学ぶことは無限にあるのです。
(昨日の続き)
数年間のブランクを経て久しぶりに実行委員長を務めるにあたっては、改めて初心に返ろうと思っていた。
ありがたいことに、これまで何年も実行委員長という役割を与えていただいてそれに取り組んできた私にとっては、実行委員長としての「キャンプ実施上の実務」を遂行することだけを考えれば、もはや息をするようにできると感じているところもある。
しかし、子どもたちや青年たちの輝きをたくさん発見すること、それを言葉にして伝えること、彼らと真剣に向き合うこと、若手青年たちの主体性を引き出すこと、参加したすべての子どもたちや青年たちを自分の班の一員だと捉えて目を向けることは、何年経っても変わらず難しい取り組みだと思った。数年やっていなかっただけで、なんだか体が鈍っているような感覚がした。
このキャンプに参加している子どもと青年全員に、1人ひとりコメントを書いてみようと思い立ったときも、書く手が止まった人が何人かいたのがちょっと悔しかった。全員を視野に入れて当日に望んでいたつもりだったけど、まだまだ実力が足りなかった。
その他の具体的な反省点としては、各班の実行委員1人ひとりと、班運営に関してもっと深く話し合う機会をつくれたらよかったのではないか、と思った。
5月の始動時から、彼らを通して班の様子を探り、課題について一緒に考え合う立場としてもう少し丁寧に意識的に取り組むことができたら、集団としてもっと前進がつくれたかもしれない。
そう思ったのは、最近私という人間の最大の弱点がわかったからだ。
それは、「自分の力でできると思うことしかやろうとしないところ」だ。
私は個人的特性上、人を頼るということをあまりしてこなかった人間だ。それは、自分1人である程度の物事をこなすことができるという強みの側面でもある。しかし、その裏返しとして、人を頼る機会が少ないため、どうすれば人を頼ることができるのかを学ぶ機会が少なかった。
これによって、「人の力を借りないとできないことは、そもそもやろうと思わないようにする」「自分の力でできないことは諦める」方向に作用することが多くなっていくのだ。
こういう習慣を続けていると、他者に対して心から感謝することができなくなる。なぜなら、感謝の意が発生するのは、他者の力を借りて自分の欲望ややりたかったことが実現できたときだからだ。
自分の力だけでは実現できないことに取り組もうとして初めて、他者の力が必要になる。その他者の力を借りて何らかの物事を成したときに初めて、他者に心から感謝できる。
それに気づいたとき、自分自身がこのキャンプの「キャンプ集団としての」目的を意識的に高い位置に置けていなかったのではないか、と思った。
このキャンプは、本部・実行委員をはじめ、参加する子どもたち・青年たちや、送り出してくれる親御さんたちの協力の総体で成り立っているイベントのはずだ。
にもかかわらず、私が中途半端な感覚を抱えているということは、得られる結論は、子どもキャンプそのものをもっと有意義につくることや、キャンプ集団全体をもっと前に進めることなど、この「キャンプ集団として到達したい目的」に私が意識的になれていなかった、ということなのではないか。
ちょっと自分でも何を言ってるかわからなくなってきたが、とにかく、今考えればまだまだできたことがあったはずなのに、それを他者の力を借りてまで実現しようとしなかった自分に気づいて反省した、ということだ。
このような考えに至って、当初は実行委員長に再び取り組むことによって後退するような気がした、などと言っていたところから、後退するどころか、人間的にとんでもなく未熟であることを突き付けられたような気もして、いくら歳を重ねたとしても、こうした役割に主体的に取り組むことから学び取れることは、無限にあるのだろうなと思った。