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読書感想文 天才 勝新太郎/春日太一

勝新太郎が映画の業界へ行くまで

 歌舞伎や国立劇場には、舞台の片隅に客席から見えないように簾で閉ざされた一角がある。ここは「御簾(みす)」と呼ばれ、裏方の奏者たちはここで三味線や長唄、鼓といった合方(効果音)を入れる。そのため、「うら」とも呼ばれる。
 この御簾に入り浸っていた少年がいた。名前を奥村利夫――後の勝新太郎である。
 利夫少年の父親は、高名な長唄・三味線の師匠である杵屋勝東治で、そういう縁があって御簾に自由に入り込め、そこから舞台も舞台裏も観客の様子まで見放題だった。6代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、15世市村羽左衛門、17代目中村勘三郎……芸能史に名を残す名優たちがいかにして芝居を作り込み、舞台で披露するのか、利夫少年はその全てを御簾から見ていた。
 利夫少年が中でも魅了されたのが6代目菊五郎による『名工 柿右衛門』だった。理想の陶磁器作りのために試行錯誤をする陶工・柿右衛門を演じる菊五郎郎の芝居を見るため、利夫少年は連日舞台に通った。この芝居では、柿の葉が落ちるのを見て柿右衛門が直感を得る場面があるのだが、これが毎回違う。「そうか!」と声を上げたり、喜んで飛び跳ねたり、衝撃でよろけたり……。そして最終日、菊五郎は落ちる柿の葉を見て、何も言わずにただ頷くだけだった。利夫少年は御簾から全て見ていたから、無言で頷くだけの芝居を見て、全てを理解できたし、それが最高の芝居だということも理解できた。その芝居を間近で見られたことが、後々まで勝新太郎の資産となっていく。

 1931年。利夫少年は2つ上の兄・奥村勝(後の若山富三郎)と一緒に、父に弟子入りした。他の弟子たちの手前ということもあり、父は兄弟に厳しく稽古を付けた。
「芸事の修行は毛穴でおぼえ、耳でぬすむもんなんだよ」
 それが父の教えだった。

 利夫少年は御簾からずっと名優の芝居も、三味線の演奏も聴いていたから習得が早かった。10代で父から稽古場一つ任され、20歳で「2代目杵屋勝丸」を襲名、明治座で襲名披露を行っている。
 利夫の演奏を評価する者は多く、例えば坂口安吾は熱海の旅館に利夫を指名して呼び出し、執筆する傍らで三味線を弾かせたという。有吉佐和子は自らマネージャーを務める舞踏家・吾妻徳穂がアメリカ公演する際、三味線パートに利夫を指名している。
 それだけの才能があったため、後に利夫が映画界に行くとなったとき、有吉は「これは邦楽界にとっての大きな損失だ」と嘆いたという。
 利夫はこう語る。
「オレは新聞に載るような男になりたい。それには犯罪者になるかスターになるかだ」
 利夫は三味線の天才だったが、しかし結局は裏方仕事。オレはスポットライトを浴びたい。人から称賛されたい。その願いが利夫を突き動かしたのだった。

不遇の駆け出し時代

 1954年。22歳になった利夫は大映のカメラテストを受け、無事に合格。晴れて映画俳優となり、名前を勝新太郎と改める。映画デビュー作は『花の白虎隊』。勝新太郎はこれで自分もスターになれると思った。
 撮影初日。勝新太郎は白虎隊の扮装をして、撮影所の俳優会館前にて一人で待っていた。そこに、同じく白虎隊の扮装をした市川雷蔵が、演技事務のスタッフに先導されながら入ってくる。
「これがあの市川雷蔵なのか……」
 市川雷蔵はすでに関西歌舞伎のホープで、映画の世界には引き抜きで入ってきた俳優で、最初からスターだった。
 間もなく黒塗りの車が俳優会館前に止まる。雷蔵が車の中へ乗り込む。勝新太郎もそれに続こうとするが……、
「お前はあっちや!」
 とさされたのは一台のバス。
 それは大部屋俳優たちの乗るバスだった。勝新太郎はそのバスに乗り、自分の席を探す。……席はなかった。仕方なく勝新太郎は、立ったまま撮影現場まで向かった。
 間もなく撮影現場にやってくる。この日の撮影は白虎隊たちの切腹シーンだ。勝新太郎は事前に台本を入念に読み、切腹シーンの練習もしっかり準備してきた。
 ところが行ってみるとそのシーンの撮影はなかった。プラン変更で、白虎隊隊員たちはすでに切腹を終えた後で、血を流しながら倒れている所から始まり、切腹シーンがあるのは市川雷蔵だけだった。仕方なく勝新太郎は、切腹する市川雷蔵の後ろで、倒れているだけの芝居をした。
 これが勝新太郎のデビュー映画となった。

