#011 安心するDNA
魯迅の授業「中国小説の歴史的変遷」は、「小説」という単語の起源の説明の後、「小説の起源」に関する自身の考えを語り始めます。
今日では多くの文学史研究家が、小説の起源を神話に認めています。原始民族は、洞穴や野外に住んで、天地の万物がたえまなく変化し、人間の力ではとらえがたく、てむかいがたいのを見て、たいへん不思議に思い、きっと万物を主宰するものがいるにちがいないと考えました。そうしてこの主宰者を神と名づけるとともに、神の生活や動作を想像しました。……こうして「神話」ができました。神話が進化して、物語がだんだん人間らしいものに近づいてきますと、たいてい「半神」が出現します。古来大事業をなしとげた英雄について、その能力が人間以上のものであるのは、天によって授けられたものだなどというのが、それです。……これらの伝承を、今日では「伝説」と呼んでいます。これよりさらに進化しますと、主要な事件は歴史となり、歴史にもれたものが小説となりました。
さらに続きます。
文芸作品の発生の順序としては、たぶん詩歌がさきで、小説があとであろうと、私は思います。詩歌は労働と宗教とから起こりました。その一つは、労働するとき、仕事をしつつ歌を唱いますと、労苦を忘れることができます。そこで単純なかけ声から発展して、やがて自分の意志と感情を表現するようになり、それとともに自然な曲調をともなうようになりました。二つめは、原始民族は神に対して、畏怖の感情からやがて敬仰の念が生じてきますと、その威力を称え、その功業を賞めるようになりました。これもまた詩歌の起源となりました。小説はどうかといいますと、こちらは休息から起こったと、私は考えます。人聞が労働するとき、歌で自分たちをたのしませ、これを借りて労苦を忘れようとするとしますと、休息のときも、何か気ばらしになるものを求めます。それがつまり物語を語りあうことでした。そしてこの物語を語りあうことが、小説の起源となりました。したがって、詩歌は韻文で、労働から起こり、小説は散文で、休息から起こったのです。
主要な事件は「歴史」となり、歴史から漏れたものが「小説」となる!
「詩歌」は「労働」から起こり、「小説」は「休息」から起こる!
科学的根拠や学術的証拠なんか何もないのに、なぜか腑に落ちることってありますよね?
初めて行った場所なのに、なんだか落ち着くなぁ〜と思って、あとで地図を確認すると、近くに縄文時代の住居跡があったり…1万年前の人も住みやすい場所だと思っていたのか!と妙に感動したり…
そういう時って、脳が納得しているんじゃなくて、DNAが「うんうん!」って頷いて安心している感じなんですよね!
ただ…それにしても…
上の魯迅のお話は、少し紛らわしいなぁという感じもあります。というのも、上段の、歴史から漏れた「小説」とは、「街談巷語、道聴塗説」のそれを指していると思うのですが、下段の、休息から起こる「小説」はどうでしょうか…。「詩歌」と対比させているから、「想像・虚構の物語」としてのそれを指しているのでしょうか…。
ここら辺が、厄介なんですよねぇ〜
小説の小説たる要とは、「真っ赤な嘘のお話であること」だと思うのですが、古代中国では、「歴史にするほどの価値はない実話」という意味で使っていたので、時の流れとともに、意味が真逆になっているんですよね…。なので、古代中国の「小説」を語る時、「現在の小説という意味の視点から、かつての小説を語っている」のか、「かつての小説という意味の視点から、かつての小説を語っている」のか、気をつけて読まなければいけないんですよね…。
さて、魯迅の授業は、このあと、六朝時代の小説へと移るのですが…
それは、また明日、近代でお会いしましょう!