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歴史ごっこ「中将姫」 弐

↑ からの つづき

 一気に中間結論を云うようで恐縮ですが、釈迢空(折口信夫)が『死者の書』で「秘事」を明かしてますからね。推理するフリをするのも何なので、ご了承下さい。

「秘事」とは、

當麻寺は大津皇子の鎮魂の寺である

 それだけとは云いませんが、それがものすごく大きな役割だと思います。
 根拠は、大津皇子の墓所が近くにあること。しかも大津皇子が亡くなった時期と當麻寺が成立した時期が重なる
(673年)役行者が二上山東麓の土地を當麻寺創建のために寄進。
(681年)敷地に弥勒仏がお祀りされる
(685年)當麻寺の造営開始
(686年)大津皇子死亡
(687年)當麻寺創建
 大津皇子が亡くなる前から造営が始まっていたかのようにプレイベントが列挙されていますが、かえって不自然な気がしないでもありません。ただ、現段階では「大津皇子の鎮魂のために當麻寺が創建されたとは云いません」。「大津皇子の墓所の近くにたまたまお寺が創建されたので、そこで鎮魂してもらうことにした」ということにしておきます。
 そのほかにも、弘法大師が當麻寺に参籠したおり、大津皇子の鎮魂の行を行った事実があります。
 當麻寺が大津皇子に関わる特別な場所だというのはおそらく公然の秘密だった。「秘密」というのは、當麻寺の説明には大津皇子の名前が出て来ないからです。公式には認められない事情がある。

どうして大津皇子の鎮魂が必要か?

 大津皇子が非業の死を遂げたからです。次期天皇の最有力候補だったそうですから、そんな貴人が冤罪で自死に追い込まれるというのは、あってはならないことですし、起きてしまったことは仕方が無いで片付けられません。ずっと償い(弔い)続けなければならない。

どうして非公式に鎮魂しているのか?

 大津皇子を追い詰めたのが持統天皇(即位したのは後のこと)の勢力だったからでしょう。そして、その系譜はずっと続きました。ただ、そうなると待ってばかりもいられません。そこで中将姫の伝説が創作されたのだと思います。大津皇子のアバター(中将姫)を作って中将姫が救われたことにし、そんな中将姫を今度は、ありがたい存在として信仰の対象にした。

大津皇子って、皇位継承に敗れて亡くなった…
ただけそれだけの存在?

 そこがひじょうに重要なポイントになると思います。皇位継承の競争に敗れた皇子は奈良時代までの間でも、それこそ何十人もいたでしょうし、死に追い込まれたケースもいくつもあります。
 しかし、その中のごく一部が歌やお能の題材になっている。そのような事件や人物には特別な何かがある、というのがわたしの視点。

大津皇子っていったい何者?
正史に記された事実以外に何かあるの?

 そこに踏み込む前に、

 どうして釈迢空(折口信夫)が『死者の書』で、中将姫に大津皇子の鎮魂をさせたのか? 先ほども言いましたように、表だって大津皇子を弔うことが出来なかったので、中将姫というアバターを拵えたのだと思います。ただ、事情はもう少し複雑で、中将姫は大津皇子とその姉の大来皇女の合成だと思われます。當麻寺の縁起にある「男女の境界もないので愛欲の煩いもない」という唐突な一節は、そのことを示しているのだと思います。だって、普通そんなこといわないでしょ? 

姉の大来皇女も特別な存在だった?

 大津皇子と同じく父親が天武天皇母親が太田皇女です。太田皇女は持統天皇の実の姉で、天智天皇の娘。つまり、草壁皇子のライバルの王子が大来皇女と結ばれると厄介だった。
 それだけが理由だったとは云いませんが、大来皇女は斎宮として伊勢神宮にやられます。誰の妃になることも出来ないようにした。ちなみに大来皇女が初代の斎宮です。大来皇女を中央から排除するために斎宮の制度を新設した可能性だってあるかもしれません。
 そんなことよりも肝心なのは二人の関係ですが、かなり意味深な歌が二人の間でやりとりされていたということだけ紹介しておきます。それらの歌の読み解きは、また後ほど。

二人は仏教との関わりが深かったの?

 逆です。神にもっとも近い存在だったのです。姉の大来皇女は伊勢神宮の斎宮。大津皇子も神である天皇の候補ですから、二人共、神にもっとも近いところにいた。にもかかわらず、とてもつらい人生を送ることになったわけです。乱暴な云い方をすれば、神では救われなかったから、仏に救われたことにしたのだと思います。

『死者の書』の筋書き…… 大津皇子の魂が中将姫によって救われたというのは、大津皇子が「當麻寺」のおかげで救われたということで、「秘事」をそのまま明かしてしまった。現代においては、それくらいのことでは不敬にならないと判断したのか、あるいは、小説だからよいと思ったのか……。

 ただ、そんな釈迢空(折口信夫)も自分の「秘密」は明かしていません。釈迢空の「秘密」とは、どうして中将姫(大津皇子・大来皇女)を小説にしたのか? ということです。

 実は、そのあたりの謎解きがわたしのライフワークになるかもしれない、と思っていたのですが、別の記事を書いている時に、かなり重要な手掛かりを見つけてしまいました。
 それは、たとえば、芭蕉が「奥の細道」に出かけたり、橘諸兄の屋敷跡の古池であの名句を詠んだり、義仲の隣を自らの墓所に選んだのと、おそらく同じ理由です。

つづく


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