「千日回峰行」
仏心に目覚めたのではない。
前にも、故・酒井雄哉さん、塩沼亮潤さんなど、千日回峰行をやり遂げて大阿闍梨(生身の不動明王と言われる)となった人の本は興味深く読んでる。
千日回峰行は、これまで何人の僧侶がやり遂げたのかは知らないが、基本的に、深夜、真言を唱えながら、比叡山を休みなく歩き回る(1日30〜84㌖の行程)という、とんでもない苦行である。それを千日(実際には975日)も続けるのだ。何があっても休むことはしない。休む時は死ぬ時で、覚悟の自決用の短刀を持つ。
終えたら、今度は9日間に渡って、護摩木を焚きつつ、断食・断水・眠らない・横にならないという、これまたとんでもない苦行がある。
これらを終えて、やっと大阿闍梨となるのだ。近代になって、この行を2回、3回もやり遂げた僧侶がいるというから超人的でスゴい。
この荒行をやり遂げた大阿闍梨の1人、光永覚道さんへのインタビュー本。
自身の生い立ちなどから、行に入る前、最中、その後、身体や意識、精神の変化など、事細かに答えてくれて、とても興味深く読んだ。
俺は、別に仏教の教義や祈願、ルールなどのイデオロギーに興味があるわけではない。興味があるのは、人間が、究極まで欲を抑えて、徹底的に自分を律し、命の危機に繋がるような行動を、祈願のために自ら望んでやるということだ。
大阿闍梨さんも言う。いくら自分を虐めても苦しいだけで“悟り”なんてものは得られないと。
じゃあ、なぜ、わざわざ命を削るようなことをやるのか。欲を抑えて苦行に望み、死に近付くことで、何か見えて来るもの、脳内麻薬ドバーッかもしれないが、人間の精神の極北みたいなものにを垣間見ることができるのでは、と俺は思ってる。
上手く言えないけど、苦しむからこそ得られるものも大きいはずだ。享楽的なことばかりをしてると肉体も精神もだらしなくなるものだし。まあ、それも一つの生き方としては良いと思うけど。
故・酒井さんは歩き過ぎたことで、ちょっとのケガから脚を腐らせる事態に陥ったが、それでも修行を続けたことで、自ら治してしまった。塩沼さんは、苦行の後、脳内のレントゲンを撮ったら、(苦行のやり過ぎで?)脳が欠損してることがわかったという。行も極北まで行くと、現代医学を超えるのだ。
人間は、食欲、睡眠欲、色欲の3つで成り立っている。それを完全に否定する🟰人間としての存在基盤を否定することで、改めて人間の存在価値を認識するのである。中途半端ではなく、欲を完全に否定するから“生き仏”と尊敬されるのだ。
先の2人も書いていたが、光永さんも、荒行の間、山の中で、生きている人間に出会うことが一番怖いという。獣やお化けの類いは全然怖くないと。
そして、信仰と狂信は違う。
俺も毎日のリハビリは荒行だと思ってる。右片麻痺という第2級の身体障害者になったからこそ、五体満足では気付けなかったことを認識できるし。大阿闍梨さんのマネなんか絶対できないけれど、俺なりに自分にリハビリという荒行を課すことで、精神を律し、何か研ぎ澄まされたものを持ちたいと願っている。
脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。