 この当時の映画業界はまさにバブルの絶頂期だった。映画は毎年入場者数10億人を越え、この時代、年間で1人10回以上映画を観ていた。映画が国民の娯楽だった時代だ。
 大映も全盛期の頃で、1951年に黒澤明監督『羅生門』がヴェネチア国際映画祭でグランプリ、1953年に溝口健二監督『雨月物語』がヴェネチア銀獅子賞、1954年『山椒大夫』がヴェネチア銀獅子賞、1954年に衣笠貞之介監督『地獄門』がカンヌ・グランプリと、次々に世界の賞を取りまくっていた。
 しかしライバルである東映の突き上げが凄まじく、次々に新作を作って出さねばならない状態だった。しかしスター俳優と呼べる人たちは少数。映画会社は合間を埋めるための映画も量産した。

 当時の勝新太郎が主演した映画は『お富さん』『怪猫逢魔ヶ辻』『天下を狙う美少年』『かんかん虫は唄う』『まんそら侍』『陽気な仲間』『ドドンパ酔虎伝』……タイトルから察してもらえるとおり、低予算のキワモノ白黒時代劇ばかり。映画会社は勝新太郎に期待せず、こういったプログラムの穴埋めをするためだけの量産映画ばかりに出演させていた。
 一方の最初からスターだった市川雷蔵は溝口健二監督『新・平家物語』、吉村公三郎監督『大坂物語』、市川雷蔵監督『炎上』『ぼんち』と次々と巨匠と組んで、傑作を残して行った。差は開けられるばかりだった……。

 こうして勝新太郎の20代は、くすぶり続けながら終わるのだった。

勝新太郎の転機・座頭市

 あるとき勝新太郎は、何気なく観たテレビ番組に衝撃を受ける。それは17代中村勘三郎主演のドラマ作品で、悪の坊主が悪事の限りを尽くす役であった。貧しい盲目の鍼医者が、金を盗み、女を犯し、人を殺しながら検校の位にまで上り詰め、最後には破滅してしまうという強烈なストーリーだった。タイトルを『不知火検校』といった。
「これをやりたい!」
 勝新太郎は強烈に思った。そう思うとただちに行動した。
 たまたま京都を訪れていた原作者の宇野信夫に会うと、映画化の話を持ちかける。宇野信夫は松竹での映画化の案を進めていたが、勝新太郎の熱意に押されて、映画化権を与えた。
 勝新太郎持ち込みのこの企画は、映画会社はすんなりと通した。どうせ勝新太郎の映画は当たらないだろう……またプログラムの穴埋め映画にするつもりでGOサインを出したのだった。
 勝新太郎は『不知火検校』に猛烈に打ち込んだ。いつもなら現場でジョークを飛ばし、スタッフと和やかな雰囲気を作る勝新太郎だったが、この時ばかりはひたすらに役に打ち込んでいた。たまに口を開くと、森一生監督に次々とアイデアを披露していく。
 するとスタッフにも熱気が伝わった。カメラ助手の森田富士郎はどんどん新しいアイデアを出していき、カメラマンの相坂操一は撮影の大部分を森田に委ねるようになった。

