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映画批評『ファーストキス』: あり得た過去の持つ力

この記事では、松たか子主演で話題沸騰中のラブストーリー『ファーストキス』を、少々哲学的な観点から簡単に批評してみる。

監督はTBS系ドラマ『アンナチュラル』や映画『ラストマイル』の塚原あゆ子。また脚本はドラマ『東京ラブストーリー』『カルテット』『大豆田とわ子と三人の元夫』、また映画『花束みたいな恋をした』『怪物』などの数々の話題作の脚本を務めてきた坂本裕二だ。

批評の前に、いったん感想を

感想は、非常に美しく感動的で見事なラブストーリーといった感じで、「これは日本映画史に残る」、と率直に思った。私自信、恋人と一緒に暮らしているが、日常のシーンなどはとても共感するものも多かった。またホテルの待合室的なところで駈(かける)が44歳のカンナに対して、死んでしまうことを受け入れた上で当たり前のことのようにカンナと結ばれたいという気持ちを示す場面は、映画で泣いたことのない私でも危なかった (でも涙は出ませんでした(笑))。

私は普段は洋画を中心に見ている。ジャンルもSFやサスペンス、ヒューマンドラマが好み。なので、恋愛系邦画はどちらかというと苦手というか、「見ても特に何も考えないだろうし、何も残らないだろう」と正直思っていた。しかし、本作は違った。もちろん、ここはあまりいただけないなという箇所もないことはない、というか実際いくつかあるが、そういった要素はどんなにいい映画を見てもつきものなので。

軽く自己紹介
私は本業では理論物理学・複雑系科学のポスドクをしておる者で、映画を見たり哲学書を読むのが趣味です。この批評記事執筆の前に、クリストファー・ノーラン監督による大ヒット映画『ダークナイト』(The Dark Knight (2008)) を哲学者ジャック・デリダの思想である脱構築を使って分析・批評することでその映画のテーマである「正義とは何か」に迫った note の記事も書いています。ぜひそちらもご覧ください。力作です (本記事の最後にそちらのリンクの埋め込みをおきます)。

そしてなんと、この『ファーストキス』の批評もそのデリダの哲学に関わります。


この映画が言いたいこと

まずここで簡単に、『ファーストキス』という映画の持つメッセージを言ってしまう。それは「過去を反省して未来を変えるには、非本質的であると思えることにこそ注意を向けよ」というメッセージだ。

そして明らかに、このメッセージは恋愛や夫婦生活でのみ意味を持つというわけではない。そう、この映画は恋愛や夫婦生活を描きつつも、実は恋愛や夫婦生活には留まらない普遍性へと到達することに成功している

タイムリープの持つ重要な意味

さて、この映画の重要な要素はもちろん、松たか子演じる主人公のカンナが電車事故で死んでしまった夫の駈の未来を変えるために何度も過去の二人が初めて出会う時点までタイムスリップ (タイムリープ) することだ。

このタイムリープは明らかに、「あり得た過去=可能世界を考えること」のメタファーになっている。現実では我々は過去の自分あるいは恋人などに、未来からの反省を伝えるなんてことはもちろんできない。しかし、誰しも、「もしあの時こうしていたら」という形で過去を振りかえり、実際の過去とは異なる「反実仮想」を考えることで、過去を反省するだろう。そしてその反省を、実際にそれを考えている現在以降の人生に活かせる、というところまでいく人も中にはいるのかも知れない。

カンナの行動はまさにそうしたことに対応したものになっている。坂本裕二はそれをタイムリープという形でメタフォリカルに描いたのだ。

したがって、この映画の感想や批評の中でたまに「タイムリープは必要だったのか」的なものを見るが、私の考えではそうした疑問・批判は少々的外れである。本作の趣旨の本当の中心は、恋愛、あるいは夫婦生活自体にあるのではない。「過去を反省すること」の効果や、その効果が発揮されるための条件を、誰もが共感し感動できるような恋愛という題材で届けている、と見た方が『ファーストキス』の本質に迫ることができると私は考える。というか一般に映画の制作サイドが、タイムリープという一つの物語の設定としては非常に大掛かりなものを、その物語 (映画) のテーマに対して副次的なものとして盛り込むといったことは考えにくいだろう。

