流れをつかむ日本史「江戸時代 後編」
トモーロです。
今回の流れをつかむ日本史は、いよいよ江戸が終わります。
前回、引き締め政策とゆるゆる政策を繰り返し行っていった江戸幕府。さまざまな政策をやりつくしもう策がない幕府がここから一気に衰退していきます。
本日は少し長めなので早速いきましょう!
<何もうまくいかない幕府の政策>
徳川家斉の超パリピ政治が終わり、次に政治の中心となったのが水野忠邦(みずのただくに)であった。
忠邦は再び引き締め政策を行います。倹約令による引き締めと反幕府の書物の出版禁止、株仲間の解散がメインで行われた。
しかし、株仲間を解散したことで株仲間同士で融通しあっていた物流がストップし物資不足が進んでいきます。
もう世間のことが何も見えていない幕府。ここで、幕府の権威を回復させようと行ったメインの政策が上知令で会った。
内容は、江戸や大阪周辺の大名領や旗本領を幕府の直轄地にし、幕府の権威の上昇と安定した財政基盤の確立を目指した。
これに対して、大名や旗本が猛反発。「なんで幕府に渡さなきゃいけねえんだよ。だったら代わりの土地くれよ!」
幕府は代わりの土地を用意しようとするが、多額の費用がかかるため実行できず。やることなすことダメダメな幕府。
ここで、徐々に実力をつけてきたのが薩摩藩と長州藩であった。両藩はともに多額の借金を抱えていたが、藩政改革が成功。財政を回復させ力を伸ばす。
<気になる国際情勢>
この時代は、外国の動きも日本の政策に影響を与えるようになります。このころ世界で何が起きていたのか。それは清とイギリスによるアヘン戦争でした。
このアヘン戦争で勝利をしたのがイギリスだった。これを聞いた日本は、これまで異国船打払令を出していたのに対し、今度は薪水給与令を出します。
これは、困って日本にたどり着いた外国船に対して食料や燃料を与えて穏便に帰すといった今までとは全く真逆のやり方であった。
完全にビビっている日本。このことによって開国の意見も強まるが、幕府はいまだ開国せず。
そんなときに突如現れたのがペリーであった。この時のアメリカの主な目的は2つ。
1つは、中国を大きな市場とみており貿易相手国として取引したい。もう1つは、太平洋での捕鯨をするため。この2つの理由を達成するため、日本を寄地港として使いたいという理由で来航。
これに対して政治の中心人物、阿部正弘(あべまさひろ)「ペリーさん、1度こっちで話し合うから一旦帰ってください」といったん帰国させます。
そして、幕府、朝廷、大名と会議を行った。ここでにおいても朝廷と大名の発言力が強まり、幕府の力は低下していきました。
翌年再びペリー来航。アメリカの要求に対して、反対したかったのだがペリーは昨年を超える軍艦を用意してきたため、日本は条約を結ばざるを得なかったという。(日米和親条約)
これに対してもともと外国が嫌いだった当時の天皇、孝明(こうめい)天皇はめちゃくちゃ怒ります。
これにとどめを刺したのが超独断野郎、井伊直弼(いいなおすけ)であった。
日米和親条約で日本に駐在することになったアメリカ領事のハリスが和親条約をさらに拡大させた不平等条約を結ばせようとしてきます。
孝明天皇がブチギレしてるところに結べるわけがありません。しかし、井伊直弼は天皇を全く無視して、条約を結びます。(日米修好通商条約)
恐るべし直弼。このようなことがあったために「天皇を敬え」と「外国を打ち払え」という「尊王攘夷」の思想が形成されます。
<もう幕府には任せておけない>
井伊直弼が勝手に条約を結んだことでもちろん反対者が続出。これに対し直弼は安政の大獄で無理やりねじ伏せます。
数名の藩士が処刑され、大名らは謹慎処分を食らいます。もう怒りマックスの藩士たち。ついに井伊直弼を江戸城の桜田門の外で殺害します。(桜田門外の変)
もう幕府には任せておけない……
ここで立ち上がった男が土佐藩出身の坂本龍馬(さかもとりょうま)であった。
当時、薩摩藩と長州藩は対立関係にあった。しかし、両藩に共通していたことが「外国と戦ったという経験」であった。
さらに、両藩は「近代国家づくりを行うのであれば古い体制の幕府を壊さなければいけない」ということも感じていた。
ここに共通点を見出したのが坂本龍馬であった。龍馬は、この両藩の仲介を行い同盟を結ばせ、打倒幕府に動き出します。(薩長同盟)
これを知った15代将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、江戸幕府の限界も感じていたため、政権を天皇にお返しします。
そのかわり、幕府の主要メンバーは上位職で働かせてくださいという提案を出します(大政奉還)。これにて260年間続いた江戸幕府が幕を閉じる。
そんなことを許すはずがない薩長を中心とした新政府軍は、岩倉具視(いわくらともみ)などの討幕派の公家と組んで天皇中心の新政府を樹立宣言します。(王政復古の大号令)
これに反発した徳川慶喜は、旧幕府の兵士、会津藩、桑名藩の兵を率いて京都に攻め込みます。
しかし、新政府軍に鳥羽・伏見の戦いで敗北し、徳川慶喜は諦め、江戸城を戦わずして渡します。
残った旧幕府軍は、函館の五稜郭まで追い込まれるまでずっとたたき続けました。この一連の戦いを戊辰戦争というのです。
<まとめ>
いかがだったでしょうか。今回は、江戸時代の後編を書いていきました。
試行錯誤しながら行った江戸幕府の政治でしたが、外交関係にはめちゃくちゃ弱かった江戸幕府。
蘇我馬子の時もそうでした。あの時は海外から仏を取り入れるか取り入れないかでもめていましたね。
今回の江戸の末期もこれに近い状態なのではないのでしょうか。やはり歴史は繰り返されるのか。そう感じさせる内容でした。
さあ、次回から明治時代に入っていきます。もう時代は変わっていきます。徐々に我々が生きる令和に向かっていきます。
次回もお楽しみに!