映画感想 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ
『閃光のハサウェイ』は先日視聴した『逆襲のシャア』から12年後を舞台にした物語だ。作品としては映画『逆襲のシャア』の翌年に小説版が描かれ、それを映像化したものが今回の作品となる。『閃光のハサウェイ』は累計発行部数130万部。当時の大ヒット映画『逆襲のシャア』のストーリーを引き継ぐベストセラー小説だ。
私個人的には先日1988年『逆襲のシャア』を初視聴して、2021年公開『閃光のハサウェイ』と33年の時を一気に飛んで視聴したのだけど……うひゃーー!! めちゃくちゃ絵が綺麗! 30年の間にトンデモないレベルでアニメ技術は進化したんだなぁ……。もはや別次元のクオリティ。CG技術も、『逆襲のシャア』の時代ではコロニーをくるっと回す程度しかできなかったけれども、今時代ではあらゆるシーンに使われまくっているし、手書きアニメとうまく馴染んでいる。連続して観ると、アニメ技術って本当に進歩したんだなぁ……としんみりと感じてしまう。
あ、今回も『ガンダム』をよくわかってない人がうっかり『閃光のハサウェイ』を見ちゃったら……という体の内容になっています。あらかじめご了解を!
『閃光のハサウェイ』のストーリーは……。
『逆襲のシャア』の後、アムロとシャアは行方不明になり、12年経った後も消息はわからないままだった。……まあシャアはどっかの女のところにいるんでしょうよ………イケメンはいいよなぁ(妬み)。行方不明になったシャアは神格化される存在となり、シャアに心酔し崇める人達によるテロ組織が作られていた。それがマフティー。ジオンのサインは、ついにテログループのサインに成り果てていた。
そのマフティーのリーダーが、主人公のハサウェイ・ノア。連邦の名将ブライド・ノアの息子がまさかのテログループの首領……なにやらとんでもないことになっている。
社会情勢も変化し、地球はセレブを中心とした特権階級だけが住める場所になっていて、一般住民は誘拐拉致のうえに強引に宇宙へ強制移住。地球ー宇宙間での貧富の差はますますひどくなっていった。それどころか地球環境は一部の富裕層による消費活動のために悪化し続けている。
作中、やたらと高級そうなホテルが出てくるけれど、あれも富裕層のためだけに作られた都市だから。その富裕層のために作られた都市の周辺に、富裕層のお世話をするためだけの貧しいエッセンシャルワーカー達の住居が点々と作られている……という構図になっている。
セレブ階級は以前よりも固定化されて、普通の人達による逆転も期待できなくなってしまった時代。それが一般大衆のルサンチマンを喚起させ、人々がマフティーのようなテログループを支持する流れが生まれていた。
今作の舞台となっているのはどうやらオーストラリアらしい。
オーストラリアは降水量が極端に少なく、自然が根付きにくい環境だ。歴史上のどこかではオーストラリアも自然豊かな時期というのもあったらしいが、それもオーストラリア先住民アボリジニが定住するようになって、自然が駆逐されていった。オーストラリアには多くの固有種もいたが、人間が移住してきたことによって絶滅。自然が根付きにくい土地だから、開拓が始まるとあっという間に砂漠化・荒野化が進行する。
オーストラリアの環境破壊は、後にイギリス人が囚人達を輸送するようになって、尋常ではないくらいに進展してしまう。こうして(現代の)オーストラリアの荒涼とした風景が作られていった。
人間によって自然環境が荒廃した場所……オーストラリアを舞台にしたのはそういうところだろう。どんなに文明が進歩しようとも、一瞬で自然環境を茂らせるような技術は生み出されない。こんな自然が根付きにくい場所で、贅沢三昧の暮らし……これが作品のテーマに組み込まれている。
連邦は金持ち達の傀儡でしかなく、力なき一般市民をねじ伏せて言うことを聞かせるための軍隊――市民を守るのではなく、金持ちのために市民を弾圧する組織に成り果てていた。より多数になってしまったサイレント・マジョリティの声をすくい上げているのは、むしろテログループであるマフティーのほうだった。ジオンがルサンチマンゆえに強行的な暴力に訴えようとする性質は変わらないが、しかし「連邦が正義でジオンが悪」という構図も通用しなくなっている。
作中、ガウマン・ノビルが街を背にして「どうだ、撃ってくれないだろ」と挑発するのだけど、連邦のモビルスーツはお構いなしに撃ってくる。連邦の正義・倫理観がいかに地に堕ちているかがわかる。
物語の冒頭は、マフティーであるハサウェイが素性を隠し、セレブ達が乗るシャトルに同席するシーンから始まる。この時のハサウェイの肩書きは植物監査官候補。これから殺すターゲットの姿を見ておこう……というハサウェイの考えだったようだ。これは自分がマフティーであることを隠すためのアリバイ作りでもある。
