映画感想 劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン
文句なしの名作!
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は京都アニメーション大賞唯一の大賞受賞作で、2018年にテレビシリーズ化。テレビシリーズの枠を遙かに越えた超クオリティも話題になったが、それ以上に称賛されたのは優れたドラマ。どのエピソードも感涙必至の珠玉エピソードばかり。超美麗作画と圧巻のドラマで2018年のアニメファンの話題を独占し、当時から今も名作の誉れを受ける作品である。
2019年9月6日に『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』として劇場化され、やはり圧倒的な評価の高さでFilmarksとぴあの初日満足度ランキングでは1位を獲得。その『~外伝』に続く作品が本作ということになる。テレビシリーズと『~外伝』のストーリーを受けて、物語の完結までが描かれる。
劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』もやはり圧倒的な評価で、第44回アカデミー賞優秀アニメーション作品賞、東京アニメアワードフェスティバル2021・アニメオブザイヤー「劇場映画部門 作品賞」「原作脚本部門」「美術・色彩・映像部門」受賞、第3回京都デジタルアミューズメントアワード大賞、第24回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞受賞……と様々な栄冠を得たが、本作に限っては「妥当な評価」というしかない。
本作の超美麗作画を担当したのは高瀬亜貴子だ。記録にある範囲では2013年に京都アニメに入社し、2016年『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のCM動画でいきなり作画監督を担当。その後『響け!ユーフォニアム』で経験を積み、2018年テレビシリーズ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』にてキャラクターデザインと作画監督を担当する。おそらくまだ20代。実力派アニメーターがひしめく京アニの中でスピード出世し、作品のクオリティを牽引する。天才娘である。
監督は石立太一。奇しくも2013年高瀬亜貴子が原画マンデビューした『境界の彼方』で初の監督。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は石立太一監督のキャリア2本目となる作品だ。
前半のあらすじを見ていこう。
sincerely
冒頭に出てくる文字「sincerely」は、「誠実」「真心」「心を込めて」……という意味がある。本作にはサブタイトルはないのだが、ある意味これがサブタイトル的なものとなる。
テロップから続いて出てくる洋館は、テレビシリーズ第10話、アンとその母親クラークが住んでいた場所だ。テレビシリーズでは少女だったアンは老婆となり、この世を去ったところだった。葬儀を終えた後だけど、家族の空気は重かった。
「きっとお母さんが忙しいと思って、何も言わなかったのよ。わかってるでしょ。おばちゃんはそういう人だって……」
アンの孫娘であるデイジーは、母親に厳しく言う。仕事を優先して、お婆ちゃんの最期を看取らなかった母親。それが孫娘のデイジーは気に入らなかった。
ふとデイジーは、家族写真の陰に置かれている缶に気付いた。その中には手紙。それはアンの元に届いた、アンの母親からの手紙だった。
それは「ドール」という、手紙を代筆する人が書いた手紙だった。今では廃れてしまったが、かつての時代にはそういう職業があったという。ドールに興味を持ったデイジーは、その手紙を書いた人を探して、ライデンを目指すのだった……。
