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映画感想 ノースマン

 略奪者の歴史と伝説。

 クセモノ映画を撮り続けているロバート・エガース監督長編映画3作目。これまで低予算の個性的な映画を指向してきたロバート・エガース監督だが、本作『ノースマン』で初めて予算をかけた大規模映画に挑戦する。
 劇場公開は2022年。制作費は7000~9000万ドル。しかし世界興行収入は6900万ドル。大赤字である。劇場公開時はいまいちパッとしない興行成績であっという間にランク外へと消えていった。ただし、その後の配信では非常に調子が良く、劇場公開時の赤字分をそちらで回収できそうな勢いだという。
 評価は映画批評集積サイトRotten tomatoを見ると385件の批評家レビューがあり、90%が高評価。一方、オーディエンススコアを見ると64%と微妙。しかしロバート・エガース監督作品はいつも批評家受けが良く、一般レビューは微妙……なのでいつも通りである。どうしてこういう評価になっているのかは、後ほど深掘りしていこう。
 作品が作られる切っ掛けとなったのは、主演のスウェーデン出身のアレクサンダー・スカルスガルドが、故郷を舞台にしたヴァイキングや北欧神話を基にした映画の企画を考案していた。しかし企画はなかなかうまく動かず。
 2016年頃、ロバート・エガース監督は妻とアイスランド旅行の最中、ビョークと出会い、彼女から作詞家のショーンを紹介される。ショーンはビョークの音楽によく作詞を提供している。
 その後、ロバート・エガース監督はアレクサンダー・スカルスガルドと会い、意気投合してヴァイキングを題材にした映画を撮ろう……ということで意見が一致。エガースはショーンと連絡をとり、脚本の執筆依頼。こうして『ノースマン』の構想が固まっていった。
 しかし撮影が2020年から始まる予定だったが、コロナパンデミックにより延期。同年8月になってようやくスタート。北アイルランドから撮影が始まり、北欧の国を巡りながら撮影が進行。いくつもの困難を経て2022年ようやく完成となった。

 前半のストーリーを見てみよう。


 西暦895年。北方の小国ラプシにオーヴァンディル王が帰還する。戦争に勝利し、たくさんの略奪品・戦利品を満載にしての凱旋であった。
 しかしその戦争でオーヴァンディル王は手ひどい傷を負わされていた。もはや戦うことはできまい……。息子のアムレート王子に王位継承するため、神殿へ招き、儀式を執り行う。その儀式の最中、アムレートは連綿と続く王家の大いなる歴史を体験するのだった。
 儀式を終えて神殿を出たところで、突如襲撃。無数の矢が飛び、オーヴァンディル王を攻撃する。襲撃者は……王の弟・フィヨルニルだった。
 弟の裏切り――。王が殺され、ラプシ城が制圧される。王妃グートルンもフィヨルニルに奪われるのだった。
「父上の仇を討つ! 母上を救い出す! フィヨルニルを殺す!」
 この誓いを胸にしっかり刻み、アムレート王子は逃げ出すのだった。

 それから十数年後。アムレート王子はとある部族に引き入れられ、ヴァイキングの狂戦士となって各地を荒らし回っていた。
 ある時、ロシアのルーシ族の村を襲い、略奪をした後、廃墟で盲目の預言者と遭遇する。預言者から「誓いを思い出せ!」と叱咤される。
 翌朝、仲間たちがフィヨルニルの話をしているのを聞く。フィヨルニルはハーラル王との戦に負けて、アイスランドに逃れて羊飼いをして過ごしている……という。そんな話を聞いている最中、側にカラスが一羽、下りてくる。そのカラスを見て、アムレートは今こそ復讐の時……と思い立つ。
 アムレートは奴隷に化けて舟に乗り込み、アイスランドへ潜入するのだった……。


