垂直居士
詩についての考え方や、詩人のエピソードをまとめてみました。
言葉や文字にまつわる書き物をまとめました。
「読書」という営みについての断片を、自分のための整理もかねて、ひとまとめにしていく予定です。
大人が想像した、摩訶不思議な子供たちの世界。 「文明社会の中で生きていると、だんだんにその文明が入っていってしまうが、それ以前に子供は、非常に強い問題を、太古の言葉で、哲学的な質問として投げかけてくる。これに対して、『子供は黙っていなさい』とか『大人になりゃわかる』なんて言い返すのは間違っている。子供の質問は、極めて哲学的なものなのだ。」(鶴見俊輔「イシが伝えてくれたこと」より)
実験的短編『近未来アニマルペディア』をまとめました。
一人の学徒として、学問に向き合う態度はいかにあるべきか。 人それぞれの考え方はあるとしても、自分にとって、学問とは常に生き方の問題であり、自己確認であり、自らの来し方を反芻自問することに他ならない。すなわち、ここにこうして奇妙な回想の類や自己批判の駄文を連ねることも、これまでの経験を振り返り、自分の立ち位置を確認し、吟味して批判するという、ひとつの学問的修練につながるものだと考えている。馬鹿げた考えかもしれないが、修練の成果が出て来れば、駄文が駄文でなくなって磨かれるは
すごい本です。この本の内容は、古典そのものの読解に充分馴染んでいない私のような読者にはたいへん難しいのですが、一読してみて、三島なりの日本とか日本人についての秘密を暴露したものであることを直覚させられたような気がします。 特にこの本の半分ほどを占めている「日本文学小史」と名付けられた一連の文章は秀逸です。これは三島の最晩年の著作で、『群像』誌上に昭和44年から45年にかけて連載され、未完に終わったものですが、それだけに彼の思想の到達点を一部示すものでもあると思われます。
秋は人を詩人にするのでしょうか。うんざりするばかりの暑い季節がこちらを名残惜し気に振り返りつつもようやく去っていく気配のなか、気温がひんやりしてくると、身体がこわばって防御の構えをとるようになります。それと軌を一にして、感性が前面に出てきて研ぎ澄まされるような気分も生まれます。暑い時には詩的な興趣など湧きもしなかったのですが、秋は人間に詩的な思索を強いるのかもしれません。人間の思考というものは所詮、身体感覚がもたらすところの影響からは逃れられないのだろうか、などと考えてしま
青空を白くすっと切るような、自然に目を流してくれるような文章を書きたいといつも思っているのだけれども、実際に書いてみたら、ドブ川に沈殿している泥を薄汚れたアスファルトにべたべたと塗り付けたような、重苦しくて鈍った文章であることがあまりにも多い。すっと通るような言葉が出てこなくて、ごてごてとこね回してから書いたり、あるいは書いているうちにこね回してしまう結果になって、いろんな余計な情報が付加された結果、白い雲のイメージが黒ずんだ泥になり変っている。要するに、雑文にせよ研究にせ
本来自分は夜型である。けれどもこのところ忙しかったので、夜に考えを巡らすということができずに、寝落ちしてしまって、否応なしに年齢を考えさせられる。そうなると必然的に朝型に切り替えるべきなのだが、平日の朝は出勤準備でじっくりと思考する時間がとれない。せいぜいシャワーを浴びているときに集中して考えるくらいのものである。なので、平日は夜に物を考えて、休日前は寝落ちするので週末だけが朝型になって、格好よくいえばハイブリッドなのだけれども、実際は単に体力がないだけである。疲れるのでず
以前に比べれば職場における残業文化はずいぶんと廃れている。残業をしないことが推奨されるのは有難いが、単純に労働時間が減っただけで、効率が上がったとは思えない。結局は必要な業務の何かを切り捨てているにすぎず、クオリティは下がって行くばかりである。それでも忙しいときには残業やむなしという日が続き、集中力維持に長時間エネルギーを使うため、余暇時間は眠くて研究どころではない。悪い頭がますます悪くなった気がするので、いっそ何もしない方がましだ。そういう言い訳じみた生活をしている。昨日
最近はいつも時間がないという気分で焦ってばかりで、人生にとって非常に良くない傾向だと思っている。初めのうちは楽しかったことでも、時間に追われてやると急につまらなく見えるし、それを押して頑張ってこなそうとしても、不完全な状態で提示しなければいけないに決まっているからである。時間通りに完璧なものが出来上がったためしはなく、時間がきたので仕方なく中途半端なものを自分の世界から社会へと解き放たねばならない。これは完璧主義者にとっては苦痛である。私は観念的には完璧主義者であるけれど、
