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流れをつかむ日本史「平安時代前編」

トモーロです。

今回も早速日本史やっていきましょう。

今回から平安時代に入っていきます。前回でコロコロ変わる権力争いが多かった奈良時代が終了しました。

道鏡の勢力は弱まっても、世間ではまだまだ強い仏教の文化。

平安時代では、どうなっていくのでしょうか。

それではいきましょう!


<仏教の抑制>

奈良時代は、光仁天皇で終わりを迎え、その次に即位したのが桓武天皇であった。

そんな桓武天皇が行った政策は主に2つ。そのうちの1つに仏教の抑制がありました。 

これまでの都の平城京では、大和政権から続く豪族や仏教による勢力が強かったため、天皇がリーダーシップを発揮しにく時代でした。

桓武天皇は、「仏教が政界に力があるのはおかしい!正しい仏教をもう一度築くべきだ!」と考え、都を長岡京に移しました。

「いや〜ここはいい都だね!」と思っていたら、長岡京が水害に遭います。「おい!ダメだここ!移動しよう!」と移したのが平安京でした。

ここから平安時代が始まります。

では、仏教をどのように抑えていったのでしょうか。ここで出てくるのが最澄空海です。

この2人が「唐」から密教という仏教を持ち込み、最澄が比叡山延暦寺真言宗を開き、空海が高野山金剛峯寺東寺天台宗を開きました。

密教とは、「長生きをしたい」「不自由のない暮らしをしたい」などこの世での災いを避けたいという現世利益を追求した仏教のことなんです。

なんか今でもこのような考え方が根強いですよね。実は、このように考えていたのは平安時代からだと考えると面白いですよね〜

そして、この密教は「密伝」として伝える必要があるという立場のため、どんどん政治的勢力が弱くなっていきました。


<蝦夷の征服>

桓武天皇が行ったもう1つの事業が蝦夷の征服でした。

蝦夷とは、今でこそ「えぞ」と読み、北海道の土地をいいますが、当時は「えみし」と呼ばれ現在の東北地方を指します。

つまり、当時は東北地方は大和政権から外れており、正式な日本としても認識されていませんでした。

この蝦夷は当時、朝廷に従わない勢力であり族長の阿弖流為(あてるい)という大男が強大化していきました。

そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を初の征夷大将軍に任命し、蝦夷征服を命じます。

征夷大将軍とは、「蝦」を服する「将軍」という意味でこの頃に作られた言葉なんです!知ってました?笑

そして、大和政権を代表田村麻呂VS東北の英雄阿弖流為の戦いが開戦!

田村麻呂「阿弖流爲よ、反撃はやめて大和政権に従うのだ!もはや、お前に勝ち目はない!」

阿弖流爲「オラが東北を守る!かかってこい田村麻呂!!」

両者激戦の末、勝利した田村麻呂。桓武天皇が目指した蝦夷の征服が成功し、岩手県の北部まで朝廷の支配地域を拡大させました。

そして、東北の英雄阿弖流為は死んでしまったが、その英雄ぶりは語り継がれるようになり、「青森のねぶた」のモデルになっているという話です。


<力を表してくる藤原氏>

藤原氏は、飛鳥時代から政治的権力を握ってきましたが、さらに力を伸ばしていきます。

その中でも、北家(ほっけ)と呼ばれる家系は、桓武天皇の後に天皇に即位した嵯峨天皇のとき、重役を任された藤原冬嗣以来、中心的な存在になっていきます。

そんな藤原北家はライバルをどんどん政治の世界から追放、排除していきました。それが他氏排斥。

その始まりが藤原良房であった。当時、皇室のボスであった嵯峨上皇の死後、皇位継承問題が起きます。

そこで、皇位継承に関連があった、ライバルの伴健岑と橘逸勢に疑いをかけ、流刑に追い込みます。

「はい、これでライバルいなくなった〜」と喜ぶ良房。自分の血縁関係にある天皇を次々と即位させます。

中でも清和天皇はわずか9歳という若さで天皇に即位したため、藤原良房が幼少の代わりに政治をみる摂政となりました。

その出来事を機にどんどんと藤原家が勢力を伸ばしていくのです。


<まとめ>

いかがだったでしょうか。今回は平安時代の前編を紹介していきました。

一方この頃、土地問題も発生します。

土地の問題から、財政が厳しくなり、この土地問題が武士を誕生させます。

今後もどんどん面白くなっていきますので次回もお楽しみに!





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