11月25日 無害なエンタメなどない。
まったくの無害なエンタメなど存在しない。
実例を示そう。
『トップガン マーヴェリック』は特に思想性のない、いかにも脳天気な娯楽エンタメだ。この作品には“ならず者国家”というよくわからない敵が登場してくるが、これはロシアのこと。現実の政治に物語が引きずられないよう、あえて曖昧にしてある。
この作品が提示しているのは「人間主義」。現代はテクノロジーの進化がめざましく、いよいよ人間は必要ないのではないか……そう言われつつある。空中戦もやたらと高額な戦闘機を運用するより、ゲーマーにドローン操作させたほうがはるかに安上がり。
ところが『トップガン マーヴェリック』が言いたかったのは、「人間は凄いんだ!」。映画中のミッションは、妨害電波の激しい敵地に突入して、ウラン濃縮プラントを破壊してくること。そこで最新鋭F-35ではなく、F-18が投入された。わざわざ一世代古いF-18が選ばれたのは、最新鋭F-35はハイテクマシンなのでハッキングの可能性があったからだ。
コンピューターの手も借りない。人間の力だけでこれだけことをやり遂げることができるんだ! そういう物語だから、CGショットも少なめ。戦闘機に乗る俳優のコクピット映像も、ほとんどが本物(ただし操縦はその後ろに乗っているプロがやっている。俳優は操縦のフリ)。ミサイルを撃ち合う場面なんかはさすがにCGだが、CGなしのフライト映像でもここまでやれるんだ……ということを見事に見せつけてくれる。
さて、こんな作品を観た観客はどう思うだろうか。いや、“どう思うようになる”だろうか。
観客の半分くらいは「あー楽しかった」で終わるだろう。しかし影響を受けやすい人たちは「やっぱり人間の能力は凄いんだ! 人間の能力は尊いんだ! コンピューターなんかに頼らなくても人間は凄い力を発揮できるんだ!」……と思うようになるだろう。映画の側も「観ている側にそう思って欲しい」と願いを込めながら作っている。
こんなふうにエンタメは見る人の“価値意識”に干渉している。何を善とするのか、何を悪とするのか。新しい文化をどう価値判断するのか。差別を受けている人に対し、どう振る舞うべきか。という以前になにを差別として提起するのか。今の社会的な問題とは何なのか。エンタメにはそれを提唱するだけではなく、見る者に「こう思うべきだ」と働きかける力がある。
それはだいたいにおいて、良き作用をもたらすのだが、しかし時として有害な作用をもたらすこともある。
倫理観を規定するエンタメ
エンタメはたんなる娯楽として消費されるだけではない。見る側に何らかの価値観や倫理観に影響を与えようとしている。作品を通して「こうあってほしい」「こうあるべきだ」……作り手は誰でも「提唱者」でありたいと思っている。なにかしらの“メッセージ”を込めたい……と作り手であればそう考える。
例えば『ゆるキャン』。一見するとなんのメッセージ性もない無害な作品に見えるが、この作品を切っ掛けにキャンプを始めました……という人はわりと多い。コアなファンは、作品の舞台となった山梨に移住しました……という人もいる。
ということはこんな作品でも、それだけ人の価値観や行動に干渉するだけの力がある……ということだ。一方で作り手も、「自分が大好きなキャンプの良さを、色んな人に知ってもらいたい」という想いが創作の動機になっているはずだ。その想いは、確実に見る人の価値基準に影響を与えている。
こんな作品も、まったくの「無害」ではなく、見る人の価値観・道徳観に干渉する。
もちろん、すべてのエンタメがこんな野心に燃え上がって作り出されるわけではない。既存の価値観や倫理観に干渉することなく、ただ消費するだけの作品が大半だ。とはいえ、「提唱するものがあるかどうか」は創作の価値基準の一つでしかないので、そういうただ消費するだけの、ある意味で「有象無象の作品」にも充分な存在意義はある。
ここでは2007年の映画『それでもボクはやってない』を例に話を掘り下げていこう。
『それでもボクはやってない』の主人公は、ある就職面接の日、電車で「痴漢」の容疑で逮捕されてしまう。もちろん、主人公はそんなことはやっていない。しかし主人公は逮捕され、拘留され、裁判になってしまう。就職の話も流れてしまう。
「罪を認めれば、前科は付くがすぐに解放されるぞ」
そう言われるが、しかしやっていない――主人公は無罪を主張するために裁判に挑む。