デイジーのエピソードから数十年前。まだドールが女性達にとって花形職業だった時代――。
その日は海への感謝祭だった。軍艦の上にヴァイオレットがいて、彼女が書いた「海への賛歌」をその年の女神に選ばれた女性が読み上げる。華やかなお祭りだった。
式典を終えて、ヴァイオレットは1人、静かに海を眺める。CH郵便社や市長がヴァイオレットの書いた手紙を褒め称えたが、ヴァイオレットは気乗りしない。しばらくしてヴァイオレットは、「仕事が残っているから」と1人郵便社に戻るのだった。
郵便社に戻ったヴァイオレットはタイプを打ち続ける。が、ふと義手の調子が狂い始める。ヴァイオレットはすぐに義手を調整するのだが、手が止まる。ヴァイオレットの想いは、戦場で別れたギルベルトへと移っていた。
生きているか死んでいるかもわからないギルベルト……。ヴァイオレットは届くことのない、個人的な手紙を書き始めるのだった。
ここまでが25分。2時間20分とアニメーション映画としては長いほうだから、まだプロローグ。登場人物の紹介やこれまでのあらすじに時間を割いていて、まだ本編のストーリーは始まっていない。
プロローグとして描かれた、デイジーのエピソードは後ほど語るとして……。デイジーが持っている手紙が風に煽られて、パッと温室から飛び出して行く。もちろん紙があんな動きをするわけはないから、あくまでもイメージ。手紙が誰かの手元に移って、誰かの元へ……その前に郵便社があるライデンに集まってくる。手紙が移動していく様子を象徴的に見せつつ、物語本編へとお話を進めている。かなりうまい演出だ。
本編はヴァイオレットの心情そのものに迫る内容になっている。テレビシリーズでは基本的には1話完結で「ヴァイオレットが関わった人達」のエピソードが描かれていたが、縦軸として「ヴァイオレットが過去なにをして来たか」が掘り下げられていた。劇場版はそのヴァイオレットのエピソードを中心に焦点を当てている。
ギルベルトはいったいどこへ行ってしまったのか。生きているのか、死んでいるのか……。ヴァイオレットの想いは今もずっとギルベルトにあった。
プロローグ開けて冒頭シーンは、「海への感謝祭」と呼ばれるものが描かれている。お祭りの由来や性質についてはよくわからないが……後半、実は似たようなお祭りがもう一度描かれる。エカルテ島のお祭りだ。そのエカルテ島のお祭りと対比してみると、ライデンで開催されたお祭りがどういったものか、ある程度想像できる。
海への感謝祭は非常に華やかな催しだったが、その一方、エカルテ島のお祭りはうらぶれた雰囲気だった。これは「戦勝国」と「敗戦国」の対比だ。ライデンでのお祭りは中央に軍艦がドーンと鎮座し、甲板には軍人達が並ぶ。軍艦の周囲には近代的な舟ではなく、櫂でこぐタイプの古風な舟がひしめいている。漁船の姿が見当たらない。古風な舟から長年の伝統があること、そこから戦争の勝利を祝う性質もあることがわかる。
一方のエカルテ島はもはや伝統という性質は忘れられかけ、戦争でこの世を去った人達に向けた鎮魂の祝祭になりつつあった。
かつての戦争がその後の人々の暮らしと精神にどのような影響を与えているのか。ファンタジーだからこそ、こういうところをしっかり描き込んでいる。
式典が終わり、ヴァイオレットは岸壁に1人立ち尽くす。そのヴァイオレットの周りに、CH郵便社の人達や市長夫妻がやってくる。しかしヴァイオレットはその一同とほとんど同じフレームに入らない。ヴァイオレットが描かれる時は海を背にして単独……。賑やかなお祭りの最中だけど、ヴァイオレットの気持ちの孤独が現されている。と同時に、“海”をファクターとして暗示かけするように描かれている。
ヴァイオレットは周りの人々の賛辞を受けるが、気持ちはほとんど動いていない。ライデンの華やかさは、ある意味ヴァイオレット自身の武勲の産物ではあるのだけど……。
軍人だった頃のヴァイオレットにはほとんど“感情”なるものはなく、言われるままに向かってくる敵を殺し回っていただけ。だが“手紙の代筆”の仕事を通じて感情を獲得し、その時ようやく自分が戦場で犯してきた“罪”に気付く……。今のヴァイオレットは、いくら当時のことを言われても、なにも嬉しくない。
