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谷崎潤一郎「細雪」はなぜ軍部➕GHQにより発禁になったか〜マルチチュードという「不在」とグレート・マザー=「マンマ・ミーア」の必然

プロローグ

35年前
あなたは「細雪」4姉妹のある姉妹に似ている
それが愛する理由だと告げてくれた男性があった
私にはそれが
当時 分からなかった
四女似の神戸を徘徊するお転婆娘だと非難されていると誤解し
最も客観的で冷静な女だと
褒められていたことが「今日
これを書くまで
分からなかった
みんな 「その時」 分からない
これはプロローグ
序章である

1: 「マンマ・ミーア」纏まって欲しいのに纏まらない縁談

雪子ちゃんの縁談と云うと何か不吉な前兆に遇うことがしばしば………
これ迄にも雪子の見合いと云うと、故障が起って
一遍にすらすらと運ばないことが多かった

谷崎潤一郎「細雪」以下同じ

栄華最盛期のうちにお嫁に行った
長女 
東京の本家の鶴子 
次女 
神戸=分家の幸子 
四女 妙子のお転婆に翻弄されつつ
三女 雪子
纏まって欲しいのに 纏まらない 
縁談にイライラ
しょっぱなから
①姪の病気 
②姉の流産 で 
見合いが延期に…

自分たち迄が、繋がる縁で妹に纏わる運勢の中へ捲き込まれたような、薄気味の悪い心持もせざるを得なかった

二度あることは三度ある…
その後も雪子の縁談が纏まることはなかった

もう今度こそは
この妹と行を共にする最後…

と願いつつ
来年もまた一緒に

亦この花を見られますようにと願う

この「矛盾」‼️
最大の矛盾はここ👇

幸子一人は、来年自分が再びこの花の下に立つ頃には、恐らく雪子はもう嫁に行っているのではあるまいか、花の盛りは廻って来るけれども、雪子の盛りは今年が最後ではあるまいかと思い、自分としては淋しいけれども、雪子のためには何卒そうであってくれますようにと願う。

普通 お嫁に行く=花の盛り🌸
が通常の認識だが
次女 幸子にとっての
花の盛りの定義は違う
雪子の盛りは今年が最後
淋しいけれども
そうであってくれますように」???
次女 幸子にとっての花の盛りは
蒔岡家の栄華ある過去=桜🌸の盛り
花🌸💐桜=蒔岡家
失われた時を求めて止まないのだ
ベクトルが反対向いてる💦

散る花を惜しむと共に、妹たちの娘時代を惜しむ心も加わっていたので、来る年毎に、口にこそ出さね、少くとも雪子と一緒に花を見るのは、今年が最後ではあるまいか

花見の🌸シーンとともに
繰り返されるこの言説
栄枯必衰の理否認する蒔岡家
散る桜の前でひとは無力
であるのに
花見しながら蒔岡家の「桜」散るのには
何かしないではいられない
久々に芦屋にやってくる長女 鶴子
そして亡き父母の法事のために
彼らは
蒔岡家の最盛期を象徴する
「自分たち姉妹だけでささやかな催し」
を行い
時の無常に抗いを見せる

何か今度の法事には充たされないものを感じていたので、一つにはそれを満足さすため、一つには久々で迎える姉を慰労するためにもと、善慶寺の集りのあとで、自分たち姉妹だけでささやかな催しをすることを思い付いた。で、法事の翌々日、廿六日の昼に、亡き父母にゆかりのある播半の座敷を選び、貞之助にも遠慮して貰って、姉と自分たち三姉妹の外には富永の叔母とその娘の染子だけを招くことにした。そして余興には、菊岡検校と娘の徳子に来て貰い、徳子の地、妙子の舞で「袖香炉」、検校の三味線、幸子の琴で「残月」を出すことにして、急に半月ばかり前から、幸子は家で琴の練習を、妙子は大阪の作いね師匠の所へ通って舞の練習を続けていた。

何という純度❣️
父と母 姉を想い
幸子は琴
妙子は舞の練習に勤しむのである
時の無常に必死に抗う4姉妹
蒔岡家への想い
家🏠家🏠を想う心=「」が
強すぎるから
その家=桜🌸の最後の責任を担う
三女 雪子と
四女 妙子は
嫁に行けない
この歌を思い出す
娘を手放す母の想い 私の想い
ちょっと脱線
歌はメリル・ストリープ
ミュージカル映画「マンマ・ミーア」