というストーリーだが、この作品ははっきりと「痴漢冤罪の理不尽さ」を世に知らしめよう……という意図を持っている。痴漢は冤罪をかけられたら最後、何日も渡って拘束され、高圧的な尋問を受ける。それは「人権問題」としてどうなんだ? 証言一つで、その人の人生を狂わせる痴漢冤罪。それはどうなんだ――という問いかけがこの作品の中にある。
この作品には、そういう問題が社会にあることを提起し、人々に議論させることを促している。この作品を見た人、この作品を切っ掛けに議論した人々の意識の中には、「痴漢冤罪」の恐ろしさ、理不尽さが頭の中にインプットされるはずだ。そうなれば、この作品を見た前、後では価値観の一つが確実に変わったといえる。
こうした提唱を行う作品はまだ良い。それまで議論されていなかったものを議論させる切っ掛けを作る。だが全ての創作が、こんな肯定的な意義があるわけではない。
暴走するエンタメ
こんな話がある。
「スーパーマンになれる」VRゲームを体験させた後、このゲームのプレイヤーは日常生活でも善意に基づく行動を積極的にするようになったという。
エンタメが現実の人間の価値観や行動を変化させる……ということに懐疑的な人間は多かろうが、研究による実証も存在する。
しかし、「正義に基づく行動」はエラーを引き起こしやすい……という問題を抱える。
2020年代初頭、世界的にコロナウィルスが蔓延した。そのコロナウィルスへの対策として、「マスクを着用しよう」が世界的な合い言葉となった。
が、だからといって全ての人が大人しくマスクを着用したわけではなかった。問題なのはマスクをしなかった人ではなく、マスクをしなかった人への制裁。この当時、日本中のあちこちで「マスクを着けろ!」を切っ掛けとする大騒ぎがあった。なかには「マスクを着けなかった人への制裁」として、自宅からスコップを持ってきて殴りつけた……という話がある。これは極端な事例としても、こんな話は日本中各地で起きていた。
マスクを着けなかった人への制裁……その制裁のために起きてしまった暴力行為。いったいどういう動機の上に起きたのかというと、【正義感】。
「マスクを着けることは社会的ルール……全ての人がこのルールを守るべきだ……このルールを破る奴は許せない! 制裁を加えていいはずだ!」
マスクを着けなかった人に暴力を振るった人はどんな人か……それは「正義感の強い人」である。正義感に基づくはずの行動が、ある局面でエラーを引き起こす。
こういう行動を心理学用語で「サンクション」と言うが、人はしばしばサンクションを引き起こす。しかもそれは、正義感の強い、道徳的な人間の中にこそ起こる。
次の話題は、テレビのニュースショーだ。
テレビのニュースショーは「情報番組であってエンタメではない」と指摘する人もいるかと思うが、いやいや、あんなものが情報番組であるわけはない。ごく普通のエンタメである。テレビでやっているニュースショーのほとんどは、世の中の状況や事件といった情報を国民に知らせねば!……という意図で制作されていない。世の中の事件を切っ掛けに、いかにして視聴率を稼げるか……こっちが作り手にとっての本題である。「情報」より明らかに「エンタメ」の側に傾いている。
その視聴率を稼ぐための手っ取り早く確実な方法は「悪役」を作ることである。悪役を作り出し、その悪役を全員で叩くこと。「勧善懲悪」のストーリーに変えてしまうこと。テレビのニュースショーがなぜいつも難しい顔をして、世の中の悪を仰々しく表現するのか……それは視聴者の「正義感」を喚起させるためだ。「正義感」という感情に逆らえる人はいない。この正義感を喚起させて、事件に注目させる……そうすれば自分たちに注目が行く。テレビの作り手はこれをよーく熟知している。それは普遍的な漫画や映画でやっているエンタメの手法となんら変わりはない。ただメディアの形が違うだけだ。
という前提を踏まえて、ある事件を見てみよう。
2024年、世間を大いに騒がせた事件といえば、「兵庫県知事 斉藤元彦パワハラ騒動」である。
報道の始まりは、2024年の3月頃だったと記憶している。
兵庫県知事・斉藤元彦のパワハラがひどいらしい。職員達が毎日のように暴言や理不尽な指示を受けているという。交流のあった企業からは、物品のおねだりもあったという。さらには斉藤元彦のパワハラで職員の一人が自殺に追い込まれた。これを切っ掛けに不信任決議が出され、全会一致で失職となった。