 ここまでで前半35分。
 かつてラプシという国の王子だったアムレート。しかし王の弟フィヨルニルの裏切りで、国を追われてしまう。いつか復讐を……と誓って脱出するのだった。
 それから十数年後、ヴァイキングの狂戦士となっていたアムレート。仲間たちとともに略奪の限りを尽くしていたのだが、ある夜、謎めいた預言者と遭遇し、「復讐を思い出すのだ!」と諭される。その翌日、仲間が「フィヨルニル」の名前を出すのを聞いて、運命的なものを感じ、復讐のためにアイスランドへと乗り込むのだった。
 まあざっとこんなお話し。あらすじをざっくり聞くと「典型的な剣と魔法のファンタジー」……のように聞こえるかも知れないが、ロバート・エガース監督はがっつり民俗学を勉強した人。ある意味、確かに「剣と魔法のファンタジー」なのだが、民俗学的に「ガチな剣と魔法のファンタジー」になっている。
 たとえば、ある場面で魔術師が出てくるのだが……↓

 怖い……!
 でも正しい。
 本来魔法使いは、ガンダルフみたいに杖を振り回して火の玉を飛ばすのではなく、こんなふうにトランス状態になって神託を告げたり、呪いを送ったりするような人のことだった。
 ハリー・ポッター感覚でこの作品を見ようと思ったら「ゲッ……」ってなることだろう。でも魔法使いは、もともとこういうものだった。

 戦闘シーンもえげつない。今時のハリウッド映画みたいに、カットで割りまくって格好いい剣劇アクション……を期待したらこれまた「ゲッ……」となる。しかもやっていることは、無抵抗な村人を襲って虐殺……こういうのは「戦争」と言わず「略奪」という。でもおそらく当時の戦争はこんな様子だったんだろう……という戦闘を描いている。
 要するに「厨二病要素」を全排除した「剣と魔法のファンタジー作品」だ。
 本当はもっとこだわりまくっていて、撮影時は「古ノルド語」だったらしいが、試写をやると「何を言っているのかわからない」と指摘されて、アフレコで現代英語に直したんだとか。ほぼ全編アフレコで作り直した……というから、なかなか大変。実はもともと予算6000万ドルだったが、9000万ドルもかかったのはあまりにも内容がガチすぎて現代の観客にはほぼ理解不能だったから、作り直した部分が相当あるという。
 見やすいようにある程度ならしてくれているが、基本的には今風の見せ方は全面的に排除して、当時あったかも知れない略奪や復讐劇を描いている。こういうところが、批評家からは受けがよく、一般観客がついてこれなかった理由。実際の映画を見てみても、「そりゃ無茶だ」というような描写だらけ。よく大予算を使って作れたよな……という映画。しかし、そういうところも含めて、相変わらずのロバート・エガーズ作品。ロバート・エガーズ作品を知っている人が見ると「期待通り!」と嬉しくなることは間違いない。

 そろそろ映画本編を深掘りしていこう。
 まずは登場人物の背景から。

 主人公のお父さん、オーヴァンディル大鴉王。ゲルマン神話の伝説上の人物で、この地域一帯に様々な形で伝説が残っている。例えばトール神がアウルヴァンディル(オーヴァンディルの別名)の体の一部を空へ投げて、アウルヴァンデルタと呼ばれる星となった……とか。これはおそらく「明けの明星」を物語にしたもの、といわれている。
 様々な地域で様々な姿として語られるオーヴァンディルだが、面白いところではJ・R・R・トールキンの『指輪物語』のなかに名前のみが登場する。『指輪物語』は様々な神話、文献に出てくる名前を採用しているのだが、アウルヴァンディルを基にした「エアレンデル」という名前が出てくる。
 本作と直接関係ありそうなエピソードは、デンマークに伝わるアムレサス(アムレット)の父親。総督であったと同時に、この地域を荒らしまくっていた海賊だったという。

 本作の主人公アムレート。少年期の姿。アムレートもスカンディナヴィア周辺で語られている伝説上の人物だ。ホルヴェンディルとゲルータの間に生まれた子、と伝えられている。
 アムレートは文献によるとアムレサス、あるいはアムレットと表記される。アムレットという名前でピンと来たかも知れないが、シェイクスピアの『ハムレット』は彼を元ネタにしている。
 伝説上のアムレートは、父親ホルヴェンディルが弟のフェンギに殺されてしまう。アムレートは復讐を誓うが、恨みを悟られないように狂人のふりをして相手を油断させ、隙を見せたところで復讐を達成させている。この辺りのエピソードはほぼそのまんま『ハムレット』のストーリーになっている。