お祭りのシーンではエリカ・ブラウンが登場する。テレビシリーズの頃と衣装が違うので、「誰だ?」となるが、かつてCH郵便社で自動主機人形として働いていた1人だ。エリカ・ブラウンは劇作家の弟子入りして作家としての道を歩み始めていた。テレビシリーズと『外伝』を引き受けたストーリーだから、こういったかつてのキャラクターのその後も描かれている。
それぞれの人物の物語は、進みつつある。
続きのお話を見ていこう。
お祭りも終わり、CH郵便社はいつもの業務に戻っていた。
郵便社は絶えず人で賑わっているが――職員達は危機感を抱いていた。時代は急速に変わりつつある。電波塔が建ち、ガスから電気に代わり、「電話」なるものが日常に入ってこようとしている。手紙は間もなく廃れてしまうのではないか……そんな懸念を誰もが抱いていた。
休日。ヴァイオレットはとある人物の墓を訪ねる。ギルベルトの母親の墓だ。そこで、ディートフリートと鉢合わせる。ディートフリートはギルベルトの兄だ。ヴァイオレットはディートフリートと儀礼的な挨拶をして、その場を去るが……リボンをそこに落としていってしまう。
郵便社に戻ると、電話が鳴っていた。ヴァイオレットが電話を取ると、受話器の向こうから少年の声が聞こえてくる。ドールとしての仕事依頼だった。
少年ユリスの待つ病院へ行くと、ユリスは間もなく病気でこの世を去ろうとしていた。ユリスは家族のために手紙を残したい、と。ユリスは小銭程度のお金しか持っていなかったが、ヴァイオレットは「特別に」と少年の依頼を受け付けるのだった。
再び郵便社に戻ると、ディートフリートが訪ねてきているところだった。ディートフリートはヴァイオレットにリボンを届け、「今度、うちが所有していた船を処分することにしてな。あいつも子供の頃、よく乗っていた船だ」と誘う。ギルベルトが残したものがたくさんある。持っていっていい……と。ヴァイオレットは誘いを承諾するのだった。
ここまでで45分。
ギルベルトの兄、ディートフリートが登場し、サブエピソードとしてユリスの物語が描かれていく。いよいよ物語が動き出す。
前作でもある『~外伝』では封建的な貴族階級の寄宿舎が描かれ、愛情のないどこかの伯爵家へ嫁いでいくとある女性が描かれていたが、『~外伝』ではそうした封建的な世界観そのものが終わろうとしている姿が描かれていた。
『~外伝』の主人公であるイザベラ・ヨークは葛藤を抱えつつ、封建的な家のしきたりを受け入れて嫁ぐのだけど、しかし嫁いで間もなくそうした社会観も時代の末端に入ろうとしている頃だった(封建的な時代観に従ったのに、嫁いだ時にはそれ自体が古くさいものになっていて、取り残され、孤独になってしまう……)。『~外伝』はそうした封建的なしきたりが女性を縛っていたのではないか、という指摘をしつつも、しかしそういった時代だからこそ現代では喪われた美意識も同時にそこにあったのではないか……という描き方だった。否定も肯定もせず、そういう端境期の人の感情を描いた作品だった。
その続編たる劇場版は、『~外伝』から時間的にもう少し進んで、社会全体が「ガスの時代」から「電気の時代」に移り変わろうとしている。電気の街灯に明かりが灯るのを老人が見上げるカットがあるが、あの老人は「ガス灯」を付ける仕事をしている老人。ガス灯の老人は仕事道具を持っていたからまだあの時代にもガス灯はあるのだと思われるが、それももう間もなく電気の街灯が街全体を覆い、仕事を喪ってしまう。ガスや石炭を燃料としていた時代から電気や石油の時代に変わろうとする。この端境期には、多くの人が仕事を喪い、また同時に新しい仕事が一気に生まれた時代だった。
『~外伝』では大きな社会習慣や思想の変化を描いていたが、『劇場版』では多くの大衆の暮らしが変化しようとする瞬間を描いている。