が、逆転劇はこの後起きる。
まず「おねだりを受けた」という各企業が次々と「そんな事実はない」とネット上で報告。結局「おねだり」は一件もなかったことが証明された。さらにはパワハラを受けたという話のほとんどが伝聞で、当人による証言が一つも出てこない。逆に出てきたのは、兵庫県周辺にうごめく利権構造。自殺した職員も、「パワハラによるもの」ではなく、どうもPC内に自身の不倫にまつわるデータが大量にあったため、それがバレることを恐れて……ではないかといわれている(真偽は現時点でまだ明らかになってない)。
ここまで来ると、ネット上の「探偵」たちは「斉藤元彦は兵庫県の利権集団に嵌められたんじゃないか」と推測し始める。斉藤元彦はこの利権と戦おうとして、今回のようなデマをメディアに流されたんじゃないか……。
これが世の中に一気に広まり、11月17日の兵庫県知事選で斉藤元彦が知事として返り咲きをする。
この一件は今も事件が二転三転しているので、いまだにどこに着地するかよくわかっていない。
(※これを執筆しているのは2024年11月25日)
この事件と対比になるかわからないが、こんな事件を取り上げよう。
1998年、日本中を騒がせる事件があった。
和歌山県和歌山市、とある夏祭りの後、祭に参加した人々が次々に倒れる事件が起きた。この夏祭りで振る舞われたカレーにヒ素が混入されたのだ。「和歌山県カレーヒ素混入事件」である。
捜査当局は毒物混入・無差別殺傷事件とみなし捜査を始める。間もなく容疑者として浮かび上がったのが林眞須美。林眞須美は間もなく逮捕されて、2009年死刑が確定している。
私はこの当時のことをよく覚えているが、テレビは連日この事件を報道していた。テレビを付ければ、どのチャンネルもこの事件一色。日本中が大騒ぎになっていた。警察関係者も頻繁にテレビに出てきて、捜査の経過を説明する場面もあった。まさに「報道史に残る大事件」だったと記憶している。
しかし、今この事件について「冤罪疑惑」が持ち上がっている。というのも、そもそもの話、林眞須美はいつどこでヒ素を手に入れたのか? ごく普通に暮らしている主婦が手に入る代物ではない。実は当時の捜査当局は、「林眞須美がどうやってヒ素を手に入れたのか」という問題を解消していない。さらに「いつカレー鍋にヒ素を入れたのか」も明らかにできていない。「とにかく林眞須美がヒ素を入れたに違いない」という前提の元に捜査し、そのための証拠を集め、逮捕に踏み切った……。
林眞須美は当時から無罪を主張し、今も主張し続け、裁判所に再審請求をしている。
映画『マミー』予告編。林眞須美の息子が、当時を回想し、事件の真相を検証するドキュメンタリー映画だ。
和歌山カレー事件報道は私も覚えているが、報道を切っ掛けにする世間のバッシングは凄まじいものだった。誰もがこの事件を話題にし、その犯人とされる林眞須美を攻撃していた。誰もがマスコミの言い分を信じていた。
しかし今にして思えば……まだ裁判で容疑が確定していない人間を容疑者扱いしてはならない。容疑が確定するまではあくまでも「被疑者」であって「犯人」ではない。まして報道で犯人を断定するように語ってはならない。これは報道の基本である。当時は警察関係者がテレビに出て、事件の経過を語る……ということもやっていたが、いま思えば「ダメだろ、それ」というような話。すべての面において「ダメだろ」だらけな事件だった。
それをマスコミはやった。そして日本中が“乗せられた”。マスコミに乗せられ、特定の一人を叩き続けた。「この人は叩いていいんだ」と。
なぜ日本中がそういう行動を取ったのか――それは「正義」だからだ。人は悪意に基づく行動より、正義に基づく心情に振り回されやすい。正義の名の下であれば、いくらでも叩いてもいい。そう思い込む。「正義に基づく行動」はエラーを起こしやすいのだ。
二つの事件を並べてみるとわかるが、マスコミは斉藤元彦の件でも、同じ手法を使おうとしていた。たった一人の人間を悪役にして、一般大衆をまきこんだ「裁判ショー」をテレビ上で展開しようとした。ところが大失敗した。これが25年の間に起きた変化。25年間、テレビが変わらなかったという実例である。
もしもあの時代にネットがあったら、この事件の反応や経過はどうだっただろうか……。和歌山カレー事件は、事件後25年たってようやく「冤罪の可能性」が議論されはじめている。25年である!