 映画の冒頭は、父オーヴァンディルが戦に勝利して凱旋する……というところから始まる。船に乗っての帰還なのに、海鳥ではなくカラスを伴っているのは、王がカラスの化身だから。
 王が帰還し、民が「戦の大鴉万歳!」と讃えているが、たぶんこれ、どっかを襲撃して略奪して戻ってきた……という場面。箱一杯の戦利品を持って帰るけど、分捕り品といったほうがいい。この時代はそういう略奪者が英雄の扱いだったんでしょうな。

 話し言葉がぜんぜん今風じゃないのよね。みんな演劇でもやっているみたいな言い回し。さすがに当時の人とはいえ、こういう話し方していたとは思えないけども、文献資料にある言葉の再現している。日本の時代劇みたいなもの。
 すでに書いたように、撮影時は古ノルド語だったそうだ。さすがに古ノルドの映画は無茶だ……ということで、現代英語で作り直された。

 分捕り品を広間に持ってきて、みんなで祝杯を挙げているなか、急に道化師が王を罵り始める。
 なかなか理解しがたい習慣だが、こういうものを「悪口合戦」という。公の場であえて不謹慎な罵りをする……という習慣があった。本作に近い世界観の物語で言えば、『ベーオウルフ』の中で主人公ベーオウルフがウンヴェルスから口論を挑まれて、自慢合戦で戦う……という下りがある。こういう悪口の言い合いで勝利する……ということも、一種の競技的なものであった。こういう習慣は古代ギリシア文化、イスラム文化の中にもあった。そういえば現代でも、上流階級になるといかに湾曲的表現で相手を罵倒する、皮肉る、貶めるか……という文化があるので、こういう習慣の名残かもしれない(ラップディスりバトルもこういうところから続いているのかな?)。
 言っている内容を聞いてみよう。

道化師「王妃の杯が王以外の男のため満ちあふれる! そのしずくを受ける金属は? 甘き銀か? 固い鉄か?」

 文章だけで書くとなにについて罵倒しているかわかりづらい。王妃の杯、この場合の杯は「貞操」とかそういうやつだね(股間が杯の形をしているでしょ)。それが王以外の男で満ちあふれる……つまり「不倫してるぞ」と言っている。「そのしずくを受ける金属は、銀か、固い鉄か」……ただ会って睦まじく話すだけでなく、固くなった男性器で、つまり性的関係にありますよ……と。
 で、これを聞いて弟のフィヨルニルが激怒する。映画を一度見ればわかるが、この時点ですでに王妃と弟フィヨルニルは不倫関係になっている……ということを示唆している(王の留守が長かったからね)。この道化師は真実を伝えている。しかしオーヴァンディル王は真意に気付かない。

 先の戦いで、王は負傷し、もう戦を続けることができない……。そこで王子アムレートに王位継承の儀式をすることに。

 その儀式の場面がなかなか凄い。真っ裸になり、四つ足で歩いて、うなり始める。一度人間であることを捨てて、その上で酒を飲み、トランス状態へ入っていく。神官として立っているのは、さっき道化師として王宮にいたヘイミル。なぜか道化師が神官の役割を兼ねている。

「お前たちは人になることを望む犬だ。犬でないことを証明しろ。人であるだけでなく、王らしく喰え。おい子犬。お前はなんだ」

 獣のように振る舞いながら、人間であることを証明しろ。それができるものが王である証を得る。それが放屁というのも……。

 つづいて立ち上がり、

アムレート「名誉に生きろ」
オーヴァンディル「一族の血を守れ」
アムレート「一族の血を守れ」
オーヴァンディル「その意味がわかるか、アムレート! 私が敵の剣に倒れたら、仇を討て。さもなくば、永遠の恥辱に生きろ」
アムレート「必ず仇を討ちます!首をはねるまで剣を置きません!」

