エネルギーは「漲(みなぎ)る」エナジーは「吸い取られる」
語勢としては1980年代まではドイツ語語源のエネルギー
(Energy)が優勢で、手塚治虫が亡くなり(1989(平成元)年)
「ウィザードリィ」でエナジードレインが使われたのと
『美少女戦士セーラームーン』シリーズで「エナジーを
吸い取られる」表現が強くなって以降は英語語源の
エナジー優勢と言われている単語ですが。
https://www.fcenergie.de/start.html
これに加えてジャパンエナジーを名乗っていたJOMOが
結果的にENEOSに(合祀)合併されたこともあり、
特に平成時代においてエナジーの意味が負の方面に
位置付けられた単語になっていたのは想像に難くない。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/JOMO_CUP
まあ結びつけ方としては乱暴な一面もあるのですが、
エナジーってコトバ自体がいつも結局見城徹の喰い物に
しかなっていなかった「尾崎豊の末路みたいなもの」
でしかないのは一面の真実ではあると。
一応卑近な例で言うと、こんなお題が提示されたことが
あったのですがそれに対しての解答をリライトして
ひとまず展開してみる。
(なので元図書館司書の基礎行動としては、カドが取れて
ガワだけになってしまったところと、(厳冬)社と、
文春の文庫だけは「綺麗に捨てられている、黄色い
護美捨て場」で拾ってくるもの、になるんですけど)
まあ婉曲表現を使うのは、もともと日本語なんてデレデレ
した長ったらしいコトバではあるので、別にそんなにも
長いことを気に病むことはないんですよ、といふ寛容の
日本語論を信用しているからだな、と思う。
でもそれを「かな文字」と連綿で同人誌的に書き継いで
きた歴史があったからこそ筆文字をベースした文学が
成立したわけであり、その種別と目的が別れていたから
こそ韻を踏みまくるだけのスカしたラップ文に対して
「オヤジギャグ」といふ大事な堀川が出来たのは
双方にとっても幸せだった、と観ることも出来るような。
最期は市井の論客として亡くなられてしまいましたが、
ゼロ年代に読む価値のある文章と言語論を百花繚乱だった
頃の「週刊文春」で逐一やっていた、手本はやはり
高島俊男の「漢字と日本人」(文春新書198)かなと。
まあ最後に判断するのはあくまで自分だし、ナンシー
関もかつて提唱したように、
なので、あとは「孤独のグルメ」のゴローちゃんの如く
「今日の私(がしっくりくるコトバ)は何バラだ」
で使えばいいのが、道具としてしっくりくるかを選び取る為の
「コトバ」の真髄ってモノでしょう。
なので、やっぱり平成のマイナスイメージにひたすら
まみれたエナジーに縋(すが)るのは厭なので、
私は順接にエネルギーを使うことになるんだろうな、と。