斉藤元彦は報道から半年後にはネットの力で、形成が反転した。それだけ時代は変わった……ということがわかる。
すれ違う「正義」
2024年、報道は立て続けに「敗北」した。
1度目の敗北は2024年11月アメリカ大統領選挙だ。日米の新聞・テレビはカマラ・ハリスを猛烈に支援し、カマラ・ハリスにまつわる不都合な情報は報道しない、カマラ・ハリスを支持しない人に対する差別を扇動するような報道までやった。ところが蓋を開けてみればトランプが圧勝。テレビ・新聞では「僅差でどっちが勝つかわからない」……と語っていたはずなのに。
2度目の敗北は、同じく11月兵庫県知事斉藤元彦再選。テレビ・新聞は今年初めから連日のように斉藤元彦のパワハラ報道をやっていたのだけど、ネットでそれが覆されてしまった。テレビ・新聞は総力を挙げて斉藤元彦のネガティブキャンペーンを張り、選挙で落選させようとしたが、しかしその努力むなしく再選した。
マスメディアの「絶対的権威」というメッキが剥がれかけている……それを示唆する事件である。
ここではマスコミを攻撃する意図はない。なぜマスコミがそのような“歪んだ”報道をして来たのか、そしてやり続けるのか……というのが本題だ。
キーワードはやはり「正義」だ。マスコミが提唱したかったのは「正義」だ。間違っても「悪」ではない。しかし実際には正義と悪の転倒が起きてしまった。それはなぜなのか?
アメリカ大統領選挙を見てみよう。
カマラ・ハリスを(あるいはバイデン大統領)が擁する民主党は、「多文化共生」を掲げていた。異文化を排除するのではなく、受け入れよう。寛容性の高さを見せつけることが、進んだ国の文化としての有り様だ。移民を受け入れ、“移民にやさしい政策”をどんどん実行しよう。
次に経済グローバリズムだ。経済的な障壁を撤廃し、世界中が誰でも平等に経済活動できるようにしよう。
お題目だけを見ると、実にキレイだ。いかにも優等生のお坊ちゃんが考えそうな思想が一杯に敷き詰められている。
(共産主義宣言も、話だけ聞くと美しく見える)
しかしこれが混乱を引き起こした。移民を受け入れたことにより、文化的な軋轢が起きて、あちこちで対立が起きている。経済グローバリズムを推し進めた結果、一部の巨大企業が世界の市場を食い荒らし、多くの人々が失業して低賃金労働が蔓延した。世界が平等になるのではなく、一部の人に利益が集中し、他が貧困に陥るだけだった。
アメリカ民主党政権下で世の中に溢れたのがSDGsとLGBT……要約すると「ポリコレ」思想だ。
ポリコレも一見すると「美しい思想」に聞こえる。しかしポリコレを現実にすると、そこにあったのは「歪んだ世界」だった。思想は美しく聞こえるが、実際に画面としてみると、それは不気味な世界だった。
西洋には歴史的に築き上げてきた「伝統的な美意識」というものが当然あるわけだが、私にはポリコレによってこの美意識が崩壊し始めているように見える。
これがある人たちが持っていた「正義」だった。正義であるから徹底すべきだ。これに異を唱えるものは「悪」だから、いくらでも攻撃していい。
その思想が、こんな事件が起こす。
『あの子もトランスジェンダー』という本が日本で出版されるという時、とある界隈の人々が大バッシングをした。
「ヘイトスピーチだ!」「こんな本は出版してはいけない!」
騒動を受けて、KADOKAWAはこの本の出版を見送り。産経出版から『トランスジェンダーになりたい少女たち』とタイトルを変えて出版されることとなった。
