとして再スタート。この年、吉本興業製作・東宝配給『タヌキ紳士登場』(1948年・小田基義)がその第一作となる。続いて自社制作『肉体の門』(マキノ正博)が作られ、昭和25(1950)年に東映が発足、吸収されるまで貸しスタジオとして機能していくこととなる。

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 さて『颱風圏の女』は、特殊技術・円谷英二、音楽・伊福部昭なので、タイトルバックから、特撮映画世代には胸がときめく。この年、3月にG H Qによる公職追放指定を受けた円谷英二は、東宝を退職して、自宅の庭にプレハブを建てて「円谷特殊技術研究所」を設立、『肉体の門』に続いて、本作の特撮を手がけた。伊福部昭との知己を得たのもこの頃だというが、月形龍之介の酒席だったために、名乗り合うこともなく6年後、『ゴジラ』(1954年・本多猪四郎)の製作発表の席で、ようやくお互いの素性を知って驚いたという。

 本作の原節子は、それまでの原節子のイメージから一変。密輸ギャング団のボス・木島(山村聰)の情婦で、トップシーンから男もののシャツを着て、タバコをふかし、やさぐれた感じで登場。『雨』(1932年・ルイス・マイルストン)のジョーン・クロフォードのような“行き着くところまで来た女”という厭世的な感じで、日本映画ばなれしている。彼女が乗っている小型タンカーは、武装警察(まだ海上保安庁はない)によって追跡され、洋上を逃げ回っている。コールマン髭の船長・片岡(山口勇)、ハンチバックでアイパッチの三下・吉井(東野英治郎)たちが、武装警察と銃撃戦。いきなりクライマックスで、タンカーを追跡する巡視艇のショットが、ミニチュア特撮で描かれている。

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 船室では負傷した若い男・真木(川村禾門)の手当を、佐藤久里子(原節子)がしている。男まさりの彼女は、戦時中に従軍看護婦だったことがセリフで明らかになる。なぜ、彼女がギャングの一味なのか? ギャング団のリーダー・木島(山村聰)情婦だったのだ。たまたま肉体関係を持ってしまった二番目の男が木島で、戦後三年、彼女はここまで転落していた。まさに、当流行の菊池章子の「星の流れに」「こんな女に誰がした」である。前半、原節子の退廃的ムードを強調、兄貴・木島を出し抜いて、久里子をモノにしようとする片岡の欲望。などが、ワーナーのギャング映画のようでもある。

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 船はやがて燃料が切れて、洋上を漂流。ようやく辿り着いたのが、小笠原諸島の黒島。気象観測所の人々に救出されて一息つく。しかし武装警察に追われてともいえず「シケで大変だった」と嘘をついて、観測所の職員・武田(村上冬樹)に、すぐに正体がバレてしまう。観測所の技師・天野(宇佐美淳也)は、片岡の拳銃で負傷。さらに無線機を吉井たちに壊されて、観測所は孤立してしまう。船の燃料も島にはなく、5日後の補給船が来るまで身動きは取れない。さらに大型台風が接近、観測所の人々も、ギャング団も絶体絶命となる。

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ギャング団と善良な人々が孤立してしまうプロットは、この年にワーナーで作られた、ハンフリー・ボガード、エドワード・G・ロビンソンの『キーラーゴ』(1948年・ジョン・ヒューストン)を思わせるが、日本での公開は昭和26(1951)年になってから。映画はここから、追い詰められたギャング団の仲間割れ。猜疑心に苛まれる木島。そして命をかけて台風情報を本土へ送ろうとする天野の純粋さに、絆され、改心していく久里子の心理描写が中心となっていく。天野の純粋さに触れて、本来の自分を取り戻していく久里子。やさぐれていた原節子の表情が次第に、美しい天使のようになっていく。大庭秀雄監督の狙いはここにあるのだろう。

 クライマックスは円谷特撮の見せ場となる。黒島のロングショット。ミニチュアの観測所に電球を仕込んでいる。測候所と、官舎のミニチュアが、暴風雨で破壊されていく。予算は潤沢ではなく、決してリアルなものではないが、突風で官舎の屋根が剥がれ、暴風雨で木が折れそうになるほど撓る。のちの特撮映画ではお馴染みの光景が展開される。伊福部昭の音楽と、この暴風雨のシーン。たとえ予算が少なく、条件が悪くとも、円谷特撮は健在、という感じが嬉しい。

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 ハリウッド映画なら、ここで宇佐美淳也がヒーローとして、山村聰と東野英治郎に立ち向かって形勢逆転となるのだが、正義の側には決して拳銃を持たせない。悪の一味が、嵐の中で自滅していく様を「教訓的に」描いていく。嵐が収まれば、武装警察がやってくるのは明白、酒を煽り、半ば自棄になっている木島。暴風雨で屋根が吹き飛び、木島は瀕死の負傷となる。それでも、子分の吉井にあれこれと指図をする。それが殺し合いへと発展していく。

 最後は瀕死の久里子が、天野の真心に触れて改心。魂が救済されて、美しい顔となり、息を引き取る。それがこの映画のカタルシス。異色ではあるが、原節子の美しさを際立たせていくのは、この時期の原節子映画と同様。ラストの原節子は、やはり神々しさすらある。




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佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所
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