そのシャトルの中で出会うのが、ギギ・アンダルシア。ギギ・アンダルシアは神がかりな直感力の持ち主で、シャトルでの短い交流期間で、ハサウェイがマフティーであることを見抜く(正確には交流すらしていない)。
……私はギギ・アンダルシアはニュータイプだと思って見ていたのだけど……後で公式設定を確認すると、特にニュータイプとは言及されていない。あの異常な勘の良さは、ニュータイプに違いないと思ったのだけど……。襲撃シーンでギギ・アンダルシアがパニックに陥るのも、感性の強すぎるニュータイプゆえの反応だと思って見ていたのだが……。
ニュータイプは人の感情を理解できたり、未来を予知したりと、便利そうな反面、意図しない人々の怨嗟の念も自身の内側に感じ、それで精神の平衡が怪しくなったりと、なかなか面倒なものだったりするようだが。修羅場に身を置くと、精神が危うくなるのも、こういうところなのだろう。
でもギギ・アンダルシアが特にニュータイプとはどこにも明言されていないので、こちらもそれでいこう。
で、映画はギギ・アンダルシアを中心に据えたカットがやたらと多い。ギギ・アンダルシアの描写だけやたらと手が込み入っているというか……作画枚数がやたらと多い。これはハサウェイの目線を表現するためだ。
ハサウェイは主人公としてまあまあモノローグのあるキャラクターだけど、一番ナイーブな感情は言葉にしない。言葉にしない代わりに、映像で表現されている。ハサウェイがどういった感情でギギ・アンダルシアと接しているか、台詞ではなく、映像で読み取っていく……という作りになっている。
ギギ・アンダルシアの描写だけやたらとこだわって魅力的に描かれているが、あのように描くのは、ハサウェイが感じている感情を同じように感じて欲しい……という狙いから。
それで、ギギ・アンダルシアの胸の谷間だったり、唇だったりが描写されているが、あれもハサウェイによるギギ・アンダルシアへの想いを反映した描写。「性的な欲求」はいつの時代にも誤解されがちだけど、それも純粋な愛情の表現。性愛は本能的にその相手に惹かれていることの証だ。
ただ面倒なことに、ハサウェイもギギ・アンダルシアも、台詞としては思っていることとは逆のことを言ってしまうタイプ。映像はちょっとエロ目線なのに、妙にキャラクターがつんけんしているのは、そういうこと。ハサウェイにとっては、かつて好きになった女の子を死なせてしまったトラウマ(クェスのこと)があるから、それでギギ・アンダルシアを遠ざけている……という理由もある。
そんなハサウェイーギギ・アンダルシアの恋愛ドラマの中に割り込んでくるのが、クエス・スレッグ。ハサウェイとギギ・アンダルシアの仲を引き裂き、ギギ・アンダルシアの直感が「験担ぎにいいから」という理由で側に置こうとする。
ギギ・アンダルシアはとある富豪の情婦であるのだけど、しかしクエス・スレッグのように露骨なアプローチをしてくるような男は嫌い。情婦にもプライドはある。
ハサウェイはギギに魅力を感じているけれど、クェスを思い出すから遠ざけたいし、ギギ・アンダルシアはプライドが高いのでちょっと面倒なアプローチをするタイプで……それで、この恋愛劇はやや面倒な展開になっていく。
そんな面倒な恋のさや当てをしていると、とうとうマフティーによるテロが始まってしまう。マフティーはハサウェイがもうホテルにはいないだろう……と見込んで銃撃を始めるが……。
しかしハサウェイはまだホテルにいて、銃撃を受けて慌てて脱走し、連邦とテログループが市街戦を始めるの中、その足元を逃げ惑っていく。
この戦闘シーンが見事で、ドキュメンタリー的なリアルな映像だけど、それが「鉄の巨人」によるもの、という状況をまざまざと見せている。「モビルスーツの戦い」なんてものはアニメだけの虚構だけど、それがあたかも本当のものと感じられる生々しさが描かれる。ロボットアニメはここまで描き込めるようになったのか……。
そのモビルスーツの戦いを、人間の目線にこだわって描いている。人間目線だと「鉄の巨人」は大きさがすでに脅威。うっかりすると、踏み潰されるかも知れない。側に来るだけでも怖い。
かつてのロボットアニメは、ロボットを描くシーンになると、どことなく風景がミニチュアっぽくなるというか、都市の風景にリアリティが感じられなかった。その街に人間がいて、ロボットの戦いに逃げ惑う人々というか、吐き出された薬莢にぶつかって死んじゃう人……みたいな描写はあったのだけど、どこかスケール感がうまく合っておらず、「人間の目線から見た巨大ロボとの怖さ」は表現できていなかった。
