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#013 車を焼き捨てた男の話

魯迅は「中国小説の歴史的変遷」で、六朝時代の志怪小説として、主となる4作品を紹介します。いつか役に立つかもしれないので、メモしておきます。

・張華(232-300)『博物志』・劉敬叔(生没不詳)『異苑』・干宝(?-336)『捜神記』・陶潜(365-427)『捜神後記』

このあと、六朝時代の志人小説について語り始めるのですが、志人小説という言い方は、20世紀になってからの呼ばれ方で、あくまでも、志怪の対として命名されたものです。

ここで、魯迅は、劉義慶(403-444)の『世説新語』を取り上げます。

阮光禄剡に在りて、曾て好車有り。借る者皆給せざるなし。人の母を葬るもの有り。意に借らんと欲するも敢えて言わず。阮後に之を聞き、嘆じて曰く「吾に車有りて人をして敢えて借らざらしむ。何をか車を以て為さん」と。遂に之を焚く。

阮光禄が剡県にいたころ、立派な車を持っていた。借りに来る者があると誰にも快く貸していた。母の葬いをすることになった者が、内心借りたいと思いながらいいだせなかった。阮光禄はあとでそのことを聞き、嘆いていった。「車をもっていながら、人にいいだしにくい気持を起こさせるとは。こんなことで車をもっていたとて何になろう」そして車を焼いてしまった。

魯迅はこのように言います。

これが晋人の気風というものです。……いささか奇怪な感じを受けますが、晋人にとってはべつに奇怪なことではありませんでした。なぜなら当時奇矯な行動と玄妙な清談が尊重されていたからです。このような清談は、漢の清議の流れを汲むものです。漢末の暗黒政治に遭遇して、名士たちはさかんに政治について議論し、最初その社会的な勢力はなかなかのものでしたが、のちに権力者の憎しみを受け、だんだん殺される者が出てきました。……そのため晋代になると、名士たちは政治を議論することを恐れるようになり、もっぱら玄妙な哲理を語るように変ってしまいました。清議でありながら政治を語らず、かくして清談となったわけです。だがこれら清談の名士たちは、当時の社会ではまだなかなかの勢力をもっており、玄談ができなければ、名士たる資格がないかのごとくでした。そして『世説』という書は、名土の教科書のごときものであったわけです。

魯迅は、車を焼き捨てた男の話を、「奇矯な行動が尊重されていたから、当時の人々は奇怪な感じを受けなかった」と言いますが、これどう思います?

言っている意味が全然わかんないんですけど!w

だって、当時の小説家は、たくさんの「取るに足らない巷の世間話」を採集し、そのあと、書物に残すための話を選別していたはずなんですよ!その際の、選別基準って何だったんでしょうね…。

当時の人々も、「いやいや、さすがに、そこまでやらなくても!」って思うような行動だったから、選んだんじゃないですかね?w


あ…ふと思ったんですけど…


どっかの社長が、ツイッターで、お金をばら撒く企画を定期的にやってますけど、あれと似たような違和感なんでしょうかね?w

あの社長の行動を、「金持ちの道楽だ!」とか、「資本主義に則った原理的な行動だ!」とか、「救済行為としては下品だ!」とか、「ベーシックインカムの個対個レベルの実験だ!」とか、色々賛否両論渦巻いてますけど、この世に「極端な金持ち」がいて、人々の「金持ちになりたい」という欲望があって、「資本主義で、職業選択の自由」がある限り、「金持ちになりたければ、金持ちの思想や行動を尊重し、模倣すれば、自分も金持ちになれるかもしれない!」という考えだって生まれるわけですよね…。

実際、資本主義社会では、お金持ちがお金をばら撒いてくれなきゃ社会が成り立たないし…。

事実、あの社長を真似する輩が、ツイッターに溢れてますし…。

しかも…あまり大きな声では言えませんけど、政治を語るのが怖い時代でもありますしね…。

そう考えると、六朝時代と何にも変わっていないような気がしますね…w

このあと、魯迅は、唐代の小説について語るのですが、それはまた明日!

では、近代でお会いしましょう!


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