 こうして仕上げた『不知火検校』は……さほどヒットもせず、話題にもならず。B級俳優だった勝新太郎の状況を変えるほどの作品にはならなかった。
 勝新太郎はその後も、プログラムの穴埋め量産系映画に出演をし続けた。
 ところが1960年頃『悪名』の企画が立ち上がる。これもはじめは会社側から特に期待されていない、低予算作品の1本だった。だが『悪名』の企画に勝新太郎は俄然やる気を出す。喧嘩に強く、情にもろく、粋で豪放磊落な主人公朝吉はまさに自分だ、と乗り気になった。
 すると幸運が舞い込んだ。
 当時の映画は、監督にスタッフがつくという方式を採っていた。例えば東宝の黒澤明監督なら、カメラマンは中井朝一、助監督は堀川弘通・森谷司郎、スクリプターは野上照代。一方の大映は、作品ごとにスタッフがローテーションで回す方式を採っていた。要するに「スタッフガチャ」状態で回っていたのだが、この時、カメラマンに宮川一夫、照明に岡本健一、脚本に衣田義賢、録音に大谷巌……偶然にも大映エース級スタッフが勢揃いしたのだ。
 1961年『悪名』は特に宣伝もされず、ひっそりと公開されたのだが、まさかの大ヒット。関西圏を中心に口コミが広がり、その声を受けて映画会社もシリーズ映画の制作を決定。ようやく勝新太郎に芽が出てきた。

 次のエピソードは意外なところから始まる。
 大映プロデューサー久保寺生郎は新作のアイデアを求めて、作家の子母沢寛の家を訪ねていた。その時、子母沢の随筆集『ふところ手帖』を見ていたところ、その一編に目がとまる。  それは盲目でありながら刀の達人で、名を――『座頭市』と言う。
 10ページほどの短編だが、久保寺プロデューサーはこれだ! と天啓を得た。
 では誰にこの座頭市をやらせよう? そうだあの映画だ。『不知火検校』で盲目の鍼医者でありながら、悪行の限りを尽くす男を荒々しく演じたあの男、勝新太郎だ!
 良い仕事をすると、必ず「次の良い仕事」に繋がるのである。こうして、勝新太郎は『座頭市』の主演を務めることとなった。

 『座頭市』の企画を聞き、勝新太郎は狂喜する。これこそ俺がやるべき役だ! そう思った勝新太郎は、役作りに打ち込む。
 自宅に合気道の達人を呼び、その極意・立ち回りを学んだ。さらに弟子たちを呼び集め、目をつむった状態で自分を襲わせる……という練習を何度もやった。そうやって目を閉じたまま、音と空気の動きだけで相手を捉える練習を繰り返し行った。
 だが『座頭市』は映画会社から特に期待されていない、低予算白黒映画だった。勝新太郎の扱いも、この頃はまだスターではなかった。オープニングを見ると、看板クラスのスターは必ず単独で出るものだが、『座頭市』ではヒロイン万里昌代と併記。1作目はまずまずのヒットというところで、続編を作るくらいには稼いだ、ぎりぎり及第点という映画だった。
 ただ、業界内では『座頭市』は大絶賛だった。「今まで誰も見たことがない」「誰もマネ出来ない」と誰もが『座頭市』を見て、その驚きを口にしていた。
 『座頭市』の評価はやや遅れて上がっていくことになる。1作目の総配収5000万円だったが、2作目には6200万円、3作目には7500万円……3作目で勝新太郎のクレジットがオープニングで単独になり、作品もカラーになった。4作目になるとお盆興行のランナップに加わり、配収はいっきに1億5000万円。その後も『座頭市』シリーズは1億円越えの配収を記録し続け、大映の看板シリーズへと成長していく。

