流れをつかむ日本史「戦国時代 後編」
トモーロです。
今回の流れをつかむ日本史は、戦国時代の後編を解説していきます。
前回、あまりにも斬新な考えで政策を行った結果、いろんな人から恨みを買った信長は、明智光秀による本能寺の変で自害した織田信長。
さあこの後誰が実権を握り、どのような世界になっていくのでしょうか。
では見ていきましょう!
<秀吉のフットワーク軽さ>
本能寺の変による信長の死後、一番早く動いたのが当時、中国地方で毛利と戦っていた豊臣(羽柴)秀吉であった。
毛利氏との戦闘中に述べ信長の死を聞いた、秀吉は相手の毛利氏には信長が死んだことを伏せたまま急に和睦します。
なぜ、信長の死を隠したのか。いろいろと諸説あるが、一番は対象がやられたとなるとその隙に付け込まれてしまうから。
そのような素ぶりも一切見せず、秀吉は和睦します。そして、秀吉は急旋回して、京都に戻っていきます。その後の後継者争いに何としても加わるためでした。
信長の側近には、柴田勝家(しばたかついえ)という超有力な武士がいました。しかし、勝家は本能寺の変が起きていたころ上杉を攻めており、なかなか京都に戻ることができなかった。
完全有利な秀吉。京都に帰って状況を知ると直ちに山崎で明智光秀を討ち信長の敵をとることに成功。
その後、清須会議にて秀吉が実権を握りますが、「なぜ、俺が猿と呼ばれた秀吉に頭を下げなくてはいけないのか」と主張したのが柴田勝家だった。
そして、両者は対立します。その戦いを「賤ヶ岳の戦い」といいこれに勝ったのが秀吉でした。そして、完全に実権を握れると思っていた。
そこに「そう簡単には実権を渡すことはできないね~」といったのが徳川家康だった。
<朝廷に近づく秀吉>
黙っていない家康と織田信長の息子の織田信雄でした(小牧・長久手の戦い)。この戦いは引き分けに終わります。
この時、秀吉は「軍事的な統一には手間と時間がかかる」と考えた秀吉は朝廷に近づきます。
これまで秀吉のコンプレックスが農民出身だったことでした。織田信長は合理的人事で実力さえあれば出世できるというシステムでした。
そんな信長に拾ってもらった秀吉は、どんどん出世していくことができました。しかし、信長が死に再びコンプレックスになってしまう。
そこでどうすればよいか考え、朝廷に近づくことにした秀吉。朝廷から太政大臣の地位と関白の役職をもらいます。
そして、「この世に争う意味がどこにあるのか。私が関白として言う。この世に戦争はもういらない」という秀吉にしぶしぶ従うしかなかった徳川家康であった。
秀吉の天下統一はとてもスムーズだったという。その理由の一つが信長とは真逆のやり方をしたからだと言われております。
秀吉は、敗れた相手に対しても殺して領地を全部奪うというやり方はせず、領地を与えて配下になりなさいというやり方を行った。そうしたら裏切り行為が減っていったという。
最後まで逆らった小田原、北条に対しても1万石の領地を与えて配下になりなさいと命じた。しかし、プライドが許さなかった北条は自害する。
<徳川家康の手紙作戦>
天下統一した豊臣秀吉。次に目を付けたのが中国への進出であった。
そこで秀吉は、朝鮮に対して属国になるように要求するが挑戦はこれを無視します。
無視された豊臣政権は、朝鮮に軍を送り込みます。2度の朝鮮出兵を行ったが、2度目の出兵中に秀吉が死亡してしまい、朝鮮の進出は失敗に終わった。
これを見ていたのが徳川家康という男だった。秀吉の死後、実権は息子の豊臣秀頼(とよとみひでより)が握っていたが当時の年齢は5歳。
そんな中、豊臣政権の内部では、武断派と文治派に分かれていた。当時、文治派の上杉景勝が無断で領国(会津)へ帰国。
それに対して家康は、「豊臣政権に対する反抗ではないか」と難癖をつけます。そして、豊臣秀頼の命令ということにして、軍を引き連れ会津征伐に向かった。
これに異変を感じて家康打倒の兵をあげたのが文治派の石田三成(いしだみつなり)であった。
これが「関ヶ原の戦い」の始まりである。最初は、石田軍の勢力が大きく優勢であると考えられていた。
勢力の大きさに焦った家康がとった作戦が手紙作戦で会った。敵の大名宛にこっちの味方に付くように手紙を書き続けます。
この行動がのちに功を奏し、どんどん石田軍の大名たちが裏切り徳川軍に寝返っていきました。
それでも、石田軍は力を緩めることなく接戦の末、何とか勝利したのが徳川軍であった。死の直前、石田三成は「運が悪かっただけだ」と残したと言われるくらい接戦であった。
<まとめ>
いかがだったでしょうか。今回は戦国時代の後編、豊臣秀吉と徳川家康を中心に見ていきました。
織田信長に出会ったことで人生が変わった豊臣秀吉。どんどん出世していきチャレンジを続け、朝鮮まで属国にしようとした挑戦はすごいですね。
そしてこれまで争うことで問題解決しようとしていた常識に対して「争うの効率悪くね?」と考え争うことには意味がないと考えた秀吉だからこそ物事がスムーズに運んで行ったのでしょう。
しかし、ここからこれよりさらにうまく政治を行うのが徳川家康及び江戸幕府。
さあ、ここから徳川の時代になります。どのように変えていくのでしょうか?次回もお楽しみに。