もし、ばあちゃんがいなくなっても
私には92歳になる、ばあちゃんがいる。
パソコン作業もできるし、スマホもLINEスタンプも使いこなす。
Facebookではよく、応援コメントまでくれる。
9年前にじいちゃんが亡くなってから、我が家にほど近い施設で暮らしていて、
「三食付きでお風呂も広い! お茶の時間や歌の時間、体操の時間まである。季節ごとのお祝いも、ちゃーんとしてくれる。ごろんと寝転んでたら、ご飯ですよ、と放送で呼んでくれる。極楽やで~」と、毎日楽しそうだ。
施設内には時々部屋を訪問し合うお友達もいて、冗談を言い合って大笑いしたり、一緒に介護予防の「ごぼう先生」のイベントに参加したりしている(「ごぼう先生と一緒に写真を撮ったから、友達の分も現像して」、とLINEで写真が送られてきたりする)。
施設内の手すり掃除や、お茶会の後片付けのボランティアも買って出る。
「どっちみち運動はせなあかんしな、施設の人が喜んでくれるから」だそう。
信心深く、毎朝手を合わせては、感謝と祈りを捧げているばあちゃん。
朝は4時代に起きると、お布団に入ったまま祈り、「あいうべ体操」で舌の筋肉を鍛えたのち、コーラス部で練習中の歌を歌う。
88歳のお誕生日は米寿、90歳のお誕生日は卒寿と、それぞれお祝いで温泉旅行に行ったのだが、その折に知った習慣だ。
あの時は、父、母、ばあちゃん、我が家と妹家族、合わせて10人が大部屋に集い、ビンゴ大会、合唱、お菓子撒き(ばあちゃんが投げるお菓子を競って拾い、多くゲットした人が勝ち。ちなみに妹が大人げなく優勝した)などで遊んだ後、みんなで布団を並べて雑魚寝した。
ばあちゃんの早朝習慣は、その環境でも変わらずに行われたのだ。
何も知らなかった私たちは、ものすごく恐れ、少し笑い、最終的には怒った。そりゃそうだ。
朝4時代、まだ暗い部屋の中、ボソボソ、ノオオンと、呟くような、唸るような声で、目が覚めたのだから。
幻聴……? おばけ……?
聞いた人はみんな同じようなことを考え、恐ろしさでドキドキしながら、布団の中で身を縮めた。
気のせい、気のせい。みんないるのだし、怖くなんかない。寝てしまおう。
ぎゅっと、目を閉じる。
5分か10分、そうしていただろうか。少し音の種類が変わる。
あ、い、う、べー……。あ、い、う、べー……。
妖怪……? 妖怪なの……?
旅館に長くいる、座敷童とか……?
こわいこわいこわい。
声もだんだん大きくなっている。
私は更に深く、布団の中にもぐった。
見ないぞ。ぜーったい見ない。
私は寝ていますから、どこかよそを当たってください。
心の中でそう繰り返すものの、どうしても声は耳に入る。
ふと妖怪の声に混じって、人の言葉のようなものが聞こえた。
よく耳を澄ませると、こう言っている。
「さーあ、今日は晴れるかなぁ」
……ばあちゃんやないかい!!!!!
身体を起こして、3人くらい向こうのばあちゃんの方を見ると、布団の上に寝転んだまま目を開けて、「あ、い、う、べー---」と、最後に長く舌を出している。
「ばあちゃん……夜中に何してるのん……」
「あいうべ体操や。知らんか」
「知らん……」
あまりに堂々としているので、ちょっとお静かにお願いできませんか、と何となく言えず、そのまま黙って布団にもぐった。
しかし悲劇は、更に深刻化する。
あいうべーを受け容れ、その中でも何とか寝ようとした我々の耳に、今度は本気の歌声が響き渡ったのだ。
あいうべー体操でエンジンがかかったばあちゃんの歌声は、力強い。
童謡に続き、クリスマスソング、更にサライだったか……あまり知らない歌だったので曲名は忘れてしまったが、こぶしの入る歌を、全力で歌う。
ひどい。ひどすぎる。
夜明け前の密室で。しかも練習中だからか、音程もかなり怪しい。同じフレーズを何度も繰り返す。
あまりの不協和音に、異空間に迷い込んでしまったかのような、おかしな感覚になってくる。
誰かが、クスッと笑った。
私以外にも起きている人がいたのだ。そりゃそうか、この大音量。
え、いつから聴いていたのかな。初めの祈りから? あいうべーから?