 『座頭市』シリーズはその後も作られていき、初期のシリーズでは座頭市は斬りたくない人を斬らなくてはならなくなる、哀しいストーリーだったが、5作目からはだんだん座頭市の超絶刀裁きを披露するパフォーマンス映画へと変わっていく。『新・座頭市物語』では四方に立てられたロウソクを一瞬にして斬る、『座頭市凶状旅』では徳利を真っ二つに切り、その中から酒が流れ出る、『座頭市あばれ凧』ではロウソクを斬ったら、刀の切っ先に炎の部分だけが乗る……。
 勝新太郎は代役も使わず、特撮も使わず、自前の刀裁きの技でこれらのシーンを演じていった。そんなことを繰り返している内に、勝新太郎は本当の「剣豪」になってしまっていた。
 そうすると勝新太郎は俳優との共演に鬱憤が溜まるようになっていった。演技をしているシーンは問題ないのだが、斬り合いのシーンとなると、勝新太郎の刀技の追いつける俳優がいない。思いっきり斬り合いをしたいのに、勝新太郎と並ぶ剣豪が俳優の世界にいなかった。
 そこで目を付けたのが近衛十四郎だった。『柳生武芸帳』シリーズで知られる剣豪で、その本人も殺陣の達人だった。
 近衛十四郎のところに共演のオファーを出すと、二つ返事でOKが返ってくる。実は近衛十四郎も最近のぬるい撮影にうんざりしていたところで、勝新太郎との対戦は待ち望んでいたものだった。
 近衛十四郎は『座頭市』出演が決まった日から酒を断ち、勝新太郎も夜遊びを控えた。ようやく撮影日がやってくると、勝新太郎と近衛十四郎は殺陣師をほったらかしで二人で殺陣の段取りを始めた。もはや誰も入り込む余地のない、二人だけの世界ができあがっていた。二人は『座頭市 血煙街道』で心ゆくまでギリギリの斬り合いを映画の中で楽しんだのだった。

勝新プロダクション設立へ

 『座頭市』シリーズを通して勝新太郎は映画スターになったが、オファーされる映画は似たようなシリーズ映画ばかり。『座頭市』『悪名』『兵隊やくざ』シリーズが年に2~3本ペースで製作されていった。
 頭を丸めて『座頭市』に出演した後、少し伸びてきた髪を五分刈りにして『兵隊やくざ』、もう少し髪が伸びたら角刈りにして『悪名』、また頭を丸めて『座頭市』……。
「オレの役作りは髪の長さを長くしたり短くしたりするだけか!」
 勝新太郎はマンネリに飽き飽きしていた。

 当時は東宝・東映・大映・松竹・日活の大手五社による「五社協定」というものがあり、スタッフ、俳優の専属性が定められていた。そのために、出演できる映画、制作できる映画は決まっていた。だがそのことによりマンネリ化は避けがたく、映画不況も重なり作り手は行き詰まりを感じていた。
 そんな中、東宝の三船敏郎、日活の石原裕次郎、東映の中村錦之介といった看板スターたちは、独立して自らがオーナーのプロダクションを設立する。かつては「五社協定」によって共演できなかったが、独立することで共演を可能とし、それまでにない新しい映画が制作される切っ掛けを作った。
 勝新太郎は同時代のスターたちが新たな活路を切り拓いていく様子に、「オレも会社を作りたい!」と熱望を始める。
 いてもたってもいられなくなった勝新太郎は、大映社長永田雅一のもとを突然訪問する。
 永田雅一は一計を案じ、勝新太郎の独立を認めると同時に、提案もする。スタッフとステージは大映撮影所のものを使い、配給も大映が行い、制作費は勝新太郎の独立採算で封切り後に清算するという「社内プロダクション」という形だった。これなら勝新太郎の独立を認めつつ、これまで通り囲い込みができる。勝新太郎にしてもこれまで通り慣れ親しんだ大映の設備とスタッフで撮影が続けられる。双方損のない申し出だったので、勝新太郎はOKを出す。

 もう会社の言い分を気にすることなく、すべて自分の裁量で映画を作ることができる。勝新太郎は自由な立場になり、理想の映画を作ることに燃えあがっていた。
 勝プロダクションの第一回の企画は山本薩夫監督による『座頭市牢破り』だった。山本薩夫監督は社会派監督と知られる実力派で、この監督なら今までにない新しい座頭市を作ってくれるかも知れない……と勝新太郎は期待に燃えて企画を通した。
 山本薩夫監督に満足してもらうために、大映時代を遙かに上回る予算を用意し、使い回しのセットではなく、新しいセットを次々に立てる。日帰りで往復できる場所のみでロケハンするのではなく、妥協せず風景を探す。映像作りにとことんこだわった。
 しかし、現場は思うように行かなかった。
 共産党員だった山本薩夫監督は鈴木瑞穂扮する大原幽学による農民啓蒙を主軸に置き、劇中でその思想を延々語らせる。農民の団結と闘争、革命になぞらえた一揆シーンに心血を注ぎ始めた。主役である座頭市はほったらかしだったし、座頭市というキャラクター自体を「暴力主義者」として教条的に映画中で批判し、雑に扱われてしまった。
 そんな内容に、勝新太郎は激怒する。
「こんな現場やってられるか!」
 勝新太郎は撮影現場の横でこれみよがしにスタッフや俳優たちと遊びだし、監督を挑発。現場は険悪なムードに包まれた。