私はまだ読んでないのだが、要約を見ると、アメリカにおけるLGBT教育にまつわる“問題”が取り上げた本となっている。アメリカではLGBT教育が“非常に進んでいる”ため、幼少期から、男らしさ、女らしさを否定する教育を熱心に勧めている。その影響で、「私はトランスジェンダーかも知れない」と思い込む少年・少女たちが出てくるようになった。そして実際に性転換手術までしてしまう子供も出てきてしまった。教師やマスコミはこの現象を「素晴らしい、素晴らしい」と讃えたが……。
それからさらに数年すると、「トランスジェンダーという思い込みは勘違いだった」と語る少年少女たちが出てくる。当時はそう学校で教えられ、「そうなんだ」と思い込んでいた。しかしすでに性転換手術までしてしまって、後戻りができない……。
という事例がいくつも起きている――ということを報告する本だった。ヘイトスピーチでも何でもない。LGBT教育を徹底しているがゆえに起きた“社会的な歪み”が語られた本だった。
それでも、この本をバッシングした人たちを擁護的に見てみよう。なぜ彼ら・彼女らはこの本を「ヘイトスピーチだ!」と大騒ぎしたのか? それは「正義感」だった。
今やポリコレはエンタメ世界でも強烈な影響力を持っている。ポリコレに違反した描写をすると、“教養高い良識的な人々”に容赦のないバッシングが向けられる。大きな企業ほど、ポリコレに配慮に配慮を重ねた内容にしなければならない。
例えば、今年アメリカでヒットしたドラマ『SHOGUN -将軍-』にはこんな批判がある。
「このドラマは人種に配慮されていない。なぜ黒人が登場してこないのか。この時代の日本にも黒人がいたはずだ」
鎖国をやっていて、ほとんど外国人のいなかった日本に、黒人がいるわけがない。いたとしてもごく少数だ。
しかしポリコレを重要視する人々にとって、黒人がでているかどうかこそが最重要懸案なのだ。すべてのエンタメ作品の重要キャラクターに黒人が一人いなくてはならない。レズ・ホモもメインキャラクターにいなければならない。そしてこれらをヒーローとして描写しなければならない。
黒人侍を主人公に据えた『アサシンクリードシャドウ』は、まさに「ポリコレの優等生」的な作品だった。“人種に配慮”し、戦国時代の日本に黒人の侍が登場し、ヒーローとなる作品だった。この作品を制作したUBIは、作品を発表すれば世界から称賛されると思ったことだろう。
ところが、大炎上である。理由は「日本の歴史・文化を尊重していない」。
おわかりいただけただろうか? ドラマ『SHOGUN -将軍-』の例を見てわかるように、ポリコレを声高に叫ぶ人たちは、「日本文化」よりも「黒人がいるかどうか」のほうを重要視している。ポリコレの価値基準の中では、日本の歴史や文化なんて、どーでもいいのだ。「ポリコレの落とし穴」がどこにあるのか、気付かなかったからこそ起きた騒動だ。
今から8年前、アメリカ大統領選挙はトランプとヒラリー・クリントンとで争っていた。この時、勝利したのはトランプだった。
敗北したヒラリー支持者はこう語る。
「トランプに投票したのは、学歴のない、教育を受けていない人たちだ」
実はこの指摘は正しい。事実としてヒラリー・クリントンに投票した70%が大学卒の学歴を持っている人たちだった。
その8年後のカマス・ハリス支持者はこう語った。
「トランプに投票したのは、学歴のない、教育を受けていない人たちだ」
まだ選挙が終わって間もない時期なので総括などは出てきていないが、おそらくカマス・ハリスに投票した大多数は高学歴エリートたちであろう……と私は推測している。
移民を受け入れよ、LGBTを尊重せよ……こうしたポリコレは、学歴エリート層にこそ広まっている思想だ。ではポリコレ思想が広まった富裕層、学歴エリート層から“差別”の意識は消えたのか?