ちょっとホッとして、おかしくなってきて、つられて笑う。
ばあちゃん……なんてユニークなのだろう!
などと思えたのは数分のこと。本当に声が大きすぎて、だんだん腹が立ってきたのだ。耐えかねた母が、ついに叫んだ。
「ばあちゃん!! うるさい!!」
ばあちゃん、気付かず歌い続ける。
「ばあちゃん!! うるさいってば!! みんなまだ寝たいの!!」
「あぁ、あんた起きてたんかいな。はいはい。どうも」
と言い、数分は黙るばあちゃん。
しばらくするとまた、ボソボソ。それからまた、歌。……諦めるしかない。
そうこうしているうちに、陽も昇っているじゃないか。
結局みんな早起きして、ばあちゃんに口々に文句を言った。
「いびきがうるさいのは仕方ない、お互い様や。でもあんなひどいこと、ある!?」
「ほんまに。不気味な声でブツブツ言うたり、べー、べー、って何回もさぁ。べーって何なんや」
「それより歌や。もう悪意やろ!」
ばあちゃんは全然謝らなかった。
それどころか我々の抗議を完全に無視して、あいうべ体操がいかに素晴らしいか、練習中の歌がどれほど難しいかを、熱心に語った。
ばあちゃんは昔から、新しいものにはすぐ飛びつき、とりつかれたように夢中になる。夕飯の準備も、寝る時間も惜しんでやるから、よくじいちゃんに怒られていたものだ。今はあいうべ体操と、歌がブームなのだろう。
あんなに朝早くから、一人で遊んでいるんだ。
それも健康長寿の秘訣なのかな。
心の中の「ばあちゃん記録帳」に、私はこの出来事を書き加えた。
そんなこんなで、ばあちゃんは面白い。
子供たちの誕生日会やクリスマスパーティーなど、楽しいイベントにはいつも、明るい花柄の服を着て参加してくれる。
ばあちゃんの誕生日、敬老の日、クリスマス。
そのたびに、帽子、服、トラネコちゃんのスリッパや時計、みんなの写真付きオルゴールなど、色んなプレゼントを渡しているが、いつもとっても喜んで使ってくれる。
「これ、孫がくれてん」
と、ヘルパーさんに自慢するのも楽しみのようだ。
「あんたのやってる、英語教室のチラシはないの? ようけ作り。ばあちゃんが配って宣伝したる」
と言い出したのは、3ヵ月ほど前のこと。
もう70年も1つの町に住み、八百屋の奥さんとして、地域のボランティアとして、婦人会のメンバーとして、幅広く活躍してきたばあちゃんは顔が広い。
だからといって、世話をする方の年齢になった私が、92歳のばあちゃんに集客をお願いするなんて、と自分でもおかしかったけれど、気持ちが嬉しかったので、チラシを10枚ほど作って渡した。
「0歳から100歳までの英語教室 とことこえいご」
ばあちゃんのお友達が来ることを想定して、チラシにはそう書いた。うん、これはこれで、面白いじゃないか。
すると数日後、「今から出てこられへんか」と、ばあちゃんから電話があった。近所で、コーヒーやおぜんざいと、みんなの語り合うスペースを提供する「ふれあい喫茶」のようなものが開かれるから、来なさいと言うのだ。
私は昔から、八百屋をしているばあちゃんの家に入り浸っていたし、盆踊りなどにもよく参加するので、こういう場には知り合いが多い。
行くと、
「あらあ、大きくなって」
「べっぴんさんになって」
など、子供の頃によくお小遣いをくれた八百屋のお客様方から、声をかけられた。
「前川さんも、お元気そうで。まだ尺八は吹かれますか」
私の方でも、意外と名前を覚えている。
夕方になると家の前に椅子を出して、尺八を吹いていらしたことまで、懐かしく思い出せた。
「ええ、吹きますよ。いつでも聴きにいらしてください」