その和訳

縁談が
纏まらないではなく
纏まって欲しくない
纏まっては桜散る蒔岡家
という「帝国」
崩れ去らない限り 
雪子と
妙子は
お嫁に行けない
阪神大水害
太平洋戦争

失われていくものばかり😹
❤️‍🩹そんな時局=磁極のなか❤️‍🩹
家族は 
夫婦仲は
兄弟愛は奪われまいと
団結する
家への想い=グレート・マザー
=「マンマ・ミーア」 
が蒔岡家には強すぎる❗️
長女や次女は
あたかも代わりのように
三女 四女を愛してきたし
また
三女 雪子はいまや
幸子娘 悦子にとっての慈母的存在となっている

この児は母親が外出すると云ってもこんなにまで跡を追わないのに、雪子が出かける時はいつも執拗く附き纏って何とか彼とか条件を出さずにはいない

雪子が芦屋からいなくなると精神の調子を崩す悦子
を知る雪子
はっきりした意見を述べることがほとんどない
自分のない」雪子が
「細雪」中で強い想いを表明している
レア なワンシーン👇はここ

結婚するとなったら、誰よりも一番親しくし、頼みにもしていた幸子と逢えなくなると云うこと、いや、幸子にはまだ逢えもしようが、悦子と逢えなくなってしまうこと、逢えても最早や昔日の悦子ではなくなっているであろうこと、───自分の及ぼした感化なり、注ぎつくした愛情なりを、次第に悦子が忘れ去って別な悦子になっているであろうこと

驚いた 本当に驚いた
雪子という人は本当に自分がない
デート(見合い)で男性と2人になっても
常に後ろを振り向いて姉を探している
電話で男性とも話せない
何を話せばいいかわからない
電話では「誰にも聞けない」から

その雪子という人が
しっかりと自分を見ている上記シーン
「自分の及ぼした感化なり、注ぎつくした愛情
つまり
自分が悦子に及ぼした影響
自分の投影
他者を通して
雪子が自分を守ろうとしてる
谷崎潤一郎 すごいって思った

2: 読者には見えるマルティチュード=「時局にそわぬ」 で発禁

「読者には」見える
ここなのだ
谷崎潤一郎は読者に期待している
縁談が纏まらない
じゃなくて
纏まって欲しくないんやん❤️‍🩹
もっと客観的に見れば見えるよって
慈母
アントニオ・ネグリのいう
マルティチュード
「家」
=想い 怨念 迷信 念 磁極

が強過ぎて
縁が纏まるはずがない
そこで谷崎潤一郎は
そこに
四女 妙子を置いた
「自分たち姉妹の中では一人だけ毛色の変った、活溌で進取的で、何でも思うことを傍若無人にやってのける近代娘」一番年下の四女の妙子を
4姉妹の中で「誰よりも世故に長けていて
最も客観的人物として描いた谷崎
彼女は
嘆きもせず 笑いもせず
ただ見ている 
最愛の男 ①奥畑
駆け落ちして
足掻きを無駄と知った妙子は
只「ある」 存在となった
嘆きもせず
「どう云う場合にも冷静を失わない性質」をしており世間を知らない姉達を「甘く見てもいて、まるで自分が年嵩のような口のきき方」姉を「妹扱い」するような冷めた姿勢を持っていたので
姉たちからすると「時には憎らしくさえなる」
しかし 妙子からしても
長女 鶴子
次女 幸子が
姉の婚礼の衣裳を着けた妹(妙子)の姿」
に涙ぐみつつ
最愛の男には何度も嫁がせず
水害で妙子が死にかけても
嫁げなかった妙子の
他責=宿命のせいにしている姉に言葉はない

あの妹がこんな殊勝な恰好(姉の婚礼の衣裳)をしてこんな写真を撮ったと云うことが、何だか偶然ではないような、不吉な予感もするのであった。
この写真の姿が最後の盛装になったのであろうか