いや違う。差別の対象が変わっただけだった。
それを解き明かしたのが、マイケル・サンデルの『実力も運のうち』。いま富裕層、学歴エリートたちの間で蔓延する差別が「階級差別」「学歴差別」だ。なぜなら階級差別は、エリートたちにとって「正論」だからだ。
「学歴や富を築けなかった人たちは怠け者なのだ。そういう人間に対する攻撃は正論である!」
……エリート達は本気でこう考えている。
さらに「人種に配慮しない、LGBTに対して配慮しないのは、学歴を受けていない、馬鹿な人たちだ!」
……なんてことも言っちゃってる。
これはこれで、彼らたちが考え出した正義。低所得・低学歴はこの正義に反するから攻撃していい……これが彼らのエラーを起こしている部分だ。
しかしエリートたちが日常的にやっている差別は、差別と認識されていない。
差別とは、それが差別であると社会的に認知されていないもののことを指す……と私は考えている。社会的に認知されている差別は、もはや差別とは言わない。社会的に認知されている差別であれば、わざわざその差別をやろう……という人は少ないからだ。
人間の認知能力は不完全だから、社会的に差別と認識されているものに対する差別を積極的にやろうとしないが、しかし差別であると認識されていないものであればいくらでも攻撃していい……と解釈してしまう。それどころか「正義だ!」とすら考えてしまう。最上級の教育を受けた人々であっても、この判断ができない。いやむしろ、エリートほどこの判断を狂わせやすい。その実例は世の中に一杯一杯ある。
エリートたちの中で共有されている差別は、移民や人種やLGBTであり、これが彼らの絶対正義となっている。この正義に異を唱えるやつらは許せない。正義に反するやつらであるから、いくらでも制裁を加えてもいい――そういう歪みを引き起こしているのだが、彼らは気付かない。周りの人から見れば、彼らの異様な差別意識が見え過ぎちゃっているのだが。
最近は日本でも移民だ、LGBTだ……と騒がしい。これに異を唱えると、すぐに「ヘイトスピーチだ!」「ファシズムだ!」の大バッシングになる。しかもこう言いがちな人のほとんどが、学歴エリートたちだ。
なぜそのような反応が来るのか、それが彼らの正義だからだ。そして正義に基づく行動はエラーを起こしやすい。正義を守るためならいくらでも暴力を振るってもいい。そのように考えてしまう。正義に振り回された結果、暴力を振るうようになる。そうなったとき、正義は裏返って「悪」になる。
その最前線にいるのはいつもテレビ・新聞を中心とするマスコミだ。彼らはいつも「自分たちこそ正義の立場にいる」と信じている(今のアメリカ的な言い方をすると「歴史の正しい側にいる」)。マスコミは正義の性質をよく知っているから、人々の道徳心を喚起させる手法はよく知っている。
マスコミが、庶民の目線から見ると奇妙に見える報道傾向も、彼らにとっての正義に基づいている。ただその正義が、彼らだけの閉じた世界だけのものになろうとしてる。マスコミはすでに世論の中心ではなく、世論から浮き上がった存在に……。ある意味の「裸の王様」状態であるが、そのことに自覚できているマスコミ関係者はいない。
ある意味、富裕層やエリートたちと同じ所に陥っている。だからこそ、彼らは世の中の流れが読めなくなりつつある。
「正義」をコントロールできず、動物化する現代人。
人間は「正義」に基づく行動をコントロールできない。「それが正義だ!」となったらどこまでも暴走していく。例えば戦争状態になっているとき、だいたいにおいて自分たち側が「我らこそ正義だ」という心理になる。我らこそ正義、だから敵である鬼畜○兵はいくらでも殺していいのだ! ……となる。
ネットの世界になり、日々何かしらで炎上している。なぜ炎上が起きるのか? それは多くの人の正義感が刺激されたからだ。
世の中の誰かが、何かしら不適切な行動や発言をした――許せない。そんな悪は叩かねばならない!
それが集積して炎上ということになる。
しかし炎上というほどのバッシングになったものは、もはや正義が裏返って「悪」だ。いったいどんな権利があって、その人間を叩いていいことになったのか? 私刑は私たち普通市民の権利の中には含まれていない。犯罪者がいたとしても、それを裁く権利は私たちにない。いつから私たち一人一人が裁ける立場であると勘違いした?
