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兆民先生

「思想の混乱に兆民先生を憶ゆ」
                      田原直史

 
 我国に混乱ある度に吾人は、中江兆民先生ならどう考えるだらうかと想像する。もはや藩閥の時代は遠く去り、人間の自我が醸し出す新しいしがらみの支柱に、思想のいびつな芽があちらこちらに蔓延つてゐるやうである。例へばこの度の帝都占拠事件や、四年前の犬養氏殺害事件、血盟団の一件などの組織を以てする政治的テロルについて、兆民先生が目の当たりにされたらどのように評されるであらうか。こういつた事件はこれまでにもいくらもあつたことである。しかし、これらの事件は青年たちの熱意から出る蹶起によつたことが何よりも吾人には悲しく思われる。実に先生は書生を愛された。先生の愛情が今日の青年たちに注がれる機会があれば、多くの若き人々を誤つた方向に導くことはなかつたのではなからうかと惜しまれてならない。

 秋水幸徳傳次郎君が「兆民先生」と題する中江兆民先生の回顧譚を上梓したのは先生が亡くなつた翌年であるから、それから数へてもう三十年以上にもなる。今や先生の謦咳に接した人間で存命なのは数えるほどになつて了つた。幸徳君にとつてさうであるやうに、吾人にとつても真に先生と呼べるのは兆民先生唯一人なのである。そして、幸徳君自身もまた、吾にとつては先生と重なるほどに思ひ出深い人間である。君は先生の文章を「神品であり鬼工である」と評するほどに文士としての先生に畏敬の念をはらつてゐた。

 これもまた幸徳君が「兆民先生」で書いているやうに、先生は坂本龍馬を尊敬して、坂本が薩長を仲介したやうに自由改進両党を連結させて藩閥撲滅の推進力にしやうと試みたが、うまくいかなかつた。その失意はずつと心残りだつたやうで、先生はしばしば「俺は龍馬にはなれんかつたが、禿頭だけは似てしもうた」とおでこを搔きながら破顔されたものであつた。

 明治末のあの大逆事件で、幸徳君も早々にこの世の中から居なくなつて、その後は社会主義者にとつて冬の時代などと言はれた。皆散り散りになつて了つた。臆病者の余などは具体的運動に参加するような気概なく、早々に田舎に引つ込んで、片隅で思索に耽つたり、下手な漢詩を弄したりして時間を潰してゐたに過ぎない。近年マルクス主義が思想界を席巻したが、その時にはもはや青年の情熱は消えてしまい、社会的変革といふものへの熱意を失つてゐた。
 
 先生とのお付き合いでは、明治二十一年の頃、先生の奈良旅行の際には御供をさせていただいた事が特に思ひ出深い。それは先生の御配慮で私の郷帰りに合わせていただいたものであつた。先生のお傍につかせていただいて、まだ面皰にきびづらの少年にすぎない吾人にも分け隔てなく御話をして下さる御人柄に触れ、時として破天荒な中にある深い愛情に何度も感銘を受けた。

 森鷗外氏が二葉亭四迷を懐かしんで書かれた文章の中で、兆民先生に料理を御馳走されたにもかかわらず、ついに自分のほうから訪ねる機会を喪つて終つたといふことを書かれてゐる。兆民先生はそのようなことを気にする質ではなかつたから、一向気にしては居られまい。先生は、鷗外氏の文章を常々高く評価して居られた。

 先生はphilosophyを「理学」と訳して以来、この理学といふ言葉に拘りを持つて居られた。「哲学」などといふ言葉は誤りだと常々言って居られた。初期の『理学鈎玄』は西欧哲学の何たるかの核心を掴んだ著作として今猶ほ光芒を放つてゐる。先生は仏蘭西語を通じて西洋の智識を採り入れられたのではあるが、漢語の重要性を常々語つて居られて、仏学塾でも和漢書の購読に特に力が入れられた。

 時間の流れは大に残酷である。先生にいつも揶揄からかわれてゐる一人の青年書生であつた余輩の頭髪などもすつかり寂しくなり、白髪がはうばうに混じってゐる。広いおでこには皺が深くなつて頑迷固陋な風貌である。先生が現在の吾人をご覧になつたら破顔一笑されて「田原君も面構へがすつかり俺に似てきたわい」と仰るかもしれない。そんな空想をこのところ繰り返へしてゐる。余輩は単なる田舎の文学士で余命いくばくもなからうが、ここに兆民先生を思い出しつつ、国を憂うて滂沱すること頻り也。


 中江兆民は気になる存在で、もし自分が明治初期あたりに生まれていたら、兆民への弟子入りを願って、彼を師と仰いでいたのではないかと想像するときがある。上掲はそんなことを想像しながら、自分に模した架空の人物の口に托して、師と仰いだ兆民の思い出を語らせたものだ。小説と言ってよいのかわからないが、自分が歴史に題材をとった小説を書くならこのようなものが書きたいというプロトタイプというか原案というか、習作のようなつもりで書いてみた。