途中、「その後のストーリー」で、デイジーがライデンを訪ねるエピソードが入るのだが、その頃にはライデンの街上空は電線が多い、車がバンバン行き交っている。「近代」が終わり、「現代」がもう来てしまっている。『劇場版』はそういう近代の最末端、終わりの時代が描かれている。
象徴的に登場してくるのが「電話機」。まだ交換手がいるような時代だ。一般家庭にあまねく電話があるという時代ではない。しかし、「想いを伝えるツール」が一つ上の段階に入ろうとしている。電話は手紙よりも圧倒的に早い。「手紙」なんていうローテク文化も不要になるのではないか……そういう危機感が描かれる。
ここでディートフリートが登場する。ギルベルトの兄で、「優しいギルベルト」と違って暴力的で慇懃な性格の男だった。テレビシリーズでは一貫して「理不尽で厄介な男」として描かれていたが、そんな男がどんな葛藤を持っていたか、が掘り下げられていく。
この物語はテレビシリーズからそうだけど、登場人物達は基本的には「本音」を言わない。言葉は裏腹。普段喋っていることとは違うこと、本当に思っていることが手紙の中に現れる……という描かれ方をする。本音を言っていることがあっても、言葉だと相手に響かない……そういう時のツールとしても「手紙」が使われている。
ディートフリートも、基本的には「本音」を言わない。そんな性格になったのは、軍人気質の厳しすぎる父親がいたから。その父親に飲み込まれないために、ずっと気を張って、常に相手に対してマウントをかける性格が身についてしまった。
しかし行動の中からディートフリートの優しさが……。回想シーンで、夏の熱い日差しでぐったりしている弟ギルベルトの頭に、帽子をポンと載せる。無言で。しかし口を開くと罵詈雑言。こういうところが、ディートフリートにとっての「言葉は裏腹」な部分。軍人家系に生まれて、強くならねば……という想いが、口から優しさを引っ込めさせてしまう。
(ディートフリートはヴァイオレットに対して譲歩しようとするのだけど、そのやりとりはずっとぎこちない。「優しさを見せること」に慣れていない男の姿が描かれる。それは軍人として育て上げられ、ごく普通の人としての振る舞いを知らなかったヴァイオレットと通じるところがある)
どうしてディートフリートのエピソードがここで描かれたのか……というと、テレビシリーズで未消化だったキャラクターの心理を改めて描きたかったから。ディートフリートを描き込むことで、そこからギルベルトの内面を描き出そう、という狙いもある。ディートフリートのエピソードから、じわじわと生存しているのかどうか不明のギルベルトのエピソードへと近付いていく。
その最中、挿話として描かれるのが少年ユリスのエピソードだ。病気で間もなくこの世を去ろうとしている少年。家族は病室に訪ねてくるのだけど、ユリスにとって訪ねられることが疎ましい。しかし言葉は裏腹、内面では自分が死んだ後、残されている家族のことをずっと気にしている。
ユリスのエピソードが挿話として描かれるのは……命尽きた後でも、手紙であれば想いを伝えられるから(ここはデイジーのエピソードとも繋がっている。なぜデイジーのエピソードが出てくるのか、というとユリスのエピソードと重ねて描いているからだ)。ヴァイオレットはずっと、生きているのか死んでいるのかわからないギルベルトに宛てた手紙を書いている。どこにも出すつもりのない手紙だ。果たしてその手紙はどこにも、誰にも届かないのか――。
いや、伝わるかも知れない。手紙であれば、生死を乗り越えられる。ヴァイオレットはそれを信じたくて、ユリスの仕事を承諾したのではあるまいか。
だがヴァイオレットの仕事は中途半端に果たされないまま。ユリスの最後の言葉は、「電話」でリュカのもとに届けられるのだった。手紙代筆業の敗北である。
ーここから後半ストーリー ネタバレ注意!ー
さて、映画後半に入り、ギルベルトのその後が描かれる。ギルベルトは生存していたが、エカルテ島で身を潜ませるように過ごしていた。エカルテ島は戦争の時はライデンの人々と戦った島だった。当時のことを話すと、みんな「憎きライデンのやつらをやっつけるんだ」というふうに表現する。ギルベルトにとっても敵であり、島の人々にとってもギルベルトは敵だった。ギルベルトはあえてそういう島で過ごしていた。それが戦争の指揮者だったギルベルトにとっての贖罪だった。