 ここで暗示かけをしている。王としての立場、振る舞いをどうすべきか。深層心理に直接書き込んでいる……という感じ。

 ふとアムレート王子は下を見る。すると自分が宙に浮いていて、自分たちが焚き火の前に座っている姿が見える。
 これは幽体離脱を現している。酒を飲んでトランス状態になり、肉体と精神が分離し、宙に浮かんでいるような感覚になっている。そういう状態で、深層心理に直接の暗示かけを行っている。

 次に父親の体が裂けて、心臓が見えて、その心臓からずーっと上へ連なっている“何か”を見る。これは系図樹。一つの心臓、すなわち魂から幾世代にわたる系譜を連ねてきた。ずっと古い記憶になると忘れかけているから幽霊みたいになっているけど、最近の記憶に近付くにつれてかなりしっかりした実像を持ち始める。心臓から伸びた血管は、いつの間にか大樹の幹のように広がっているように見えて、その系図樹のずーっと上っていったところに自分自身の姿が現れる。
 これでアムレートは、王の系譜と自分が繋がっていることを知り、その系図樹の末端に加わったという実感を獲得する。これで王としての継承の儀式が完成したということになる。正しいかどうかわからないが、古代ヨーロッパ人はこうやって習慣の継承をやっていたのだろう。

 しかし神殿の外に出たところで、弟フィヨルニルに襲撃され、王は死んでしまう。主人公アムレートは復讐を誓って故郷を脱出するのだった。こうして『逃げ上手の若君』の物語が始ま……そういう話でもないか。


 それから十数年後……。アムレートは別の部族に引き取られて、狂戦士となっていた。
 この作品は、儀式、儀式、儀式……でお話しが進行していく。というのも、こういう時代は儀式を通じて心理が変わったり、決意が固まったりする。現代の物語でも、どこか儀式的なものを通じて心理的変化が描かれたりするのだけど、この作品は近代文明以前の物語なので、儀式そのものが描かれる。
 この場面では、戦士の儀式が描かれる。この儀式を通じて、人間性を捨てて狂戦士へと変わっていく。

 成長したアムレート。あの少年がどうして数年でこんな姿になるのだろうか……。アムレートは別部族の戦士として儀式を受けているので、違う部族の人間に「書き換え」されてしまっている。名前もアムレートではなく「ビヨンウルフ」と呼ばれている。
 ビヨンウルフの名前はおそらく「ベーオウルフ」が元ネタ。『ベーオウルフ』というのは8~9世紀頃、古英語で描かれた物語。地域もデンマーク周辺の海域を描いているので、本作の舞台と一致する。しかし物語的な共通点は特にないので、ちょっとした小ネタというところでしょう。

 ロシアのとある部族を襲撃します。この戦闘シーンがなかなかえげつない。この時代にあったかも知れない、残酷な殺戮をまざまざと描いている。「戦闘」というか、一方的に無力な村に襲いかかって、殺しまくっている……という場面でもあるから、かなり酷い光景。
 ここで襲われているルーシ族は、ヨーロッパの東、ロシアの西周辺の土地に住んでいて、ルーシ族の名前はスラブ人たちが呼んでいた呼称。後にキエフ公国などを建国することになる。

 戦闘を終えてお疲れさんの戦士たち。この時代の戦士たちは、戦争の時、フルチンで鍛え抜かれた筋肉を見せつけ、髪は脱色して逆立てて、その姿で相手を怯えさせていたという。さすがに映画では腰に布を巻いているが、実際には下も剥き出しだったらしい。
 戦争を終えて消耗している戦士たちだが、もしかすると戦争の時、ずっと獣が取り憑いているトランス状態だったから、今そのトランスが抜けてぐったりしている……という状態なのかも知れない。


 殺戮の後、アムレートはふと「俺は何やっているんだろうか」という表情をする。
 その夜、廃墟をうろついていると、奇妙な人影を見かける。盲目の預言者で、演じているのはビョーク。アイスランド旅行のとき、偶然にも出会ったビョークとの縁がこんなところで活きている。