そんなふうにまったりと会話を楽しんでいたら、ばあちゃんに、袖を引っ張られた。
「あんた、もうぜんざいは食べ終わったか。行くで。イベントの主催者に紹介したるから」
ばあちゃん、なんてアグレッシブ! 近所の方々にではなく、私を権力のある方に繋げることが目的だったのか。恐るべし。
「どうも、いつもお世話になっております。この子、うちの孫ですねん。昔から英語が好きで、よう勉強して、今はTokkoという名前で英語教室をしてます。まだまだ生徒さんも少ないから、力になってやってください」
ばあちゃんの社会的な一面を初めて見て、度肝を抜かれた。
これはもう、しっかりしたおばあちゃんですね、のレベルじゃない。
なんだか急に恥ずかしくなって、顔が赤くなるのを感じ、もじもじしてしまう。
「いやあ、おばあちゃんはこの町の主ですからねぇ。おばあちゃんの頼みは断れませんよ」
主催者の方は私とばあちゃんの写真を撮り、宣伝しておきます! と請け合ってくれた。
その方がどういう方で、宣伝はどこにされたのか、いまだに分からないのが残念なところだが(ごめんなさいばあちゃん、ちゃんと確認すべきでした)、時には孤独を感じる個人事業主から、「ばあちゃんの庭で遊ばせてもらっている孫」に戻ることができた、楽しい想い出だ。
そう、ばあちゃんは私の、自慢のばあちゃん。
身長はどんどん縮み、今は140センチもないコロンコロンの体型だが、切れ長の色白美人であることに、変わりはない。
大丸百貨店で働いていた頃は社長に見初められ、結婚を申し込まれたそうになったとか。
本当だとしたら、なぜ八百屋をしている貧しいじいちゃんとお見合い結婚したのかが、謎なのだが。
若い頃は余裕がなく、いつも文句ばかり言って、自分の身の不幸を嘆く母親だったそう。私の母が、ばあちゃんの初めの子供で、その一年後と九年後に、息子を産んだ。
長女に対しては自分の思い通りに動くことを期待し、息子たちの世話も任せきりだったらしい。
じいちゃんは私から見ると、優しく朗らかな人だったが、夫としては亭主関白。ばあちゃんも、夫には逆らわない妻だった。
でも人の顔色を窺う、なんて芸当は持ち合わせていないので、気付かぬうちに怒らせて怒鳴られ、漫画風に表現すれば「ひえー」とばかり髪を逆立てて、逃げていたのを覚えている。
じいちゃんが亡くなる前の数年は、ばあちゃんにとってつらい時期だった。寝たきりになったじいちゃんに、家にいることを強制されたからだ。
友達のお誘いなどで気軽に遊びに行くことは許されず、シャッターを閉めきった八百屋の奥の部屋で、じいちゃんの世話をするだけの毎日。
「ばあちゃんの人生なんや、ばあちゃんを自由にしてあげて。じいちゃんの世話は、ヘルパーさんにお願いするから」
私は、じいちゃんを説得しに行ったことがある。
じいちゃんは、骨の浮き出た首を震わせて、地獄から絞り出したかのような、どす黒い声で叫んだ。
「オレが、オレが邪魔やというのか!!」
怖かった。
いつもニコニコ楽しそうにしていたじいちゃんの、顔が思い浮かぶ。
よく火鉢で、醤油餅を焼いてくれたじいちゃん。私が世界一、大好きなじいちゃん。
大切な大切なじいちゃんを、私は今、傷つけている。
だけど、今のじいちゃんは本当におかしい。
私はばあちゃんのことを、守りたい。
「そうや、今のじいちゃんは、ばあちゃんの人生の邪魔をしてる!!」
言ってしまった。
じいちゃんは怒りのあまり、大きく大きく、全身を震わせた。
よしよし、といつも無条件の愛で撫でてくれた、しわだらけの大きな手。
今はきっと、私を殴りたくて、虚空で震えている。