なぜ駈は何度も死に、何度もカンナを好きになるのか

これには論理的な理由というものはもちろん存在しないだろう。

説明になっていないかも知れないが、簡単に言ってしまえばこの理由は、駈が赤ちゃんを助けるために事故死してしまい、理律 (吉岡里帆) ではなくカンナを好きになるのはそれがどうやっても変えられない必然だからである (途中、リリーフランキー演じる理律の父親の大学教授が学会準備で駈をアゴで使うようなシーンがあるが、あれは駈が大学に残ることはなく、また理律と一緒になることもないということを強調するための演出だろう)。

駈は生き死によりも重要なことがこの世にはあると考えている。それはセリフに現れていた。目の前の人を助けるという行為は、そのような信念を持った人間からすれば当然、必然になる。

また、いくら他の人を好きになるべきであると言われようと、人は、あるいは男は (何かどうしようもない事情がない限り) ビビッときた、一目惚れしてしまった人を諦めて別の人にあえて向かうといったことは決してしないだろう。顔がめちゃくちゃタイプで一度意気投合してしまった人に告白するというのは (少なくとも男にとっては) 必然なのである。

こういったことは他のあらゆることでも成り立つ。受験の失敗、友達との仲違い、スポーツでの大怪我など、それらの記憶を具体的かつ詳細に思い出してみてほしい。直接の原因からさらにその原因、またさらにその原因、、、といった具合に遡ってみれば、実は誰しも、当時の自分ではどうにもできなかった原因に行き着くのではないだろうか?

坂本裕二はそういった必然性を強調したくて、こうした展開にしたのだろう。そしてそうすることで、次に考察する、逆にカンナと駈の夫婦生活が幸せなものに変化したことの意味が明らかになる。

なぜカンナと駈の夫婦生活は幸せなものに変わったのか

ではなぜ他方で、カンナと駈の夫婦生活は、上述した駈の必然性とは異なり、幸せなものに変化したのだろうか?ここにこの映画に込められたメッセージの核心がある。

坂本裕二は、この世には過去を反省してもなかなか変えられない必然と、逆に変えられるものとの間に線を引いているわけだ。その線はいったい、どこに引かれるのか?

それは、人々が通常、本質的であると考えている事と非本質的であると考えている事との間である。

カンナが未来からやってくる前の駈の立場で考えてみる。駈は、博士号をとって間もない任期付きの研究員である (多分今の私の本業と同じポスドクみたいな立場である) 。したがって、日々の丁寧な暮らしやカンナとの会話などよりも、自分の研究の方がより本質であると考えている。確かに、研究を進展させて論文を書かないと自分の研究上の夢は叶えられないし、アカデミアは競争が激しいため、大学での次のポジションは得られない。

また、不動産会社に転職した後も仕事を本質と捉え優先する姿勢そのものは同じだ。自分のペースで生活するために自分だけのシングルベッドを買い、土日もカンナと過ごすことよりも上司との草野球を優先する。

駈はカンナとの日常生活を自分の研究や仕事よりも「低く」見ている。非本質的なものだと思っているのだ。

しかし、そのような「非本質的なもの」を軽視した結果、カンナとの夫婦生活は冷え切ってしまう。そして離婚という決断まで至ってしまう。

果たしてこの結果は、駈が本質と捉えているもの、仕事上の成功においてマイナスには作用しないのだろうか?そんなことはないだろう。そしていうまでもなく、カンナの精神や人生もめちゃくちゃにしてしまっている。駈は自分が本質と思うものだけを優先し非本質と捉えているものを軽視した結果、あらゆることの破滅を導いたのだ。

非本質的なものは必然的か

では、こういった非本質的なものは、どうやっても変えられない必然なのだろうか?

そうではない、というのが、少なくとも坂本裕二の答えなのだろう。

具体的に考えてみる。同棲相手との何気ない日々の会話は何をどうやっても増やせないだろうか?同棲相手とデートなどして過ごすために、会社の同僚との用事を断って休みの日を空けておくことは何をどうやってもできないだろうか?二人が同じ時間に寝て起きれるように生活や仕事の仕方を調節して、一つのダブルベッドで寝ることは、何をどうやってもできないだろうか?