①奥畑 
②板倉 
との縁を潰し続けているのが他ならぬ
この
姉2人であることを
誰よりも知っており
また
彼らがそれを知らない
ことも知っている

そして水害で命懸けで妙子を救った
最愛の男②板倉
「氏も素姓も分らない丁稚上りの青年」
は 幸子曰く
「こう云う予想もしなかった自然的方法で、自分に都合よく解決しそうになったことを思うと、正直のところ、有難い、と云う気持が先に立つのを如何とも制しようがなかった。」
んでいった板倉
ますます自暴自棄=客観的になっていく妙子
縁談が纏まらない
ではなくて
纏まって欲しくない姉たちなんだということを
誰よりも知っている
知らない人に知らないことを伝えても
無駄な足掻きであることも
誰よりも知っている妙子
姉が「家」を手放さない限り
既に
始まりに終わりがあり
終わりに始まりがある
妙子と雪子を
自由に=手放さない限り始まらない「縁談」なのだ
そんな「客観」的視線
「自由
」の体現者として
谷崎潤一郎は「細雪」に妙子を置き
戦時検閲に引っかかり発禁となった

谷崎は軍部や戦局を批判するため
政治的事由からこれを書いたとは思われない
しかし
軍部やGHQ
谷崎潤一郎の想いが痛いほど伝わってしまい
発禁
それ故 反対に
ほんとうに伝わって欲しい大衆に
伝えられなかった皮肉
が谷崎を唸らせたのは事実だ

私が「細雪」の稿を起したのは太平洋戦争が勃発した翌年、即ち昭和十七年のことである……掲載される筈の所がゲラ刷になったまま遂に日の目を見るに至らなかった……いや、ことは単に発表の見込が立たなくなったと云うにつきるものではない。文筆家の自由な創作活動が或る権威によって強制的に封ぜられ、これに対して一言半句の抗議が出来ないばかりか、これを是認はしないまでも、深くあやしみもしないと云う一般の風潮が強く私を圧迫した。

谷崎潤一郎「細雪」回顧

皆さんにはもう見えますか?
軍部とGHQにはちゃんと見えました
軍部にそれだけの知性と洞察力がそこにあったのに
戦争は止め得なかった

「如何なる国民も戦争は好みませんから、結局戦争にはならないでしょう。チェッコ問題はヒットラーが処理してくれることと、
私は確信しております」……
ヒットラーなら万事を巧く処理するから多分戦争にはならないであろう……

太平洋戦争前ー只中に執筆された
谷崎潤一郎の「細雪」を読んでいると
そんなヒトラー崇拝当時の時勢が伺える。
戦争なんて
起こって欲しくない=ヒトラー信奉

起こって欲しい
ヒトラーの
始まりが終わり
終わりが始まり
であることが
その時」
大衆
には見えなかった
「このような大動乱の世の中が出現したのを、夫人は今頃いかに感じているであろう。長男のペータアも、もうヒットラーユーゲントに加わっている年頃ではなかろうか」

3: 文学は正気を保つためにある

大衆には
「見えない」これが情念の性質
谷崎潤一郎が上記回顧で批判するように
深くあやしみもしない
情念には
その「時」
汚いはきれい、きれいは汚い
に映り反対を信奉
シェークスピア『マクベス』
有名な予言は
いつまで経っても架空の物語の域を出ない

世の中自体が本当に「キレイはキタナイ、キタナイはキレイ」を地で行くようになって、そういう言葉の中で社会を認識していると、ちょっと頭がおかしくなってくる感じがあります。

平野啓一郎「文学は何の役に立つのか」

シェイクスピアも
平野啓一郎もリアルを面白く描く天才💦
とどのつまり
小説が
真実を暴き出し
現実は 
蒔岡さんたち同様
虚構を生きている

小説=架空=真実
小説の描く真実を架空と思い
反省することなく
現実=虚構という架空を生きている
つまり
小説=現実
ということが
大衆には見えない
だから文学は

世の中で正気を保つため

平野啓一郎「文学は何の役に立つのか」

にある

縁談が 纏まって欲しい=纏まって欲しくない
戦争が 起こって欲しくない=起こって欲しい
始まり=終わり
終わり=始まり
きれい=汚い
小説=真実
現実=フィクション