ばあちゃんが、私の服を引っ張った。
「もうええから、お願いやからやめて。帰って」
私は激しい感情の波に呑まれ、泣きながら、部屋を出た。
その部屋に完璧な闇をもたらす、八百屋のシャッターをおろして。
間もなく、ばあちゃんは鬱状態になった。
深海魚のような真っ黒の目には、光が宿らない。
ご馳走を持って行っても、「いらん、負担やから持って帰って」と言う。
じいちゃんが亡くなってからも、数年はその状態が続いたが、母が見つけてくれた今の施設に入ると、嘘のように急に、明るいばあちゃんに戻った。
環境はここまで人を変えるのかと、心底驚いたものだ。
じいちゃんを追うように逝ってしまうのでは、と心配するほど悪かった顔色は、みるみるうちにピンク色になり、目にはキラキラと、希望の光が宿った。
「私は今までよう頑張ったから、今の生活は神様のご褒美なんや!」
と、不遜な態度をとるようになった。
実際は、八百屋の備品、ためにためた生活用品、古い食品、本、じいちゃんの遺品など、後片づけは母と私に任せっきり。
施設の手配も、引っ越し作業も全部、母や私の夫、妹の夫がしてくれたことであって、神様のご褒美ではない。
「娘のしたことは自分のしたこと」という、ジャイアン的発想がデフォルトになってしまっている人なのだ。
私の母がばあちゃんを憎んでしまうのも、仕方ないな、と思う。
それでも孫の私から見れば、頼もしくて面白いばあちゃん、であることに変わりはない。
そんなばあちゃんから一昨日、電話があった。
「あんた、車椅子で病院に連れて行ってくれへんか。しんどくて、足が動かへんねん」
一昨日は母の透析の日。母を頼れないと思ったばあちゃんは、私に電話してきたのだ。
ばあちゃんは私の知る限り、入院したこともない、健康な人。それだけに電話の向こうの、苦しそうな声に緊張した。
迎えに行くと、いつものにこやかな表情はなく、眉間に皺を寄せて息苦しそう。
「夕飯の支度せなあかん時間に、悪いなぁ。帰りに、寿司でも買うたるからな」
ばあちゃんは、苦しそうな息の間から、そんな気遣いを見せる。
私は生まれて初めて、車椅子を押した。
ガタガタの道、下り坂、ちょっとした段差。
普段、自転車でびゅんびゅん飛ばす道のりが、果てしなく長い。
ばあちゃんは診察券や保険証を、前もって手元に用意していて、病院に着くと自分で手を伸ばし、受付に出した。
心不全の疑いがある、すぐ入院した方がいい。
それが、お医者さんの見解だった。
私は、途方に暮れた。
「元気なだけが取り柄やのに、あかんなぁ、やっぱりトシやな。せやけど、心臓でコロッと逝けたら、楽でええわ。長患いはイヤやもんな」
死を身近に感じている92歳の女性の、正直な言葉だろう。
私は何も言えなかった。
やめてよ、まだ死んでほしくない、なんて言うのは、違う気がしたのだ。
病院はどこも忙しく、結局、その日は入院できなかった。
「明日朝いちばんに、大きい病院に行きなさい。夜中に苦しくなったら、必ず救急車を呼ぶんやで」
お医者さんは、そう言った。
私は急いで、母にメッセージを送った。透析の日はほとんど寝て過ごすが、夕方六時頃には、起きられることが多い。
ばあちゃんを連れて戻り、一度自宅に帰って夕飯の支度をしてからまた施設に行き、心配だから私が泊まり込んで看病したい、と施設の方に話していた頃、母から返信が来た。
自分が透析だったために、私に迷惑をかけてしまった、ごめん、ありがとう、ばあちゃんの息子たちには連絡したのか、という内容。
私は、していない、したくない、と返信した。
ばあちゃんは、娘だけでなく、息子たちからも愛されていない。