 1作目の映画に失敗し、2作目は今度こそ失敗しまいぞと意欲を燃やした映画『燃え尽きた地図』も興行的に惨敗。経営者として次回作は必ずヒットさせないとヤバい状況まで追い込まれてしまった。
 この当時、映画は衰退期にあり、テレビが上り調子だった。1953年にはテレビ受信契約数7500台に過ぎなかったが、1959年の皇太子御成婚を契機に300万台を突破。東京オリンピックの後には2000万台を突破していた。
 そのテレビ業界の一つであるフジテレビが、勝プロに企画を持ち込んだのだ。フジテレビは設備投資の資金確保のために新たに事業展開を開始、映画もその一環で、当時の株主であった東宝、大映、松竹、それぞれの子会社も共同製作に乗り出していた。その第1弾映画として制作されたのが1969年の『御用金』。その次である第2弾企画として勝プロに白羽の矢を立てたのだった。
 それが『人斬り』。五社英雄監督、橋本忍脚本。主人公は岡田以蔵で、テロリズムと政治抗争に明け暮れる若き幕末志士たちを描いた作品になる予定だった。主演はもちろん勝新太郎。共演は石原裕次郎、仲代達矢、辰巳柳太郎、さらには三島由紀夫も出演という豪華キャストが揃っていた。
 勝新太郎は会社存続のために、フジテレビが用意した超大作をヒットさせなければ……という二重のプレッシャーがかけられた。
 勝新太郎は『人斬り』の撮影にがぜん燃え上がり、他のスタッフには自ら気心知れた仲間たちを集め、役に打ち込んだ。手応えのあった撮影には充分満足し、『人斬り』は1969年年間3位の大ヒット映画となった。

 1970年。『人斬り』の大ヒットによって、ようやく勢いがつき始めた勝プロは、次なる映画に着手する。それが『座頭市VS用心棒』。「勝新太郎VS三船敏郎」という、映画ファンが夢見たカードであった。しかも『用心棒』は黒澤明映画に登場したあの用心棒が、ほぼそのまま登場する。この時代でしかあり得ない組み合わせだった。
 ところが『座頭市VS用心棒』は最初から不穏だった。
 まず三船敏郎は自ら制作・主演を兼ねる時代劇大作『新撰組』の公開があり、『座頭市VS用心棒』の公開をずらすことにした。勝新太郎が遠慮した形だった。
 ところがそれでも三船敏郎は不満で、『座頭市VS用心棒』の公開は『新撰組』の営業妨害になると公言する。
 勝新太郎は大スターをゲストに呼ぶに当たり、ひたすら気を遣った。
 まず監督選びだ。三船敏郎が監督と揉めるのを恐れ、三船をよく知る監督を探した。ようやく見付けた監督が岡本喜八。三船敏郎の何度も組んでいるし、シャープなアクション演出はこの夢のカードに相応しい。
 勝新太郎は岡本喜八にも気を遣い、岡本喜八が気に入ってくれるようにセットを構築した。
 脚本はすでに橋本忍が完成させていたが、岡本喜八が没にする。勝新太郎は岡本喜八を尊重するために、橋本忍には1本分のギャラを払って引き取ってもらい、次の脚本家を招聘した。
 そこまで気を遣ってようやくクラインクインまで行くが、ここでトラブルが起きた。
 撮影は「9時開始」と通達されていて、その9時に岡本喜八と三船敏郎がやってきたのだが、なぜかスタッフが来ていない。これは大映では「9時開始」とは「9時から準備開始」のことで、東宝では「9時から撮影開始」という行き違いがあったためだった。会社ごとに社内文化が違い、連絡内容に誤りが出てしまったのだ。
 これには岡本喜八、三船敏郎は怒り、険悪な空気になってしまう。勝新太郎側は頭を下げて、スタッフには残業代を予算に追加して、翌日から東宝流で撮影を始めることに決めた。
 だが撮影が始まってもトラブルが起きてしまった。カメラマンは大ベテランの宮川一夫だが、宮川はアイデアが浮かぶと相手が黒澤明であろうと溝口健二であろうと構わず意見する監督だった。岡本喜八は詳細な絵コンテを撮影前に作成して臨んでいたのだが、宮川一夫はそれを見て「これではキャメラが発想できない」と不満を漏らし、現場で監督のコンテを勝手に変えて撮影を始める。これに岡本喜八は激怒した。
 監督が圧倒的権力者である東宝と、スタッフに発言力のある大映の社内文化の差が、またトラブルを生んでしまった。
 勝新太郎はスタッフルームに宮川一夫を呼んで頭を下げ、「東宝のやり方でお願いします」と懇願する。宮川一夫は激怒するが、頭を下げる勝新太郎に免じて、今回は折れることにした。
 他にもトラブルはあった。なんと三船敏郎は滑舌が悪かったのだ。勝新太郎も滑舌が悪いのだが、録音技師は勝新太郎との付き合いが長いから、どう調整すれば声が聞こえやすくなるかよくわかる。しかし勝新太郎に合わせると三船敏郎が何を言っているかわからなくなり、三船敏郎に合わせると勝新太郎が何を言っているかわからなくなってしまう。録音技師にとっては滑舌悪いVS滑舌悪いの、悪夢のカードだった。
 ここも勝新太郎が折れて、自分はアフレコで声を入れるから、三船敏郎の声に合わせることにした。