 預言者の後ろに立っているのは、『ズブルチの偶像』と呼ばれているもの。キリスト教伝来以前の、スラブ民族の神の一つであった。

 盲目の預言者の姿。やっぱり怖い。顔にぶら下がっているのは貝。頭に被っているのは小麦。手に持っているのは糸紡ぎ。糸紡ぎを持っているのは、この預言者が糸紡ぎの女神「ノルン」と関連しているから。
 この預言者がなぜ出てくるのか……というとこの場面も「儀式」。アムレートは今、別の部族の別の人間になってしまっているから、運命の女神が現れて「自分の運命に戻れ」と諭している。預言者がアムレートの腕を掴み、女の細腕なのに振りほどけないのは、運命がアムレートを掴んでいる……という示唆だから。運命の女神が現れたことによって、どこかの部族のビヨンウルフというアイデンティティが剥がれ落ちて、アムレートとしての人格と、自身にかけた誓いを思い出す。

 翌朝、仲間たちの集落を歩いていると、タイミングを合わせたようにフィヨルニルの話をしている男と出くわす。まるで運命に導かれたように……。
 フィヨルニルは兄王を殺した後、王国を乗っ取ったが間もなくハーラル1世に襲撃を受け、土地と国民を奪われて、アイスランドで羊飼いを暮らしている……という。
 ハーラル王はこの物語の中でも実在がはっきりしている王で、850年生まれ、930年に死去している。戦争に勝つまで髪を切らない……という誓いを立てていたらしく、戦いの時には長い髪をたなびかせていたから、「ハーラル美髪王」というあだ名が付いている。
 仲間たちとそんな話をしているとき、ふっとカラスが舞い降りてくる。カラスは父王の化身だった。アムレートは運命を感じて、アイスランド行きを決意する。

 アムレートは奴隷のフリをして、舟に乗り込む。他の奴隷たちと一緒に、アイスランドへ向かうのだが……奴隷たちの中に、明らかに他と雰囲気の違う女を見つける。不安がる女に薬を与え、呪文を唱えているから、まじない師らしいのだが……。
 アムレートは盲目の預言者から「雌狐を追え」と指示を受けているのだが、雌狐はその通り雌狐のことを指しているのだが、この金髪の女のことも指している……のでしょう。アムレートはそこまで気付いたわけではないが、この女が気になってしまう。

 間もなくアイスランド上陸だけど、アムレートはこんな夢を見る。

 植物で編んだ冠を被るオルガと、アイスランドに生えている世界樹ユグドラシル。オルガが冠を被っているのは、彼女が間もなく王の妻になることを示唆。ユグドラシルが生えているのは、そこにアムレートの因縁の相手がいるから。今のアムレートの原点となるものは、復讐。その復讐の相手がいる場所が、アムレートにとっての世界の中心。
 また王族の系図樹もイメージされている。
 夢で啓示を得るというのも、この時代観の表現。この時代の人は、夢で自分の将来どうするかを占っていた。

 こちらが国を奪われたフィヨルニルがひっそりと過ごしている場所。……すごいロケーション。自然の光景に対して、村が小さい。木が全く生えてない。

 アムレートは奴隷のフリをしてアイスランドにフィヨルニルと母グートルンがいるのを確かめた後、盲目の預言者に言われたとおり、雌狐の後を追いかける。この時代、まだ人類は自然の神と関連を持っていたので、動物たちは神の使いとして人間を導いてくれる。
 雌狐を追いかけて洞窟の中へ入っていくと、そこにいたのは魔術師……。ただし、この魔術師が現実にこの場にいるかどうかはちょっと怪しい。こんな人の気配のしないところに、ひっそり隠れている……というのは変だ。もしかするとアムレートは、この時点で異世界に迷い込んでいて、異世界の住人である魔術師と会っている……という場面かも知れない。現界、異世界の境界もあやふやなのが、こういう時代。
 ここでも儀式が始まり、アムレートは「塚の中に入れ」という託宣を受ける。