きっと本当に若い頃、あまり良い母親ではなかったのだろう。
でもそんなの、私には関係のない話だ。
ばあちゃんが死んでしまうことを、悲しまない人たち、下手をすれば喜ぶかもしれない人たちに、関わって欲しくない、と強く思った。
いやだ、ぜったい。ぜったいにいやだ。
いやすぎて涙が出てくる。
母から電話がかかってきた。
「あんた一人の問題じゃない。あんたには小さい子供もおるんやから、早く帰りなさい。弟には連絡しておいた。もうすぐ来るから、ばあちゃんのことは任せなさい。もうじゅうぶんやで。ありがとうな」
5歳のチビコが、ママがいないと寝られない、と号泣していたのは事実だ。私はそれを振り切って、ばあちゃんのところに戻って来ていた。
孫の私よりも息子たちの方が、ばあちゃんに近い人々であることも事実だ。
わたし一人の問題じゃないのも、事実。
だから私は、泣きながら自転車に乗って、家に帰った。
大きな声で、いっぱい泣いた。
大好きな子供たちに抱っこされて、絵本を読み聞かせてあげることができても、しばらくするとまた涙が出て来た。
その夜は、眠れなかった。
ばあちゃんのところには、息子のお嫁さんが一晩、付き添ってくれていると聞いていたけれど、いつ呼吸が止まってしまうかもしれない。
ばあちゃん、と話しかけても、目を開けなくなって、返事もしてくれなくなったら、どうしよう。
そうなったらたくさんの親戚や、知らない人が集まって来るのだろう。
ばあちゃんは布をかぶせられ、お棺に入ったりするのだ。
少しずつプレゼントしてきた、トラネコちゃんグッズはどうなるのだろう?
ばあちゃんのために選ばれ、作られ、ばあちゃんの生活を彩ってきた仲間たちは、あの場所は、どうなってしまうんだろう?
きっと、しん、とするのだ。
片付けなければ、という別次元のことが、また持ちあがってくるのだ。
そんな、考えてもどうしようもないことばかりが、頭の中をぐるぐる回り、断続的に涙は流れ、私は顔を腫らしたまま、翌朝、またばあちゃんのところへ行った。
たった今、お嫁さんが病院に連れて行ってくれましたよ、と施設の方に言われ、病院に急いだ。
病院に着くと、お嫁さんが、ばあちゃんの車椅子を押してくれていた。
愛なんてないのだとしても、一晩ばあちゃんの側にいてくれたことを、ありがたく思った。
「ばあちゃん、昨日買ったお寿司、食べれた?」
「半分くらいな。寿司飯がおいしくなかったから、マグロだけ食べたわ」
「そうか、ほんなら次は、私が家でお寿司作るわ。ばあちゃんはマグロとイカしか食べへんもん、作れる」
「ありがとう。ほんなら『すしのこ』がええわ、インスタントの。あれでよう作ってた」
「わかった。作るわな」
前日に病院でもらった利尿剤で水を抜いたおかげか、ずいぶん息が楽そうだ。足が動かず、身体がしんどいことに変わりはないが、小康状態にホッとする。
しばらくすると母もやって来た。
お嫁さんと母が話すのを見るのも、久し振りだ。ばあちゃんが一番可愛がったという下の息子も、出張先から駆け付けるらしい。
私はオンラインの英語教室がある日だったので、あとを任せてその場を去った。でもその前に、ばあちゃんに言わずにはいられなかった。
「9月には、チビコの誕生日会もある。12月には、クリスマスや。楽しいこといっぱいあるんやから、元気でおってや」
ばあちゃんはあまり表情もなく、頷いていた。
その日も結局入院できず、いくつか検査をした後、一週間後にまた違う検査の予約を取って終わったと、母から連絡があった。つまりばあちゃんは、施設での生活に戻っているのだ。