 著者の田原直史なる架空の人物は1870年前後の生まれで、上記の文章が書かれたのは1936年の設定なので、その時点では66歳前後であり、当時としては晩年である。田原は奈良県から上京して兆民の主宰する仏学塾で学んだ。その際にルソーの社会契約論に触れ、社会思想にも関心を持つが、社会主義運動には関係せず学究の道に進んだ。その後は帝大で文学を研究し、学位を取得。
 大逆事件(1901年)の首謀者の一人であるとして処刑された幸徳秋水は1870年の生まれで、田原とほぼ同年代で、幸徳とは兆民のもとで親交を結んだ。幸徳秋水は兆民の一番弟子でとても可愛がられた。幸徳の人物像は兆民の娘である竹内千美氏が「身体の小さい、くにゃくにゃとした、風采のあがらない、しかしそれはやさしい方であの人があんな激しい行動をする人とはとても考えられませんでした」と評しているように、朴訥としていつも遠慮がちににこにこしているような姿が想像され、「大逆」の文字面からイメージする過激派とは程遠いように思われる。

 中江兆民という人は思い込んだら一途で、人にやさしく、しばしば見せる奇行が愛らしいという勝手なイメージがある。そして、その人生はところどころ謎がある。

 兆民が没したのは一部ネット情報では大阪と出て来るが、『全集』の年譜その他によると、喉頭がんが重篤になった兆民は死の三か月前に大阪から東京に戻っている。最期の住所は大阪行き以前に住んでいた小石川武島町27番地で、現在では文京区水道である。散歩がてら行ってみたことがあるが、その住所は特段史跡にも指定されておらず、ありふれたマンションが建っていただけだった。近所には昔ながらの家屋もあったので、当時の様子はそれらから想像するしかなさそうである。

 なお、本記事を書くに際して参考にした『中江兆民全集』(全17巻+別巻)はとんでもなく労力をかけて編まれた全集である。もちろん全集とはそういう労力がかかっているのが普通だが、それにしても1986年に刊行された別巻が特に凄まじく、兆民について言及した記事を500ページ以上にわたって網羅するとともに(かなり参考になった)、詳細な年譜を載せている。
 それに加えて、なにより手間がかかったと思われるのは、それらのあとに収録された「翻訳作品加筆箇所総覧」である。これは兆民の翻訳作品を(主にフランス語の)原著と照合しつつ、兆民自身が訳出するにあたって加筆した部分や吟味・批評が浮き彫りになるように摘出する作業を丹念にこなしたものだ。この膨大な作業は、編者(井田進也氏)自身の解題によれば「前途に突兀としてそびえる岩山のようにたえず編者を威圧し続けた」ということだが、これが誇張表現と思えないほど、まさに学術的貢献の最たるものであると驚嘆する。この翻訳についてはまた別に考える機会をもちたいと思う。

 兆民のもっともよく知られた代表作のひとつである『三酔人経綸問答』は、政治の理想を述べていながら文学的趣向も入った不思議に魅力的な書である。同書についての批評や分析は枚挙にいとまがないが、個人的に瞠目させられたのは『中江兆民全集』第9巻の月報にある前田愛の評(「『三酔人経綸問答』のテクスト構造」)である。徳富蘇峰と兆民が井上毅を訪問して経綸問答の稿本を見せた際、井上が「『佳人之奇遇』程には売れざる可し」と評したという。『佳人之奇遇』は当時の文学の一潮流となった、現代にいわゆる政治小説の代表的な作品である。そのエピソードをきっかけにして、前田は『経綸問答』と東海散士『佳人之奇遇』を比較して、冒頭の一部が掲載された時のタイトル「酔人之奇論」が「佳人之奇遇」のもじりであり、登場人物の「南海先生」は「東海散士」に対応していると推理している。また、豪傑君の癌切除理論に対して、保田與重郎までを見通している。歴史学方面から見るとやや読み込みすぎの嫌いはあるかもしれないが、これくらいの大胆な読みは刺激的で面白く感じた。

 現在中江兆民の名前は同年生まれの福沢諭吉ほどではなくとも、教科書に出てくる程度には知られているだろうか。たとえば1980年に刊行された尾原和久『悲曲の精神―『三酔人経綸問答』以後―』は兆民についての優れた評論だが、刊行時点では兆民の全集が出ておらず、兆民という人物が研究対象として十分に素材にされていないことを問題にしている。
 80年の時点でそうした状況であることから、さらにその50年前、冒頭に掲げた田原という人物の架空の回想の時点にまで遡っても、死後30年ほどが経過しており、兆民はちょうど忘れられた思想家であったのかもしれない。田原という人物が昭和11年時点で兆民の回想録を出したことに対して、反響は期待できなかったであろう。このあたりもう少し調査して掘り下げたら面白いものが書けそうに思うが、とりあえずここで措いておく。


 



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