そんなことはないだろう。少なくとも、顔がどタイプで意気投合した異性を諦めること、大学受験で全然無理そうな大学に合格することより、はるかに何とかなりそうではないだろうか?

そう、非本質と思われることは、必然的ではないのだ。

そして、先ほど言及したように、非本質的なことの軽視は駈やカンナの人生における本質的なことに大きな負の影響を与えた。つまり、過去を反省して未来を変えようとするには、必然性の低い「非本質的なこと」にこそフォーカスし、それを変えようと努力すべきなのだ。

非本質的なことを変えることは、必然的なことを変えることはできないかも知れない。しかし、本質的なことに影響を与えることはできるのだ。

過去を反省して未来を変えようと促したのは駈ではなくカンナ

ここまで主に駈の人生視点で過去の反省から未来を変える的な話を展開してきたが、もちろん『ファーストキス』では、それを促したのはカンナである。つまり、駈一人ではこの作業は完結していない。これもある種のメッセージだと考えてみる。

つまり、「非本質的なことに目を向けて未来を変える」というのは、決して一人で全てやろうとしなくていいということだ。恋人とともに、友達とともに共同作業のようにやろう、そういうことなのではないだろうか。

実際、人間は一人では、当たり前だが自分にとって本質と思えることしか本質と捉えられない。しかし他者の視点はここに、非本質の重要性という「気づき」を与えられるのだ。カンナはまさにそのような役目を作中で果たしていた。

「寂しい」という感情の脱構築

以上でこの記事で伝えたいことはほぼ全てです。

最後に、44歳の駈がカンナに死ぬ前に書いていた手紙の中で、「寂しい」という感情の持つ二重性を説くシーンを振り返る。これは実は、「寂しさ」を脱構築している。

脱構築とは、20世紀を代表する哲学者ジャック・デリダによる非常に有名な概念あるいは方法である。

デリダ

脱構築に関する学問的に詳しい説明はここではもちろん行わない。しかし簡単に説明すると、脱構築とは、ある言説をつぶさに読み解いていくとその内部に、その言説と対立する概念が入り込んでいることを暴露する行為のことである。

駈はその手紙で、詳細なセリフは忘れてしまったが、「寂しいという気持ちは実はひとりぼっちで寂しいというだけじゃない。誰かを好きだったり、一緒にいたい人がいるから寂しいという気持ちになるんだ」みたいなことを言う。そう、寂しいという観念には「ひとりぼっち」とか「孤独」というような概念が入っていると思われるが、そもそも寂しいと感じる出発点にはそもそも誰かと共にいる・一緒にいる、という、それとは対立する状態があるのだ。

これはまさに先ほど簡単に説明した脱構築のような表現である。

本質と非本質の逆転

そして実は、これまで説明している本質と非本質の関係も、実は脱構築になっているのだ。というか、実は本質と非本質の逆転はデリダ自身が言っていることであり、また、歴史において「もしこうだったら」というふうに可能世界を差し挟む行為も実は脱構築なのであるが、ここではなぜそう言えるかは詳しくは説明しない。

もしも興味がある方は、東浩紀『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』を読んでください。この本は東浩紀の博士論文を書籍化したものです。

なぜ本質と非本質の逆転が脱構築なのか。それは、先ほども駈の人生の例で説明したように、本質に影響を与え、実は影でで支えているのは (カンナがタイムリープする前の駈にとっては) 非本質であるからだ。つまり、本質というものを成り立たせるために、本質の対立概念である非本質が必要となってしまうのだ。そう、脱構築になっている。

以上で『ファーストキス』の批評は終わりです。いかがだったでしょうか。

こんな感じで、哲学を使った映画批評を今後も書いていきます。それには皆さんからのサポートも必要です。面白かったらスキやチップなどぜひお願いします!

また以下の記事では『ダークナイト』の批評も書いてます。こちらはもっと論文調で長いですが、読んでくれた友人は皆面白いと言ってくれています。ぜひ!



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