「食堂まで行けるの? 何か食べ物持って行こうか?」
電話するとばあちゃんは、前日よりはずいぶんしっかりとした声で話してくれた。
「手摺つたって行ける。食堂に着けば、食事はテーブルまで運んでくれるし、大丈夫。みんな親切やから」
一安心して、電話を切った。
でも昨日の検査の結果、心臓だけでなく、他にも悪いところが見つかった。
もう長くないだろうから、ほんまに美味しいお寿司、食べさせたらなあかん、と母は言う。
私は何より、心の準備をしなければと、この文を書き始めた。
自分を守るために、色んな知識を総動員してみる。
例えば「うずのしゅげ」は、綿毛になって飛んで行くことを、ちっとも怖くありません、と言っていた。
どこかの溝に落ちようったって、お日様ちゃあんと見ていらっしゃる。
それから「猫鳴り」のモンは、これまで出来ていたたくさんのことが出来なくなったあと、薬を飲むのを嫌がり、何も食べず、死が来るのを静かに待った。
自然なことですから。若いお医者さんは、そう言った。
そう、自然なこと。
寿命が来て、身体に終わりが来て、この世とサヨナラする。
サヨナラのあとには、また次がある。
ばあちゃんはコロコロの身体とお別れして、次のステージに行くのだ。
92年も生きた。大往生じゃないか。拍手で送り出さなきゃいけない。
「コントロールできないことに、感情を持たない」
Instagramで、誰かがそんな発信をしているのに目が留まる。
そうだ、私がどうこうできることじゃない。
力んだって、悲しんだって、しょうがない。
しょうがない。順番なのだ。
ばあちゃんが逝くのが先、私はお見送り。
そりゃそうだ。
いっぱいいっしょに遊んでくれて、ありがとう。
下らないことも、大切なことも、いっぱい教えてくれてありがとう。
また会おうね。
そう言って、お見送りするのだ。
風が吹いたら、行ってらっしゃい。
幸せにね。
また会おうね。
何度も繰り返してみるけれど、そうじゃない。
そうじゃない、っていう気持ちが湧いてくる。
それは、ばあちゃんに対する「望ましいあり方」であって、私の心を救うことじゃない。
私は。
この心の中で、倒れそうになるほど揺れている私は、たぶん。
全力で、悲しみたいのだ。
ばあちゃんと過ごした日々を、3歳の時の記憶から、全部掘り起こして、馬鹿馬鹿しい、おもしろい、変なの、素敵、さすがだなぁ、腹立つわぁって、ひとつひとつを大切に、感じたいのだ。
私にとってばあちゃんが、どんな存在なのか。
ばあちゃんがいなくなるというのが、どういうことなのか。
余すことなく、感じたい。
それから、ばあちゃんがいなくなったらどうなるのか、その後どんな形で私の中で生き続けるのか、しっかり想像したい。
がらんとした部屋。ばあちゃんの使っていたもの。
私は、トラネコシリーズの、何をもらおう?
オルゴールとアルバムは、ぜったいにもらおう。
ばあちゃんがいなくなった後、ばあちゃんとしていたことは、どんなふうに変えていけばいいのか。
ばあちゃんをどこに、存在させることにしようか。
決めておこう。
決めておきたい。
少しでも心の揺れが、ましになるように。
悲しみ残しの、ないように。
すみずみまで、悲しみ尽くせるように。
これは私の中のばあちゃんと、私との、お別れだ。
私の気の済むように、儀式を済ませなければいけない。
ばあちゃんを気持ちよく、お見送りできるように。
死なないで! まだ死んじゃいやだ!
なんて、無茶を言わずに、すむように。
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