 「塚の中」という言い回しはややわかりづらいが、この時代のこの地域の「塚」というのは「墓」のこと。「墳丘墓」といって、この辺りの地域には、一見すると小さな丘に見えるが、掘ってみると遺骨と副葬品が出てくる……ということがよくある。
 で、この場面の情景だが、妙に作り物っぽいというか、非現実感が漂う。しかもこの塚の中へ、ロープを垂らして中へ入っていく……という不思議な入り方をする。わざわざ上から穴を開けて入らずとも、横から入れば良いじゃん……。あえて上からロープを垂らして墓の中に入っている……というのは「冥界へ下りる」ということを示唆している。単に墓の中ではなく、「あの世」へ下りていっている。
 ここから異世界冒険譚がはじまるが……「異世界」といえば、現代人はとんがり耳のコスプレしたおねーちゃんのいるところ……と空想するが、本来異世界と言えば「あの世」とか「死後の世界」のこと。

 冥界へ下りていき、そこでドラウグと戦う。ドラウグは副葬品を守っているアンデッドナイトのこと。
 そのドラウグが出てくるこの場面だが……なんとなく舟の形にしているように見える……。この地域で身分の高い人を葬るときは水葬だったので、それをイメージしているのかも。
 ドラウグの戦いに勝利したとき、変なカメラワークが使われる。

 ドラウグを倒して、アムレートは左を向く。カメラはすーっと左へPANしていき、塚に入ってきた最初のカットに戻ってくる。
 実はドラウグとの戦闘シーン、現実ではなかった。夢、あるいは幻覚の中で戦っていた。精神世界でドラウグと戦うという試練に立ち向かい、勝利した……という流れだと読み取れる。
 こうしてアムレートは冥界から魔剣ドラウグルを持ち帰るのだった。

 ここまでのお話し、妙に非現実的な空気が漂っているが、すべて儀式。アムレートが洞窟で魔術師と会うのも、墓の中へ入ってアンデッドと戦うのも、すべて儀式。アムレートが復讐を達成させるための戦士となり、武器を獲得する……という儀式を描いたもの。
 本当言うと、魔術師に会ったというのも幻覚かも知れないし、塚の中に入るのも幻覚かも知れない。もしかしたら魔術師に会った時点で異世界かも知れない。しかしその幻覚の中、間違いなく実体である魔剣ドラウグルを持ち帰ってくる。そういう不思議なシーンが描かれている。魔術師に会うエピソードのあたりから異世界のお話しだから、なんともいえない。
 とにかくも様々な儀式を経て、アムレートが復讐を果たすための武器と力を獲得する……という様子が描かれていく。

異変が起きて、真っ先に疑われるのはキリスト教徒。ヨーロッパといえばキリスト教……というイメージが現代はあるが、この時代はヨーロッパ特有の土着的な宗教のほうが強かった時代。キリスト教は「南からきた怪しげな異教」……と思われていた。

 ここまでが前半1時間の内容。すべての儀式を経て、物語は現実世界へ。アムレートの復讐物語本編が始まる。アムレートは果たして復讐を果たすことができるのか……。

 というお話しだけど……みんなついてきてる? 今までのロバート・エガース作品と比較すると、だいぶ見やすい映画、わかりやすい物語になっている。ただし、物語の感性が、近代文明以前の民俗学の世界観で描かれている。映画の最初から何度も儀式ばかり描かれるし、途中に謎のイメージが差し挟まれるし、現実か非現実かわからない描写も多数。現代的な理性的視点で描かれていない。お約束的な描写でわかりやすくもされていない。1000年以上前の人たちが、こういう感覚で見ていたであろう、感じていたであろう世界観で物語が描かれている。現代的な解釈はあえて排除して、映像メディアが出てくるはるか以前の物語を、映像メディアが出てきて以降の感性で表現する……というかなり不思議が描き方をしている。