渦中の人々が反転していること
蒔岡家の反転
ナチズムの反転
我思う 故に 我あり
帝国のオリジンたるマルティチュード
にいないと見えない

4: マルティチュード=ヘーゲルの逆立ちの逆立ち(=マルクス)の逆立ちという弁証法

ヴェルサイユ条約→ヒットラー台頭という
宿命=必然の内でひとは
「偏ひとへに風の前の塵におなじ」 (平家物語)
塵の流れが形成した時局
逆らえず
嘆きもせず
笑いもせず
「ただ理解する」
客観性に冷徹する姿勢以外に
正気を保ち得ない
スピノザ
「細雪」四女 妙子と共に
とても強い人だと思う
彼はこれを「必然」 (スピノザ「政治論」) と言った
そして
その必然を
谷崎潤一郎は 蒔岡家を通して
ツヴァイクは 女王エリザベス
フロイトは「モーセ」を通して (前稿参照)
否定」を一度 介して
真実を 必然
伝えようと努力した

真実とは
否定を通してしか
到達できない
伝わらないものだからだ

マルクス
ヘーゲルの
異なるものと異なるものの掛け合わせ
否定の弁証法の逆立ちを暴き 
ただ
ある=ある ではない
不等価交換


スピノザのいうように「必然
それが 「」であり「国家」 そして「契約=経済」に過ぎないことを
ヘーゲルを反転して訴えようとした

マルティチュードはそれを二重に利用する

スピノザとマルクスを研究したという
アントニオ・ネグリである
スピノザやマルクスの意図とは反対に
否定を掛け合わせ
と言おうか
二者の良いところ取りとでも言おうか
スピノザの外的「神」否定
マルクスの「革命」的要素を取り上げ
テロリスト的ネグリが信じた
国境を越えたインターナショナルで「バーチャル」な帝国=マルティチュード
フランス革命を引き起こしたルソーの世界でもある

「ルソーを読んだか?」「ああ」「あの一節を憶えているか?  ルソーが読者に、もしパリから一歩も出ずに意志の力だけで中国にいる年老いた役人を殺すことができ、それで金持ちになれるとしたら、きみならどうするかと訊ねてくるくだりだ 」「あったな」「で、どうする?」「そうさな!  目下、三十三人目の役人を料理中」「ふざけるなよ。いいだろう、じゃあ、それが可能なことだと証明され、おまえが頭をちょいと動かすだけで、それができるとしたらどうだ?」

バルザック「ゴリオ爺さん」

戦争を好まずして戦争に導き
ヒトラーを信奉してヒトラーを批判
縁談の成就を望みつつ潰し
好きのアントワネットをレズビアンゆえ殺せと行進
パリにいながら中国で殺人する
マルティチュード

弁証法的「矛盾」の力は
①ヘーゲルの逆立ちを 
逆立ちさせたマルクスを
③再度 逆立ちさせ
ホップ⭐️ステップ⭐️ジャンプ で
バーチャルに「帝国」を無国籍に形成する
女子高生でも日本にいながら
アメリカの一流銀行を破綻させるだけの力を持つ
バタイユはこれを「呪い」といい
経済学の喫緊の課題を
呪いを取り除く
火=熱を鎮火
することと言った
バタイユこそが
最も真実に近づいた人であるのに
ひとは彼を普通でないとした

エピローグ

つまりです
谷崎潤一郎「細雪」とは
マルティチュードの力を
」の生命の美を通して描いた
ものすごい本なのだ
川端康成の「山の音」も同テーマ
娘 息子夫婦が 
うまくいかない 不貞ばっか
なのは
父母夫婦が 
うまくいってない 不貞のまま 
他の女性を好きなのに 結婚したから

これを因縁というか
マルティチュードと呼ぶか 
はともかく
「渦中」には
「今」には「今」が見えないことが問題
川端康成は「山の音」の最後に
「天に音がした」と言い
必然がそこで断ち切れる

かくいう私も
35年前
四女に似てる=遊び過ぎと非難された
と思ってたら
実は褒められてた
ことに気づかなかった
「細雪」の真実に到達した今日
35年間の思いが反転していたことに気づけた
結局
我思う 故に 我あり

マルティチュードの翻訳 むずいですけど😓
群衆 世論 大衆 怨念 因縁 呪い 念  念力 時局 磁極 想い 盲信 迷信 …
「密室性」 ?
でも「密室性」には「広がり」の概念が入ってないから
やっぱりダメかな
バタイユの「呪い」や「火」「熱」やっぱ一番近いのでは?
谷崎や川端のように
語らないで語るマルティチュードが
きっと一番自然なのかも
「纏まって欲しいのに纏まらない縁談」 (谷崎)
「不貞に苦しむ息子と娘の不貞」 (川端)
これがマルティチュードという
「不在」だ

川端康成「山の音」に続く🥰

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