そうはいっても、正義に基づく行動をしたがるのは、私たちにとっての本能だ。正義的行動を達成すると、実に気持ちいい。いいことをした、という気分になる。正義はある意味、最悪の「麻薬」にもなる。私たちはネット上の「悪」を探し、叩くことをやめられない。一種の中毒のような状態になっている。世の中の誰かが叩かれているのを見ると、ついその流れに乗りたくなる……その誘惑に逆らうのが難しい。
ネットの時代になり、多くの人がそこに流れる「正義」という誘惑に流されている。これこそ「文明人の末路」。動物化が始まったといえる事態である。
1933年、ドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチス党が政治の舞台に出現した。現代人は勘違いしやすいが、革命かなにかでナチス党が政権を取ったのではなく、普通の選挙で議席を獲得して政権を獲得した。
ではナチス党を支持した人たちはどんな人たちか? 保守的で、倫理観、道徳観の高い人たちだ。当時のドイツは、政治的にも経済的にも破綻した状態だった。文化的にもアバンギャルドが流行しはじめて、崩壊しかけていた。そこでヒトラーが現れ、「伝統的で強いドイツを取り戻そう」と宣言した。その言葉に、ドイツ人たちは心惹かれたのだ。
正義感はエラーを起こせば、周囲の人々をいくらでも殺してもいい……という口実にもなる。極端な話をすれば、こういうことになる。
こんな人々の道徳心を喚起しているのはなんであるか? それがエンタメだ。
エンタメと接することで、人々は道徳の規範を作る。多くのエンタメを接することで、この規範は強固なものになる。
新しい時代が訪れたとき、新しい規範はどうあるべきか、その提起を行うのがエンタメの役割だ。それは昔からそうだったし、これからの将来もそうなるであろう。それ自体は意義のあることだ。
今回は、「創作のエンタメ」「報道におけるエンタメ」の2つの事例を示したが、私の経験的に見て言えることは、「報道におけるエンタメ」こそ最悪だ。「創作のエンタメ」がそこまで社会的害悪に陥った例はあまり聞かない。むしろ創作のエンタメによる影響は多くの人にポジティブな影響を与えたはずだ。
(「創作によるエンタメ」がまったく無害とも言わない。創作は「正義とは何か?」を提唱するが、しかしその規範に加わらないものはいくらでも攻撃していい……「攻撃していいんだ」というメッセージを送ってしまうことはよくある。漫画やアニメも、特定の傾向の人々を、攻撃するよう差し向けてきた……それは偽らずに指摘すべきだ。ここからの話は有料エリアで)
しかし報道におけるエンタメは、世の中をかき乱すだけかき乱し、責任を取らない。最悪のものだ。25年前の「和歌山カレー事件」を取り上げたが、あんなふうに「報道によって一方的に悪役にされて私刑」にされた人が今までいったい何人くらいいるだろうか……。
そんな報道が、私たちの価値規範の多くを作り出してきた。その事実に、寒気がする。私はずいぶん前に、「テレビを見ること」をやめたけれども、しかし私の知識の多くやテレビ発のものだ。価値規範の多くをテレビから学んでしまっている。時々、ふと思い出して「テレビで仕入れたあの知識は正しいだろうか」と調べてみると、だいたい間違っている。テレビ発の知識の多くは、エビデンスなんてなかった。私はテレビから離れてだいぶたつが、いまだにテレビで得た知識や価値観が正しいか、こうやって審査し、是正しなければならない……ということをやっている。
今まで「報道におけるエンタメ」がほとんど疑問視されず、野放しされてきた……ということがあまりにも恐ろしい。
正義や倫理観は確かに必要だ。しかし、それが強すぎると問題も起きる。人間の正義感はエラーを起こしやすい。「正義のためならどんな罵倒も暴力も許される!」正義の制裁者になりたがる人が出てしまう。
ルールを守らない奴がいる、倫理に反する行動を取る奴がいる……そういう人間を見つけて、全員で「それ叩け!」――この流れはいつまでたっても終わらない。
もうちょっと続きます。
続きは有料になりますが、たいしたことは書いてません。あーあれも書いておかなくちゃな……と思ったことをぼんやり書いただけすので、そのつもりで。
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