 こうして苦労の末、映画『座頭市VS用心棒』はようやく完成し、批評的にも興行的にも充分な評価を得たのだが、勝新太郎は気疲れで達成感も充実感もまったくなかった。ただただ会社経営にくたびれ果てただけだった。

本の感想

 本書の紹介はここまで。わりと長く書いたが、そこそこ厚みのある本なので、これでもまだ前半。これから大映看板スターであった市川雷蔵の急死があり、もともと傾きかけていた大映は一気に崩壊していく。勝新太郎は大映スタッフを密かに引き抜き、東映に引き移し、大映が倒れた後も気心しれた仲間たちとともに映画制作を続けていく。

 勝新太郎の浮き沈み激しい破天荒な映画人生を追った本だが、これが面白すぎる。ページをめくる手が止まらず、どんどん次を読みたくなってしまう。文章の良さもあるのだが、勝新太郎という人物があまりにも面白く魅力的で、その人生自体がまるで1本の映画脚本のようにすら感じられていく。なんてドラマチックでスリリングな人生を歩んできたんだろう……と本を読んでいてただただ楽しかった印象しかなかった。
 あまりにもお話が面白いので、後半、勝新太郎が転落していく過程が悲しくもなってしまう。それくらいに感情移入して読んでしまった。そういうくらいに、面白かった。

 『天才 勝新太郎』――とタイトルに掲げられているのだが、確かに勝新太郎は「天才」だった。そもそも三味線の天才だったし、『座頭市』では殺陣に打ち込みすぎて本物の剣豪になってしまう。会社の経営を始めてからは自分で脚本を書き、自分で監督を務め、自分で編集までを切ってしまう。プロデューサーも務めていたから、監督やカメラマンも自分で指名した。どれをとっても規格外な伝説だらけの俳優だった。
 だが才能がありすぎるがゆえに、独善的で傲慢なところがあった。監督やその他のスタッフとはしょちゅう衝突するし、シーンに納得がいかなかったら監督ほったらかしで自分が演出をやり始めることもあった。
 これにスタッフは終始振り回され続ける。特に壮絶だったのはテレビ版『座頭市』でのエピソードだ。テレビシリーズはスピードが命。量産して放送に間に合わせなければならないのだが、凝り性の勝新太郎は大量生産制作なぞ絶対に許さない。毎回予算をかけ、セットを新しく作り、ロケに出かけ、撮影した。
 大変だったのは脚本制作。勝新太郎は何度も何度もダメ出しをして、撮影日が来てもまだ脚本が上がっていないこともしょちゅうだった。……イメージと違う。過去にも同じ事をやった。座頭市はそんなこと言わないし、やらない。撮影日の朝になって、勝新太郎がその場の即興でストーリーを演じてみせて、座付き脚本家だった中村努が一生懸命まとめて、とりあえずその日撮影できるぶんだけの脚本を仕上げ、最終的に編集でストーリーをまとめる。毎回が綱渡りだった。
 テレビ版『座頭市』は毎回完成が放送ギリギリ、放送日納品だったそうだ。