そのエカルテ島の環境を見ると、小さな島だが、島全体に木はほとんど生えていない。荒涼とした岩肌に、点々と草が生えているだけ。降雨量が極端に少なく、土に湿り気がないから自然がつきにくい土地柄ということがわかる。
産業の中心はおそらく漁業だっただろう。しかし若い男性をまるごと喪ってしまったために、漁業はほぼ壊滅。乾燥した地域だからこそ、唯一の産業としてブドウ栽培があるようだ。(漁業が壊滅したから、ブドウ栽培に力を入れているのかも知れない)
自然の厳しさに加えて、働き手がまるごといなくなったために、厳しい生活を強いられている。そんな島で、海に感謝するお祭りのようなものが開催されるが、「祝祭」にありがちな華やかさはまったくない。そもそも、そういう特別な日を祝うだけの余裕が島にはないからだろう。おそらく漁業そのものが途絶えかけている状況で、「海への感謝の祭り」もこの世を去ってしまった男達の鎮魂の祭りに変わろうとしている。映画前半の華やかなお祭りと対比となっている光景だ。
そうした荒廃した島に、ギルベルトが身を潜めるように過ごしている。ギルベルトの内面そのものを描いたような風景になっている。表現としてある種の「あの世」のような風景だ。そこが生きているのか死んでいるのかわからないギルベルトが身を置く場所……として描かれている。ギルベルトとしても、自身の内面が映されているような気がして、その島から離れられなくなっているのだろう。
(かなり邪推だが……島の人々がギルベルトを受け入れたのは、“竿役”だからじゃないか。なにしろ、島の若い男性は1人残らずこの世を去ってしまった。島の人々がギルベルトを歓迎する理由があるとすれば、そういうことだったんじゃないか。が、映像を見ていると赤ちゃんの姿はまったくなく、子供たちはみんなある程度育っている。みんな戦争前に生まれた子供たちだ。ギルベルトはどうやら島の女達と一切性的な関係を持っていない。ギルベルトが竿役として歓迎された……というのはどうも私がエロ漫画を読みすぎたせいによる邪推だった)
そんな島にヴァイオレットとクラウディア・ホッジンズが訪ねてくる。間もなく、ヴァイオレットとホッジンズはギルベルトが生存していることを確認するが……。
そんなヴァイオレットとホッジンズに、子供たちは“カマキリ”の死骸を見せて脅かそうとする。そのカマキリの死骸には片腕がない。カマキリが示しているのはギルベルトだ。カマキリは狩人=軍人を示している。そのカマキリを見せられて、ホッジンズは「うわっ」と飛び退くが、ヴァイオレットは冷静に受け止めている。ギルベルトと会った時の2人がどう反応するかを予告している。
しかしカマキリは死んでいる……。ギルベルトは生存しているが、精神的には死んでいる。ギルベルトは閉じこもって、ヴァイオレットに会おうとはしない。
それで、ヴァイオレットはギルベルトに手紙を書くのだが……。その渡し方、というのがちょっと変わっている。ブドウを運ぶ用のゴンドラに乗せて、届けている。これはヴァイオレットとギルベルトが生きている場所が違うから。ギルベルトは生存しているけれど、ある意味「死の世界」にいる。その死の世界の人に送り届けるから、人の手で直接……ではなく、ゴンドラで届ける、という表現になった。
その後、ついにヴァイオレットとギルベルトが邂逅することになるのだが――その最後の場面が海。映画の前半、ヴァイオレットはずっと海を見詰め、海を背にしていた。これは海の向こうに想い人がいる……という予告だった。また海は昔から「あの世」と「この世」の端境として考えられていた。ヴァイオレットは海を見て想いを馳せていた……ということはあの世にいる人に想いを馳せていた……という意味だ。