 あらすじだけを見ると、「剣と魔法のファンタジー」のように見えるし、実際よくよく見ると「剣と魔法のファンタジー」なのだけど、『ハリー・ポッター』やいま流行りのライトノベル・ファンタジーを期待すると、「え……なにこれ?」ってなる。現代的な感覚や知識で見ても、意味がわからないはず。批評家受けが良く、一般観客から「なにこれ?」と言われちゃうのは、こういうところ。ソファに座って、ポップコーンを食べながら観るような映画ではない。
 その一方で、私みたいな人が見ると「そうそう、剣と魔法のファンタジーは正しくはこうだよ」となる作品。現代的なファンタジーは、映像メディアが生まれて以降の約束事の集約で描かれているので、現代のファンタジーが描く「中世の世界観」はぜんぶ嘘。どうあがいても、現代人のコスプレ劇でしかない。
 例えばドラゴンについて、古い文献を見ると、大きさは2~3メートルほどで地を這っているだけで、空も飛ばないし火も吐かなかった。コモドオオトカゲくらいの大きさで、それだったら現実にいたかも知れない……と思える姿をしていた。
 ところがドラゴンの姿はどんどん派手になっていった。もっと極端に、派手に、過去作品よりも凄いやつに……最近ではドラゴンはどの創作物でも体高数十メートルの怪獣になってしまっている。現代の描くファンタジーは、そういう時代を通じて積み重ね続けたものが描かれている。それは実際に中世の世界観、その時代の人々が感じていた感性からまるっきりかけ離れたもの。現代アニメ、現代映画に描かれるドラゴンは、伝承で描かれるドラゴンとはまったくの別物である。現代アニメ、映画で描かれる魔法も、異世界も、モンスターも、本来の姿とはまったくの別物……率直に言うと、“テーマパークのアトラクション”でしかない。

 で、ロバート・エガース監督の『ノースマン』は本当に9世紀頃の人々がどういう感性で自然世界と接していたか……そっちのほうが描かれていく。現代人が見ると不思議な世界観が掘り下げられる。
 その一つが儀式。とにかく本作では何度も儀式が描かれる。何度も儀式が描かれるのは、この時代の人にとって儀式によって心理的な変化や、何かを決心する切っ掛けとしていたから。そういう時代感覚も再現している。
 さらに儀式を受けているその当事者の感覚で描かれている。冒頭部分で、アムレートの王位継承の儀式が描かれているが、途中からなぜかアムレートが空中に浮かび、なぜか下を見ると自分たちが座っている姿が描かれる。これは儀式の最中で、トランス状態になっている当事者の感覚が表現されているのだ……と気付ければいいが、たぶん半分くらいの観客は気付かない。
 その後のシーンも、その当事者が体験している感覚を表現しているから、シュールな絵面で、どうしてそうなっているのか、現代的な解釈では訳がわからない……というシーンばかり。でも民俗学をかじってたら、「はいはい儀式ね」ってなる。ここは幻覚を見ているシーンね。ここはおそらく異世界ね……と。本当にわかる人にしかわからない。こういうところが批評家受けがよく、一般観客を置いてけぼりにするところ。

 映像を見ると、とにかく「真正面から撮る」ということが徹底されている。もともとロバート・エガース監督は俳優を真正面から撮る。斜めにしたり、手前の人の肩をなめこんだり……もしない。とにかく真正面! その真正面からの撮影が、今作では徹底されて、群衆を撮るときも真正面。どのシーンも真正面から撮っている。
 なんでそこまで真正面にこだわるんだろう……。この謎は解けなかったのだけど、もしかするとこういう時代の絵画からヒントを得ていたのかも知れない。

 風景描写も真正面から!

 構図の作り方だけど、ややロングサイズになるとき、こんなふうに構図の左右に何かを置く……というのも多かった。なにか元になっているモチーフがあるのかな……?

 ファンタジーを現代的視点ではなく、民俗学的な視点で現代で描く……という不思議な試みをした本作。ある程度民俗学を学んでいる人が見ると「ほうほう!」と頷く作品だけど、そういう知識のない人は、まあ何も考えず「中二病的ファンタジー」だと思い込んで見れば良いんじゃないかな。何も考えず、ただバイオレンスだけを楽しんで見る……逆にIQを思いっきり下げて見れば、楽しく見られるんじゃないかと。中途半端にわかっているつもりの観客の方が置いてけぼりを喰らう。
 それにしても、よくこんなシナリオで予算が下りたな……。商業的にうまくいくわけがない。現代の観客に向けた映画じゃないもの。それを理解しつつ、予算を出したわけだから、勘のいいプロデューサーに恵まれたんでしょう。こういう変で尖った作品が、たくさんある中に混じっててもいいはずだ。少なくとも、私はこの作品が大好きだ。


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とらつぐみ
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