2022年12月12日(月)午後10時から、NHKでは「映像の世紀 バタフライエフェクト」が、フジテレビでは「エルピス」が放送された。
2016年1月18日、犯罪である人権侵害(強制謝罪と擬似葬儀)が、TV番組として制作され、公共の電波に乗せて壮大に放送された。
あの日、スポンサーは、人権侵害の内容を知りながら番組制作に出資したのだろうか、知らずにいて、後に何らかの折り合いをつけたのだろうか。
政府は国を挙げて、いじめ・ハラスメント・人権侵害等を「撲滅」と謳いながら、総務省も文科省も厚労省も、なぜ動かなかったのだろうか。何に基づいて動かなかったのだろうか。(2016年1月18日当時:総務大臣・高市早苗、事務次官・櫻井俊、文部科学大臣・馳浩、事務次官・土屋定之、厚生労働大臣・塩崎恭久、事務次官・二川一夫、)
番組を視聴した門外漢は、様々な不条理を消化できず落とし処もない状態で番組の内容はしこりとなった。
番組を放送したTV局や、結果的に放送を助長することになったマスコミならびにスポンサーは、あの日、利権に隷属して命脈を絶ったのだろう。
その内幕が、2022年冬、加害者の手による「小説」として世に明かされた。
あの日、5人を蹂躙するため、主犯に従って段取りをした〔著者〕は、2022年、あの日の5人が今以て自ら口にしない内容を、「小説」では明かされない何者かの依頼を承けて「かすかな希望をもとめて(著者ツイッター:12月8日)」、「5人に感謝をしていること」と「彼らの優しさ」を「暴露の意図も告発の意図もない」小説として活字にしたという。しかしこれは、今「小説」にする意味になり得るのだろうか。さらに、執筆が「依頼」であった事を明かすのは、「小説」執筆の責任回避のためなのだろうか。それとも依頼者がそうする事を含めて依頼をしたのだろうか。
〔著者〕は、あの日の自身の在り方と向き合う覚悟を放棄して、自己完結による責任逃避の自覚もないまま、言葉巧みに、目に明らかに、罪を自覚している体裁で、懺悔と感謝と当時語られなかった内幕を、被害者を自認する立場で語り続ける。
〔著者〕は、アイヒマンの言葉を借りれば、「結果的に犯罪に手を貸したけれど、《上官の命令に従っただけ》だから、自分も被害者」なのだろう。
浅川の言葉を借りれば「いろんなしがらみがあるから、《現場って本当に一筋縄じゃいかない》し、《妥協しないといけない時だってある》」のだろう。
〔著者〕は、「小説」に「自分はどうしようもなかったから被害者なんだ」の念を漂わせ、「小説」という名でマスコミを通して明かすことで、業界の内外を問わず、有象無象に「著者の勇気」だ、「モデルとなった人たちへの愛」だと讃えられ、また、被害者自認の心理で綴られる「加害内容」を基にした「壮大な人権侵害」の顛末を「映像化して欲しい(社会学者ツイッター:12月10日)」とエールを送られ、〔著者〕自らそれらの言葉をリツイートして「ありがとう」と交歓し合っている。
こんな現状は、5人を「誰も悪くない」「みんなやさしい」等々のスーパーヒーローとして、劇的に描き上げるためのリトマス試験紙で、犯罪に手を貸した者たちの「贖罪」という美名の自己満足への布石なのだろうか。
しかしそもそも、5人はあの日のヒーローになる事を望んでいるのだろうか。
あの日、オルゴールの音色が流れる中、喪服のようにスタイリングされた彼らに謝罪させ、最後まで頭を下げ続けさせたあの内容を、どの様な形であろうと映像化することは、見守り支え共に歩み画面の前で見届けたファンという当事者たちにとって「セカンドレイプ」となることを想定しないのだろうか。社会学者が、この状態で「映像化」を希望する・・社会学とは何と浅い学問か。
どの様な罪であれ、明らかにならなければならない真実は、明らかにされなければならない。しかし、「小説」の〔著者〕は「従うしかなかった被害者」を自認しながら、〔著者〕をして加害の一端を担わせたという主犯も、思いこみの権力を振り回すことで公共の電波を私的に利用できてしまう業界の構造も、法治国家である日本にあって、しかるべく訴え、俯瞰的視点に立って公的に罰する手段を取らない。
マスコミを生業とする〔著者〕が、あの日声にできなかった声を挙げ、「讃美」が免罪符となって降り濯ぐ業界にあっては、狭い界隈でおためごかし仕合い続けて溜飲を下げた気になれる、そんな環境を手放したくないのだろうか。
それとも、〔著者〕たち業界人は、門外漢の感慨はすべて織り込み済みで、その上で「小説」を出さなければならない理由があって、それでも自他共に「これで良かった」と納得するために、公に讃え合わなければいられないのだろうか。
「楽しくなければテレビじゃない」と謳い、そんな現場に悪意が在ってはならない…を前提に、与えられ立場を全うしたあの日の5人が今まで何も語らないのは、「誰も悪くない」を、身をもって示すためではないだろうか。たとえ流す事の出来ない感情があろうと…
あの日以前も、あの日からも、5人はエンターテイメントを貫いている。
多くの人が多幸感に包まれる素敵なShowの幕が開きますように。
見たかった景色はこれではない…という感慨を、書きながら整理しながら、すべてが杞憂であることを願いながら。