 勝新太郎はあまりにも忙しすぎたし、熱を入れすぎる性格があったから、時に奇妙なことも起きたようだ。
 ある撮影の時、勝新太郎が監督を務めつつ出演シーンを撮っていたのだが、
「おい、座頭市がいないぞ! 座頭市はどこに行った!」
 と叫び始める。それでふと鏡を見て、
「あ、座頭市はオレか」
 スタッフは勝新太郎がジョークをやったのだと思っていた。しかし違った。勝新太郎は座頭市にのめり込みすぎるあまり、自我に混乱を来し始めていた。自分と座頭市が一体化していく一方で、「座頭市」という人間が他にも実在するように思い込み始めていたのだ。
 勝新太郎の天才であるがゆえの異様さが、このエピソードから見えてくる。

 勝新太郎は天才的だったから、何度も監督と喧嘩をした。勝新太郎はカメラの位置を見ればどんな構図でどんな意図を持って撮影していたかすぐにわかった。わかるから、「なんでこのシーンであの構図なんだろう」「もっといい撮り方があるのになぁ」と不満を持ってしまう。そしてイメージが浮かんだら、意見するし、衝突してしまう。
 勝新太郎は不遇時代が長く、スターになった後もシリーズもののプログラムピクチャーばかりということにコンプレックスを持っていた。巨匠と呼ばれる監督と組み、「文芸映画」に出演したい、と願っていた。
 ところがそういう巨匠と組むと大喧嘩をしてしまう。市川崑監督と組んだときも、市川監督は徹底した絵コンテ主義であったことが気に入らなかった。怒鳴りあいの大喧嘩になり、その後の撮影も熱が入らず、いまいちな作品になってしまった。
 勝新太郎はヌーベルバーグに影響され、窮屈な映画文法から脱却し、より自由で、インスピレーションを優先した撮影を好んでいた。テレビ版『座頭市』の時も、車で移動中にいい風景に巡り会ったら止めて急に撮影を始める。スタッフも心得ているから、トラックに必要な小道具を全部揃えて対応できるようにしている。ストーリーがどうとかいうのは二の次。そういうのは編集で作り上げる。そうやっていかに従来の規範を越えた映像が作れるか、ということに感心を砕いていた俳優だった。
 だからいわゆる巨匠と呼ばれる人たちの、ガチガチにイメージを固めてそれに合わせた撮影になると納得できず、大喧嘩を始めてしまう。それで「文芸映画に出たい」と熱望し、やっとチャンスを掴んでも、自分でそのチャンスを台無しにしてしまう。
 同じ理由で、やっときた黒澤明監督映画の出演も、自分で台無しにしてしまった。

 勝新太郎は三味線の天才だったし、殺陣の天才だったし、それだけではなく脚本も書けるし、監督もできるし、プロデューサーもできるし、全方位の才能を持っていた。才能がありすぎたがゆえに、喧嘩し、衝突してしまう。勝新太郎にこのうちのいくつかの才能が抜けていたら、俳優としてもっと大成できたかも知れなかったのに。全方位に才能を持ちすぎたが故に、「ある時代の俳優」で終わってしまった。自分で経営もやっていたから、冒険もできなかった。結局は『座頭市』と『悪名』と『兵隊やくざ』というシリーズ映画の俳優で終わってしまった。
 天才過ぎるがゆえに大成できずに終わる……。それは悲劇かも知れないが、しかし後に残された人生物語があまりにも面白すぎで、喜劇のように読めてしまう。それは良いことなのか、悪いことなのか……。


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