完璧主義の呪縛が私を苦しめるのです。
自分がよく抱える苦しみの正体が少しずつ明らかになりつつある。それはおそらく、自分のアウトプットが、自分の納得のいくクオリティに到達できていないことによるものだと思う。
こういう性質のことを、「完璧主義」と言ったりするようだ。自分が納得する前にリソースが足りなくなったり期限が来たりして、とりあえず無理やりアウトプットを出さざるを得なくなるような感覚に陥って、納得がいくまでやり切っている感覚を得にくいのかもしれない。
だから、どちらかというと「乗り切っている」という感覚に近くて、充実感や納得感を得られるほど取り組めていないと思ってしまっている。
特に、「研究」など、際限が無いことに取り組んでいるから仕方がないのかもしれないけど、自分の要求レベルが自ずと高くなってしまっているのだろう。
一方で、そうはいっても期限が来るまでの間でどこかサボっているような感覚もあるわけで、「まだやれることはある」「やれることを全てやったのか?」と言われると、それに自信を持って答えられるわけでもない。
思いついているのにやらないのはなぜか?
その理由は簡単だ。面倒だからだ。そういう面倒くさがりなところが、自分が本気になるチャンスを潰しているとも思う。
自分自身を適切に制御して律していくのは、やはりなかなか難しい所業である。
しかし、そういう困難さに直面しつつも、楽しみながら生きていくことはできないものだろうか。
生きるのが楽しいと思える瞬間はどんな時だろうか?
それはおそらく、物事に活き活きと取り組んでいるときだろう。
何か目立った成果を出したその瞬間でもなく、それを達成した後でもなく、それにワクワク感を感じながら取り組んでいる最中が、一番楽しいのであろう。
そういう何かに活き活きと取り組んでいる方が自分の人生は豊かになるだろうし、そういう姿を見る方が、周りの人もきっと楽しいと思うだろうし、元気を与えることにもなるだろう。
私は、どうせ生きるのであれば、しょぼくれていたくはない。少なくとも、自分がやっていることには自分なりに納得した意義があって、それに対して前向きに活き活きと取り組んでいたい。
ただ、この「納得する」ということが、意外と難しいと思っている。
最近、研究室で同期だった地方在住のメンバーがこちらに戻ってきたので、久しぶりに飲みに行ったのだが、そのとき話に上がったのが、私はどうやら人よりも、自分自身が納得する考えに到達することを妥協しない人間であるらしい。
何かの物事に取り組むとしたときに、なぜそれをやるのか、自分なりに納得してから取り組みたいと思う性質を持っているようだ。そして、その思考が人一倍深いらしいのである。
そのように思慮深いことは、それはそれで良いことなのかもしれないが、自分が納得がいかないといつまでも行動に移せないという弊害もまた存在する。
現に今、博士論文になぜ取り組むのか、その納得感があまり作り切れていないままに、どんどんと時間が過ぎ去っている。
しかし、よくよく振り返ってみれば、それは既にこのブログの中にも言語化されていたのではなかったか。
私にとって、「博士論文を書いてそれを認められる」ということは、自分自身のやってきたことを愛することで、自分自身を愛することだったのではなかったか。
自分がこれからも真に人間らしく生きていくために、「人間らしい人間」になるために、必要だったのではなかったか。
それに気づいたことにしてしまうと、目の前の課題に取り組む理由になってしまうから、逆にそれを避けてきたのではないか。
博士学生として過ごした3年間への納得感はあったとしても、博士論文の中身そのものに対する納得感はまだ得られていないのではないか。
だとしたら、納得するまでやるしかない。
そして、そういう暫定的にでも納得できる理由を思いついたのであれば、それが正解であるかどうかに関わらず、とにかく前に進むしかない。
後からそれが浅はかな考えだったと思う可能性もある。
もっと時間をかければ、他の可能性に気付けていた可能性だってある。
でも、そんなことを考えて何もできなかったら、人生などすぐに終わってしまうのだ。
物事を完璧にこなすために深く考えることは重要だが、前に進まなければ何もしなかったのと同じなのだ。
この苦しみを乗り越えなければ、この先の人生のあらゆる苦しみも乗り越えることはできないだろう。