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流れをつかむ日本史「平安時代 後編」

トモーロです。

今回で平安時代は完結します。

武士の誕生から、平将門が争いを起こしそこから再び富を手にした藤原氏であった。

富を手にした藤原氏。しかし、藤原家の中でも内部で誰が権力を握るのかというのが問題になっていました。

果たして誰が権力を握るようになったのか。

見ていきましょう。


<権力を勝ちとった道長>

藤原家内部での権力争い。頂点になったのが藤原道長(ふじわらのみちなが)でした。道長はどのように権力を手にしたのか。

それは娘を天皇に嫁がせたことでした。しかも、それを3人連続で嫁がせました。

娘にも紫式部清少納言といった優秀な家庭教師をつけ、3人の娘を優秀なz女性に育て、次々に天皇に嫁がせることに成功。

そして、祖父として政治を背後から支配していきます。当時、道長は「内覧」という天皇が決裁する文書ぅに先に目を通せる役職についていました。

しかし、道長はその権力をすぐに息子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)に譲ってしまいます。

頼通は、約50年間という長い期間、摂政・関白という位についていました。その時に建てたのが「平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)」です。

頼通は父、道長と同様に娘を天皇の后にする方法をとろうとしますが、妻との間になかなか女の子が生まれず、ようやく生まれて天皇に嫁がせるがその間に男の子を生むことができず、藤原家の権力は急速に低下した。

この弱まった瞬間に盛り返してきたのが天皇家であった。


<武士が政治に関わっていく>

藤原家の勢力が急速に弱まって数年。後三条天皇が天皇になり、藤原氏を祖父に持たなかったため藤原氏に構うことなく政治を行うことができた。

その後、天皇が後三条天皇の子、白河天皇に位を譲るが後三条天皇はすぐに死んでしまう。

そこで、白河天皇は子の堀河天皇に位を譲り、自身は白河上皇として「院政」を始めます。院政とは、天皇が上皇となって実権を握り、国を統治する政治形態。

院には、源氏や平氏らの武士団を仕えさせ、武力を強化していきました。これらは「北面の武士」とも呼ばれ天皇のお守り役として活躍。

そのころ都では、僧侶が武装した「僧兵」という武士が暴れまわっていた。白河上皇は仏教を深く信仰していたため、非常に悩んでいた。

そこで、白河上皇は源義家(みなもとのよしいえ)に僧兵を抑えるように命令。義家はこのミッションを見事にこなし、源氏の地位が向上していきます。

しかし義家の子、源義親(みなもとのよしちか)が九州で略奪を働いていた。これを鎮圧するのに都に呼ばれたのが平氏であった。

平氏は見事にこの騒ぎを抑え、源氏は反逆者扱いで源氏と平氏の主役が交代してしまう。

白河上皇の死後、上皇は鳥羽(とば)、天皇は崇徳(すとく)となったが、鳥羽上皇と崇徳天皇の関係が悪く、鳥羽上皇はすぐに天皇を崇徳天皇の弟の後白河(ごしらかわ)天皇にする。

しかし、崇徳は上皇として居続ける。そして、両者の関係はさらに悪化していき、さらに後白河天皇と崇徳上皇の間も悪くなっていく。

この関係に平氏、源氏、藤原氏の思惑が絡んでいき争いへと発展してしまう。


<権力を握る平清盛>

関係が悪化する後白河天皇と崇徳上皇。鳥羽上皇が死ぬとついに武力衝突へと発展してしまう。

後白河天皇側には、藤原忠通、平清盛(たいらのきよもり)、源義朝であった。

一方、崇徳天皇側には、藤原頼長、平忠正、源義為、源義朝であった。

彼らは、それぞれ血縁関係であったが、指示していた上皇、天皇が異なっていたためこのようなチームとなって対立した。(保元の乱

保元の乱で勝ったのが後白河側であった。勝利後、後白河上皇、二条天皇で院政を開始。ここで主導権を握ったのが「信西」という僧であった。

この信西に近寄って行ったのが平清盛でした。清盛は信西にめちゃくちゃ気に入られ、どんどん出世していきます。

これに腹を立てたのが。藤原信頼と源義朝。特に義朝は保元の乱で同じチームであったのに清盛だけが出世していくことに納得がいかなかった。

怒った二人は、信西を自殺に追い込み「平治の乱」がスタート。

しかし、信頼と義朝は平清盛の兵に襲い掛かりますがあっけなく平清盛にボコボコにされます。

怒った清盛は、源義朝の子、源頼朝(みなもとのよりとも)を伊豆の国に流してしまいます。


<源平合戦の始まり>

保元の乱、平治の乱で勝利した平清盛はもはや敵なし。朝廷の最高位である太政大臣にまでに出世していきます。

清盛は、土地の管理と地方の治安維持のため各地に「地頭」を置き、経済力は「日宋貿易」で収入を得ます。

しかし、平清盛に反感を持つ人も多かった。そこで後白河上皇の子、似仁王と源氏一族の源頼政が挙兵。

すぐに鎮圧されてしまいますが、似仁王の令旨という反平氏を倒すための手紙が武士に行き渡り、平氏打倒の兵を挙げる。

これが源平合戦の始まりである。

伊豆に流された源頼朝もそのうちの1人。不満を持つ関東の武士たちは皆頼朝のもとへ集まる。

頼朝は鎌倉で兵を整える。これに気づいた清盛は大軍を送り込むが富士川の戦いで敗北。

まもなく清盛は頼朝への憎悪を口にして病死したという。

ここから源頼朝はの勢いは止まらない。

後白河上皇から兵士打倒の命令を受けた頼朝は弟の源義経(みなもとのよしつね)の指揮のもと次々と平氏を滅ぼします。

ついに、山口県まで平氏を追い込んだ義経は、壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させます。

どんどん力をつけた源氏。今度は、それを恐れた後白河上皇が義経に頼朝と対抗させるように指示を出します。

しかし、武士たちは義経にはつかず、義経は孤立してしまいます。

奥州藤原氏に助けを求めますが最後には殺されてしまい、奥州藤原氏も頼朝に滅ぼされ戦乱は終結。


<まとめ>

いかがだったでしょうか。今回は、平安時代の終わりを見ていきました。

結局、人間は武器を持たせると何をするか分かりません。

完全な弱肉強食の武士、解決策はほとんど戦いという時代ですね。

しかし、この頃から常に時代の先を行くのは行動を起こす人といった何か今にも通じるものがありますね。

次回から鎌倉時代に入っていきます。鎌倉時代印象にあまり残っていない人もいるのではないでしょうか。

とても面白いので次回もお楽しみに!

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