それで、最後のシーンでヴァイオレットはその海を泳いで、ギルベルトと再会する。あり得るはずのない、あの世にいるはずの死者との巡り会いを描いた場面だ。これが映画最後の、感動的な「奇跡の瞬間」として描かれる。
ユリスは死後の世界から、生者に手紙を送っていた。ヴァイオレットも同じく死の世界にいる人に手紙を送り、その相手を復活させた。手紙であれば想いは届く……。手紙で言葉を贈る意義を最後まで貫いた作品だった。
ヴァイオレットとギルベルトの感動的な再会が描かれた後、その数十年後、デイジーが祖母に手紙を書いたという伝説のドールの足跡を求めて、ライデンへ行き、その次にエカルテ島を訪ねる。
ヴァイオレットは16歳でクラウディア・ホッジンズに引き取られてCH郵便社で働くことになり、18歳でCH郵便社を引退し、エカルテ島に移った……と語られる。CH郵便社は戦後、クラウディア・ホッジンズが発起人となって設立した会社だった。それもその後、国の事業として引き取られて、デイジーの時代では郵便社は博物館に変わっていた(博物館の管理人は、郵便社で受付をやっていた女性だ)。ということは、意外と歴史が浅く、思いのほか早く歴史から消えてしまった場所だったんだな……。
ヴァイオレットは引退後、エカルテ島に移り、代筆業の仕事を続けたそうだ。そういうこともあって、島では今でも手紙を書くことが伝統として、習慣として残り続けたという。
(もしかしたらエカルテ島は貧しい島だったから、電話が来るのが遅かったから……というのも理由だったんじゃないか、という気がする)
どうしてヴァイオレットの物語が終わった後、デイジーのエピソードが描かれたのか。それはヴァイオレットという「伝説」を描くためだ。かつてドールという仕事があって、ヴァイオレットという有名な人がいた……デイジーの時代では、もうそれは“遠い昔”のお話になっている。
そもそもヴァイオレットという人間自体、かなり異質だった。出自不明。どこかの戦場で拾われたらしい。まず軍人として教育を施されたが、異様な習熟度で少女ターミネーターとして育っていく。その後はドールに転身し、やはり異様な習熟度で間もなく業界トップの存在になっていく。
ある種の超人的な存在。ヴァイオレットが何者だったのか、という解説はとうとう作品の中では描かれないまま。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はかなりリアルに世界観が組み立てられていたが、その中にあってヴァイオレットという人物だけがどこか浮いていた。どこか超越的な存在のまま、最後まで進んでしまった。
そういった人物を、最終的には「伝説」として捉える。かつて、そういうすごい人がいたらしい……。そういうかつての偉人のような存在として、ヴァイオレットを立たせる効果をもたらしている。
もう一つ、かつて自動主機人形ドールと呼ばれる職業があった。その時代が遠い過去になったことで、そうした職業があったらしい、と想いを馳せさせることで「そんな時代も良かったのではないか」と思わせてくれる。現代に較べれば圧倒的に不便な時代だったけれども、その時代だからこそ良かったものがあったのではないか。
その後の時代では電話があまねく全世帯に置かれるようになり、言葉は一瞬で相手に送られるようになった。さらに後になればメールの時代に入り、電話よりも早く相手に届けられる。私たちの世代では、メッセージは1人に向けてではなく、あらゆる人に向けて送られるようになった。そういうその後の時代からすると、ちまちま手紙を書いて、郵便局へ送られ、やっと相手の元に届く、というのは時間が掛かりすぎて不便。だが、だからこそ届く“想い”があったんじゃないか。時間をかけて想いを乗せるからこそ、相手に届くものがあったんじゃないか。それこそ、現代人では考えも付かない、心の交流が、手紙だったからこそあったのではないか。
私たちはあまりにも便利な時代に生きているので、かつての時代でやってきたものには戻れない。手紙の有用性をこの物語の中で見たとしても、そこに戻ることはできない。便利な文化もまた、「パンドラの箱」であるのだ。