誰もが一度は、寝たいときに寝て、食べたいときに食べて、遊びたいときに遊ぶという希望をかなえたいと考えるかもしれない。しかし、そんな生活がなかなか思うようにいくわけではないし、そういう生き方が実際にできたとしても、すぐに飽きてしまって、いずれは楽しさよりも虚しさが先に来てしまうだろうと思う。人生にはいくらかの制約がないと張り合いがないに違いない。クリアできる程度のハードルのようなものがないと苦悩も生まれず、深く刻まれた苦悩からやってくるところの人間的な色気も生まれず、苦悩の反
帰省していた。夜、実家のリビングにいると、チチチチチ、という鳥の鳴くような声が時々聞こえてきた。なんだろうといぶかっていたところ、父から突然、この虫の名前わかるか、と聞かれた。そうか、鳥ではなく秋の虫の声なのか、そりゃそうだと思いつつ、わからんと言うと、「カネツキムシ」だという。どこで鳴いているのか特定できないが、部屋の中にいるとしか思えない音の近さである。父は屋外で鳴いているのが反響しているのだというが、外に出るといろいろな虫が鳴いているのに、部屋の中ではこの虫の声だけが
文章を綴るというのは難しいことで、自分に関して言えばいくら書いても、いつまでたっても上手くならない気がするし、なんなら質も下がっているような気さえしてくる。よく考えたら自分がこのnoteに書き始めた原点というのは単なる嘆きや思いつきの垂れ流しで、大した内容なんてなくても良かったのであった。ちょっと調べて面白かったことをシェアしたり、人生の苦悩めいたどうしようもないことを吐き出して優しげなコメントのひとつでもいただければ嬉しいというような気分でいたのである。私だけの言葉であっ
寝るのが好きだ。というより、充分に寝ないと体力がもたない性質だ。夜の睡眠のみでは足りず、職場の昼休みには短時間の午睡を必要とするほどである。世の中には寝なくても動けるタイプの方がおられるようだが、実に羨ましい限りである。私についていえば、これでもまだ通常の生活に戻ったほうで、若い頃は10時間でも半日でも寝すぎるくらい寝ていて、用事のない日中は昼過ぎや夕方まで寝たせいで却って身体が重苦しくなり、生活に支障を来していたのである。あのいつも重苦しい身体の倦怠は、今思えば身体を動か
他人の文章を読むということは、他人の排泄物を有難がって悦んでいるようなものであり、そう考えると印象だけでは嫌な気分になるし、いかにも読むことが浅ましく卑しい行為であるようにも思える。 実際それは卑しい行為なのである。文字を読むことがやたらと高級で価値のあることだと認識されて久しいが、それは時間を超えてメッセージを伝えられる利便性が、いつの間にか高度な情報まで伝える役割を伴うようになった結果である。読み取るということは本来、人の付着させた体臭や排泄物を嗅ぎ、その人が前夜に
原因がわからないが、少し前から右手の親指が痛んでいる。第一関節が疲労しているような痛みで、力が入らない時がある。仕方なく右手を保護するために左手を使うようにしている。左手で歯を磨いていると、思ったよりもずっと、思ったように滑らかにはいかない。歯ブラシは口腔内で頬っぺたの裏側や歯茎の下など思わぬ場所にぶつかり、力加減がわからないのでへんに歯にブラシを押し付けてしまって全然磨けていなかったり、狙った隙間にブラシの毛先が入って行かずに、腕の角度もヘンな形になったりして、もどかしい
頭のねじが緩んだ人、という言い方があるが、自分はそういう人間なのだとつくづく思う。ものをすぐ忘れるし、とにかく肝腎なところで抜けていたり、ドジを踏んだりする。もっと際どい言い方をするならば、脳に何らかの欠陥があるのだと思う。それほどに社会とのズレ・不適合というか、頓珍漢というか、ありふれた「常識的」な規格にうまく合わせられない失態を演じるのである。これは、社会の矛盾や問題点を衝くという格好いい表現をとることもできそうだが、実際のところはもっとチープである。別に社会とかかわり
週末に時間を見つけて、自宅で映画を観るようになった。今回はアマゾンプライムビデオで『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』を観た。 舞台となっているのは1933年の英国とソ連である。英国のガレス・ジョーンズという実在の記者を主人公にした物語であり、原題は単に”Mr. Jones”となっている。ジョーンズは幼少期ロシアに在住した経験があってロシア語が話せる。ジャーナリストとしては首相であるロイド・ジョージの外交顧問を務めるほどの敏腕で、ヒトラーにインタビューした経験がある。ヒト
大人になってから表向きは社会と馴染むようになっているが、心の中では様々なことに違和感がある。むしろ違和感のほうが大きいことが多い。おかしい、なんやこれ、わけわからんと心の中で呟いている。よく考えてみれば、子供の頃から何にでも違和感があって、それが解消された試しがない。例えばみんなが集まってわいわい騒ぐことが嫌いで、それに対する違和感がずっと昔からあるのだ。それは単純に自分の心が臆病で、大きな音への生理的な苦手意識があったり、その大きな音を威力として強弁されることへの嫌悪感へ