生活の実感の綴り方
先日、豊田正子(1922~2010)の『芽ばえ』という作品を読んだ。
この小説は1959年に刊行されたものだが、語られているのは戦前の、著者が17歳の頃(1938~1939/昭和13~14年)の話である。日中戦争を背景に時局が悪化するなか、工場勤務で貧しく暮らす少女から見た、周囲の大人たちの関係性や思惑、生活の実態がありのままに描かれている物語であり、主人公の「私」は、正直者だが世俗的な智恵に疎い父親と、シニカルに生活をやりくりする母親と、幼い兄弟たちとともに暮らしている。家族は、主人公の少女が書いた作文(綴方)が書籍として出版されて世間で評判になっていることをなんとなく知っているが、出版の権利や少女の活動は、小学校で少女を指導した「大木夫妻」が面倒をみている。少女が生活上などで困ったことがあればこの夫妻に頼り、ときに豪華な食事をご馳走になったりもする。だがそんな大木夫妻に対しても少女は漠然とした疑いをもっており、彼女が気を許せるのは工場の友人くらいである。
そんな生活のなか、父親が長期の出稼ぎ仕事で不在の機会に、母親がしばしば帰宅しないようになる。少女は、母が父親の仕事仲間の家に入り浸っているのではないかと疑い、やがて疑惑は確信に変わる。そして、家に帰って来た父親に、事を荒立てないように念を押しつつ、母の素行を打ち明けるが、一本気な父親はすぐに母親を責めて怒鳴りつけてしまう。他方で、母親は父親の甲斐性無しであることを詰る。この夫婦喧嘩が家族のみならず大木夫妻まで巻き込んだ騒動となり、何の罪もない父親は大木夫妻の通報により警察に引き渡されて、巡査に殴られ、責められる。かたや母親はそのような大事になっても反省することがない。
私生活の苦しみの一方で、主人公の作文(綴方)をもとにした作品は、世間でますます人気となっていく。少女は撮影所に招待までされてその評判を実感するものの、すぐに虚しさに襲われてしまう。
最後は父親が「働らいて、働らいて、体のきかなくなるまで働いて、それで死にやぁいいんだ!」と独り言をいうのを聞き、主人公は以下の認識に達する。
小説の筋書きとしては母親の不貞問題が軸になって進む。登場人物は全て実名で書かれており、私小説的な趣がある。
実際に豊田正子は、小学生の時に書いた作文(綴り方)が指導教員であった大木顕一郎によって世に紹介され(『綴方教室』)、これが一躍大ヒットとなって、その日常を描いた映画や演劇として展開されることでさらに注目を浴びた。たくさんのファンがついて「まあちゃん」と呼ばれて親しまれた。しかし、豊田正子の生活は、この「成功」によって貧しさから脱出することはなく、この小説に書かれているとおり、学校を出ても早朝から夜まで工場で働き続ける毎日だった。本書で述べているところによれば、『綴方教室』をめぐって得られた収益や印税の類はいっさい正子には入らなかった。実際、当時から大木夫妻に対しては世間も疑惑の目を向けており、ある区議会議員が事実を調べ上げて告発しようとしたこともあったようだ。
この小説で「私」の視点から描かれる、貧しい豊田一家に対する大木夫妻の扱いは、「搾取」としか言いようがないものである。正子は、大木夫妻の家に行けば美味しい食事はご馳走してもらえるし、露骨な差別をされるわけでもない。しかし『綴方教室』を必ず「先生(大木)の本」と大木夫人が称するような態度に象徴されるように、正子の書いた綴方の権利は正子のものではない。そして都合がいいように利用される。たとえばドイツ人読者からの激励の手紙に対し、大木先生が文言を指示して、あたかも生活が充実しているかのような偽りの返事を書かされたり、朗読レコードの販売計画が持ち込まれ、自身の書いた綴方を朗読させられたりする。大木夫妻は一度だけ、朗読の報酬を支払おうとした。取り分が三分の一が編集者、残りを大木夫妻と正子で分けるという金額だが、それは正子の工場の月給の二か月分ほどにあたり、たった数分の朗読がそれほどの金額になったことに恐れをなし、正子はそれを受け取ることができない。
そして、正子のほうでも漠然とそのような関係性をおかしいと思っているが、大木先生が間違ったことを言うわけがないと、自分に言い聞かせている。この少女にとって大木夫妻は、家族の抱える問題を相談できる唯一の大人なのである。世間から疎外されている家族と社会をつなぐ接点として、大木夫妻を頼らざるをえない。
本書はこうした搾取の構造を日常の視点から忠実に描き出しており、言葉を選ばずにいえば、文字を追うごとに胸糞が悪くなるような場面が展開されていく。疎外やら階級闘争やら労働者といった言葉は一切使われていないにもかかわらず、思ったことをそのまま書くということによって、労働者家族の哀しく過酷な日常を克明に描き出すことに成功している。
豊田正子があとがきで書いていることによれば、『芽ばえ』のもととなったのは、『綴方教室』と同時代に書いていた未発表の三篇の草稿である。それらがいずれも当時世間で考えられていた「貧しくとも明るくて朗らかな」豊田正子のイメージが損なわれるとの理由で「周囲にいたおとなたち」(すなわち大木夫妻や編集者たち)が、「わざと発表しなかった」ものだった。戦後になって、大木未亡人宅からこれらの未発表原稿を見つけた豊田は、それらを「悲しき記録」と題して角川文庫版『綴方教室』に追加収録したのだという。しかし、反響は思わしくなかった。
鶴見俊輔の「絶賛」とは、以下のようなものだった。
このように鶴見は、豊田正子が文学としての冷酷な自然主義から、思想としての唯物論にまで自力でたどり着いたと評価している。すなわち、自分の家族と大木夫妻との関係性を媒介にして、父親に代表される「正直」な労働者の置かれた立場について透徹した認識に至っていた豊田は、さらに高く父親の「正直の倫理」を越えていく地点に至ったと述べられている。
ここに書かれているような、母親の不貞事件後に豊田が到達した自覚は、『粘土のお面』(昭和16年)のあとがきに表明されていた。
「悲しき記録」(『芽ばえ』)では馬鹿正直な父ちゃんへの愛情を描き、『粘土のお面』あとがきでは、要領がよくてしっかり者だが正直でない母ちゃんのやりくり智恵を認識し、まるで両親の性質を綜合または止揚する段階の一歩手前に至っているように思える。
鶴見俊輔は豊田正子について、戦時中の読書を回想するなかで、以下のようにも紹介している。こちらは以前の記事で紹介した岩波新書『私の読書法』に収められた文章からの引用であり、実のところ私はこのくだりを読んで豊田正子の著作に関心をもったのだった。
「悲しき記録」は『粘土のお面』より先に書かれていたが、それらをまとめて『芽ばえ』として刊行するまでには18年もの長い時間を要した。このような「伸び悩み」を耐え忍んでから復活した豊田正子だったが、その後は共産党に入党するなど現実運動に参加し、「左翼」運動の本筋を行くような生き方に入っていく。しかしやがて日本共産党からも離脱して、「文化大革命」(文革)真っ只中の中国に渡り、文革を礼賛したという。他方で、文革で迫害された文学者を保護したという逸話もあるらしく、その活動にはさまざまな評価があるようだ。
戦前においてすでに、綴り方における実感描写を通じて極めて高い水準に達していた豊田正子の思想は、現実運動とかかわることによって、果たしてその先へとさらに高められたのかどうか。容易ならざる問題だと思われる。