デイジーの時代のライデンは、一応ファンタジーではあるのだけど、もはやファンタジーという感じにはまったく見えない。まるで現代のパリのような風景になってしまっている。ドールもヴァイオレットもファンタジーの時代の産物……だがそれも過去のもの。あの頃だからこそあり得て、あの頃だからこそ輝いていた。デイジーというその後の現代の姿を見せることで、近代の頃までにはあったかも知れないファンタジーがより極まっていく。それが喪われたしまった時代だからこそ、輝いて見える時代の物語がある。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はライトノベルとして発表されたのだけど、内容を見るとほとんど文芸作品にしか見えない。とにかくも世界観構築が見事。時代描写、人物描写が見事。時代の端境期で文化観が変わる瞬間や、人間の意識が変わる瞬間を描いた……なんてライトノベルはこの作品の他に聞いたことがない。そこまで描いた作品になると、純文学作品でもほとんどない。
描かれるどのエピソードもハズレなしの傑作揃い。その劇場版はシネスコープで制作されて、あまりにも風格のある映像なので、どこか「架空世界の物語」というより、いつかの時代に本当にあった物語にすら見えてしまう。「ライトノベル」という枠組みを完全に超えた、新しい形の文芸作品ではないか……とすら感じる。
その劇場版は“ほとんど”非の打ち所のない作品であるが、一つだけ、引っ掛かりがあった。というのも、カット構造が最後までテレビ感覚のまま。シネスコープの映像なのに、手や足元のクローズアップが多い。ああいった構図は、“テレビの画”だ。
カット割りも思いのほか早く、数ワードごとにカットが切り替わる。わかりやすくキャラクターのリアクション表情を見せる。こういうのも“テレビ的な演出”だ。
映像ははっきり言って、業界最高のクオリティに達している。だったらその絵を、堂々と見せて欲しかった。それだけの力が絵にあるはずだ。
テレビ的な見せ方というのは、はっきり言えば「集中力のない人に向けた」ものだ。テレビの視聴者というのは、映画の視聴者よりも基本的に集中力がない。日常の雑音がすぐそこにある状況で見るので、テレビだとどうしてもしっかり集中できない。日常の雑音も問題だが、テレビは15分おきにCMが入り、そこでも集中力が途切れさせられる。そうした集中力のない状態のお客さんに見せる文化であるから、テレビはとにかくも「わかりやすく」を至上命題に作られる。
テレビアニメの場合、いちいちキャラクターのリアクションを顔で描く。怒りの表現になったらわかりやすく拳を見せる。動揺すると足元を見せる。記号的な描写。これも集中力の低いテレビのお客さん向けに作られる作法だ。
劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の唯一の引っ掛かりどころは、このテレビの演出作法で作られていること。「これは映画的な画の見せ方じゃないな……」というところだらけ。おそらく、ずっとテレビシリーズで育ってきて、映画的な演出の作法が身についてないからかと思われるけど……。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はとにかくも、画面のクオリティだけを見ると、業界トップクラスだ。どのカットも美しい。だからこそ、その絵の美しさを、堂々と見せつけてほしかった……という思いが残る。
ストーリーもいい、画面もいい。世界観にも風格がある。しかし作法がテレビのまま……。これが惜しい。あと一歩のところで映画になりきってない。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』は間違いなく名作アニメだ。誰に聞かれてもそう答えられる。最高のアニメ映画だ。ただあと一歩で映画になりきっていない。点数を付けると、100点満点中95点。そこだけが惜しい。