でも『閃光のハサウェイ』では人間の目線から見たスケール感が見事に表現されている。ああ、知らない間にこの世界は進化したんだなぁ……と感動した。
市街でのテロが描写されて、物語は後半戦へ。ハサウェイが仲間達と合流し、ガンダムを手に入れるシーンが描かれる。
アナハイムはマフティーみたいなテログループに対してもガンダムを提供していた。アナハイムは連邦にもジオンにもモビルスーツを提供していたから、見境ないのかしらねぇ。
ここから先のストーリーは作品を見てもらうとして……。
30年の技術進歩がまざまざとわかる1作だった『閃光のハサウェイ』。ただ、1本のエンタメ映画としてはわかりづらい、取っつきにくい部分がある。……これはガンダムの宿命だけれども。
ハサウェイがテログループの指揮者だとして、どうしてそうなったのか、が経緯が掘り下げられていない。テログループ・マフティーにしても、思想理念がわかりづらい。地球ー宇宙間/富裕層ー貧困層の間に横たわる葛藤がほとんど深掘りされていない。映像としては描写されているけれども……あれではほとんどの初見さんはわからない。冒頭に、シャアの思想を受け継ぐ地下組織……という説明はあるけれども。そもそも「シャアが何者なのか?」という説明もないし、ハサウェイが名将ブライト・ノアの息子ということすら説明してくれない。観客が知っていることを前提に作ってしまっている。
それぞれの登場人物に関する掘り下げも弱い。ガウマン・ノビルやレーン・エイムといったキャラクターが曰くありげに登場するが、どういったキャラクターが掴みづらい。その前後に物語が間違いなくある描かれ方をしているが、映画ではほぼ描かれない。映画の終わりに、ケリア・デースという女性が出てくる。声が早見沙織だから、すぐに「あっ」となった。早見沙織が演じているのに、意味のないキャラクターのはずがない。ハサウェイとなにか曰くありげな雰囲気を出すが、登場シーンはほんの一瞬。「なんだったんだ?」という感じになる。あれだと登場させない方が収まりとしていい。
(ケリア・デースはハサウェイのカウンセリングを担当し、そのまま恋仲になった。劇中でもまだケリア・デースとハサウェイは恋仲のようだ)
あらゆるエピソードが映画の中で消化されず、どれも尻切れトンボで終わっている感じがしてしまう。「大きな物語」の中の一部を切り取った……という感じがして、1本の劇場作品として観ると中途半端。せっかく大きな世界観があり、奥行き感のあるテーマを語っているのに、映画としては「小さな映画」にしか感じられない。せっかくのクオリティが台無しで、「インディーズ映画を観た」みたいな印象になっている。
ガンダムという巨大なサーガを知っている前提で、その前景となるテレビシリーズや映画、小説版を知っている前提の作りにもなっていて、1本の映画でそれぞれの物語が完結するような作りになっていない。そこが惜しい。見る側の知識に甘えてしまっている。
作画のクオリティが非常にすばらしい作品でもあるが、一部のシーンを見ると、キャラクターと背景のバランスを崩している。植物園のシーンがそうなのだが、背景が実写に見えるほどに描かれていて、線で表現されたキャラクター達との噛み合わせがうまくいっておらず、各素材が浮いて見えてしまう。
背景が頑張りすぎる……というのは『おもひでぽろぽろ』といった作品にも起きた現象。演出家はそういう絵のばらつきを出さないために「頑張りすぎるスタッフ」を抑制するのも仕事だ。
物語の核となるのは、ハサウェイとギギ・アンダルシアとケネス・スレッグという三角関係。だが、これも恋愛劇として見ようとしても、あまり心情に迫る描かれ方をしていない。どこか「設定で遊んでいる」感じがして、エモーショナルなドラマとは言いがたい。見ていて「ドキドキ感」がないまま、進行してしまう。
アニメーション作品としてのクオリティは最高レベルなのは絶対に間違いないが、1本の劇場作品として観ると、どうなのだろう? という疑問符がある。どこか『ガンダム』という大きなコンテンツに体重を預けすぎているというか。その1本だけでドラマを語り、見せようという感じで作られていない。やはり「ガンダムというコンテンツに甘えている」感じが後に残る。
「これが面白がれるのはマニアだけだよ」……そう言うしかない作品になっている。
クオリティは最高だし、ギギ・アンダルシアは魅力的だし、戦闘シーンも見事なのだけれど、映画として、物語作品として観ると「う~ん……」と引っ掛かる作品。アニメーションとしてのクオリティが最高なのは間違いないんだけどね……。もうちょっと「映画」として作ってよ。
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