わたしが「とりのささみこ」な理由を書いてみた。
スーパーで とりのささみを 買うひとよ
日々を見つめる あなたは可愛い
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近所で出会った思いがけないとり
朝、夫を見送った帰り。いつもの道で見慣れない鮮やかな黄緑色が目の前を横切った。
それはそのまま舞い上がって、電線に停止した。インコだった。
インコ?この東京の、住宅街のど真ん中に、インコ?
遠くてあまりよく見えないけど、間違いない。まさしくインコちゃんである。
写真を撮ろうとスマホを構えたら、インコは電線を離れ、そのまますぅーっと今度はわたしのすぐ横にある家の塀に止まった。
いつの間にかもう一羽、同じ色のインコがやって来てその隣に止まっている。
2、3歩近寄っても全然動じない。もしかして、人に飼われていた迷子?たまに見かける「迷い鳥探しています」のポスターが頭の中に思い浮かぶ。
家に入ってすぐ、母にラインで写真を送った。「インコいた…!」。母は、インコのような可愛らしい生き物が好きだ。
案の定すぐにハートマークの返事が来て、「いまインコの目撃が増えているとニュースでやっていた」と教えてくれた。
じゃあ、野良インコだったのかな。
インコたちはわたしが写真を撮りおえるとすぐ、連れ立ってどこかへ飛んで行った。まるでシャッターを押すのを待ってくれていたみたいに。
閑静な住宅街の中でも、そしてスコンと抜けるように青い冬の空の中でも、二羽の黄緑色のインコはちょっと異質に、浮き上がって見えた。
この思いがけない鳥との出会いがあったので、今日は「とり」を冠するわたしの名前について、noteに書こうと思った。
なんでとりのささみこって名前なんですか?
「とりのささみこ」という名前を使いはじめたのがいつかもう覚えていないけど、たぶん5年くらい前じゃないか。
この文字列は長い間、ただのハンドルネームであり、記号でしかなかった。
それが去年の秋頃から、「とりのささみこです」と対面で自己紹介をすることが増え、いつの間にかこの7文字はれっきとしたわたしの名前になった。
対面の場でも本名ではなくあえてこの名前を使うのは、「記憶に残りやすいだろう」というあざとい思惑がある。平々凡々とした三十歳の女が、漕ぎ出たばかりのフリーランスの海でなんとか息継ぎをしていくための苦肉の策だ。
だから、「なんでとりのささみこって名前にしたの?」と訊かれたときは(実際その機会はけっこう多い)、
「語呂がよくて覚えやすいからですよ」と答えている。相手は「たしかにね」と言って笑う。
「ササミが好きなんですか?」と訊かれることもあるので、そのときには
「はい、大好きです!安くてヘルシーで美味しいので」と答えている。相手は「なるほどね」と、やっぱり笑って納得する。
どちらの回答も、本当のことからは少しずつズレている。
「とりのささみこ」の本当のこと
とは言うものの、そもそも「本当のこと」が何なのか、本人であるわたしにも端的に言い表すことはできない。
新しくハンドルネームをつくるとき、「語呂が良くて覚えやすいだろうなぁ」と思ったのも、「わたしスーパーでささみばっかり買うよなぁ」と思ったのも事実ではある。
でも、すべてではない。わたしの「とりのささみこ」という名前は、いろんな事情や、過去、そして気持ちが混ざり合って生まれた。だから、「これが本当の理由です」とひとつを特定するのは難しいのだ。
まず、そもそも本名を使っていない理由。これは単純で、昔は本名を晒すことに抵抗を感じていたから。今はそうでもないんだけど。
それと、このハンドルネームを主に使っていたのがライティングの案件を探すためのクラウドソーシングサイトであり、その頃勤めていた会社に副業がバレたくなかったため。
このあたりが”事情”になる。
それから、過去。「とりのささみこ」は、わたしがかつて使っていたふたつの”名前”のハイブリッドだったりする。
ひとつ目の名前は「鳥越愛生」。中学生のときに小説を出版したとき(この小説の話はまた別のどこかで)使ったペンネームで、その後ちょっとだけ脚本の仕事をしたときにも使用した。
鳥越愛生の、「愛生」の部分は本名だ。この字を書いて「めい」と読む。我ながら気に入っている名前。
「鳥越」は、親が考えたもの。字画を気にする母が、本名と同じ画数の漢字の中からこの文字列を見つけてきた。
「”鳥を越える”っていいじゃない。なんか羽ばたいていくみたいで」
もうひとつは「ささみ」。大学時代、フリーペーパーに掲載するライター名として使っていた。わたしの本名は略すと「ささめ」になるので、それをもじったのだ。
このふたつの名前からそれぞれ要素を引っ張ってきたら、ちょうど「”とり”の”ささみ”こ」になったというわけ。
そして最後に、気持ちの部分。
もともとペンネームとして使っていた鳥越愛生という名前。5年くらい前のわたしは、もう二度と、文章を書くときにこの名前を使いたくないと思っていた。
一度小説を書いて出版したことは、いつの間にか、わたしの中で恥ずべき負の歴史になってしまっていた。やりたくてやったことだったはずなのに。
全然売れなかったから。いまにして思うと作品として未熟すぎるから。そのあとの作品を出せる気配が一切ないから……まぁ、そんなとこ。「もうダメだ、この名前は。ケチがついた」みたいな。
それと。これは自分でもあまり認めたくないけど、「鳥越」も「愛生」も親が考えたものだってことが、当時は許せなかったのだ。
あのころ、親との関係が、人生でいちばん悪かった。自分が自分のために決めた名前で、副業をしてお金を貯めて、はやくこの家を出なくちゃという思いが心の中に燻っていた。
かくして「とりのささみこ」は生まれた、のである。
あとづけの理由を考えてみた。
名前の意味を訊かれるたびにこのすべてを話していたら長すぎるし、何よりあまり楽しくない部分があるので、やっぱり「語呂がよくて覚えやすいからですよ」と答えている。
ただ、今年、「とりのささみこ」として新しく知り合うひとの数が本名で知り合うひとの数よりも増えてきたころ、「こんな理由だったらいいよなぁ」というのを後から思いついた。
すこし前から、わたしは「鳥越愛生」がしてきたことを肯定できるようになり、両親との関係もだいぶ良好になっている。
すると、新しい名前を考案した背景にあるジクジクとした思いが、せっかくの親しみやすい「とりのささみこ」という名前に、なんだか申し訳ない気がしてきて。
じゃあ、改めて「とりのささみこ」に込めるならどんな思いか?と考えて、それでできたのが冒頭の「スーパーでとりのささみを買うひとよ」のうた。
とりのささみは、だいたいのスーパーで安く売られている。かつ、低カロリーで高タンパクなヘルシー食材だ。
スーパーでささみを選ぶひとはきっと、家計か、ダイエットのことを気にしているんじゃないかと思う。家計もダイエットも健全にコントロールしていくのは毎日の地道な努力や工夫が必要だ。
そうやって、自分の日々を見つめて、懸命に生きてる可愛いひとにこそ、自分の書いた文章を届けたいな……なんて。
うーん。ちょっとカッコつけすぎ、でしょうか。