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精神疾患の話、父の話(4/n)

(承前)

札幌の小学校では生まれ育った田舎とは違って同級生がたくさんいた
1学年3クラス
そんなにたくさんの同じ世代の子どもを見るのは初めてのことだったから入学式ではずいぶんびっくりしたな

自分でもとても驚いたのだけれど、僕は学校の勉強というものがとても得意だということに気付いた
小学校ではテストはほとんど100点だったし、80点を下回ると担任の教師が「今回は調子が悪かったのかな」と僕に声をかけるくらいだった
国語算数理科社会全部得意だった
勉強が得意でない他のクラスメイトのことが理解できなかった
勉強することも好きだったと思う
赤ペン先生みたいなやつを親がやらせてくれて、それを熱心にやって、シールを貯めては景品をもらっていた(当時の赤ペン先生は返却されるときにシールがついて来てそれを専用の台紙に貼ってたくさん貯めると文房具みたいなものと交換してくれたんだ、今もそういうシステムはあるのかな)

そのかわり、というわけでもないのだろうけれど、僕は絶望的に運動神経が悪かった
とにかく体育の授業がひどく苦痛だった
球技、マット運動、鉄棒、跳び箱、陸上競技、とにかく運動とつくものはすべて苦手だった
登り棒も登れない
見かねた母が毎日夕方になると僕を校庭の隅の鉄棒のところに連れて行って逆上がりの練習をさせた
どういう理屈で逆上がりができるかを教えられて手にまめができるほど練習をしたけれど結局逆上がりができるようになることはなかった(今もできないから、結局生まれてこの方逆上がりができたことが一度もない)

放課後に家に帰ると本を読んだりファミコンをやったりしていた
なつかしのファミリー・コンピューター
休みの日もそんな感じだ
体育が苦手ということは要するに外遊びが苦手ということなんだよな
父は時々休みの日に僕を外に連れ出そうとしたのだけれど僕はなかなかその誘いには乗らなかった
ある時父がキャッチボールをやろうと言って強引に僕を連れ出したことがあるのだけれど、彼が投げた緩やかな山なりのボールが僕のおでこのど真ん中に直撃するのを見ると、わが子の運動神経の鈍さを悟ったのかそれきり僕をキャッチボールに誘うことはなくなった

しかし母は違った
母は僕が運動が苦手なことがどうしても受け入れられないようで、とにかく僕にスポーツをさせようと躍起になった
彼女は僕をサッカー少年団という恐ろしい団体に僕の承諾なく放り込んだ
そもそもスポーツの中でも球技というものが最も嫌いなのだ
だいたい、高速で飛んでくるボールが怖い
何が楽しいのかわからない
だけれども、僕のそんな気持ちとは無関係に母は僕に新品のサッカーボールを買い与えるとサッカー少年団の練習へ参加することを強制した
やってみればきっと楽しくてすぐに運動が好きになるとでも思っていたんだと思う
当然のことだけれど、そんなことで僕が運動を好きになることなんてないんだ
まず、サッカーの練習ではランニングをする
この時点ですでに僕は泣きたい気持ちになった
他の子はみんな(早い遅いの差こそあれ)ちゃんと既定の距離を走ることができるのだけれど、僕はそれすらできない
苦しくなって途中でとぼとぼと歩いてしまう
もちろんコーチ(若い男性教師だ)は歩くなと大声で怒鳴る、気合が足りないと叱咤する
殴られなかったのは小学生だったからだと思う
なにせ昭和なんだ、教師が生徒を殴るくらい当たり前の時代の話だ
当然ドリブルもシュートもできない
最初は指導したり見本を見せたり怒鳴ったりしていた教師も、これはダメだとあきらめて、しまいには僕には何も言わなくなった

冬休み、正月明けにサッカー少年団のイベントのようなものがあった
体育館で教師の新年の講話を聴いて、ちょっとしたサッカー大会みたいなものをして、父母が作ったカレーを食べる、そんな感じのやつだ
僕の学年はリフティング大会というのをやることになっていた
リフティングってわかりますかね、ボールを地面につけないように足や膝でポンポン蹴る、あれ
一番最後までリフティングをできた子が優勝
もう40年近く昔のことなのに僕はこの日のことをよく覚えている
僕は当然リフティングなんてできない
ものすごくたくさん練習させられたけどできないんだよな
教師が笛を吹いてリフティングがスタートすると、一度だけ足でボールを蹴る、するとボールは訳の分からない方向へ飛んでいく
記録は1回
リフティングが終わったらその場に体育座りをすることになっていたのだけれど、僕は自分が蹴ったボールをよたよたと追いかけ、そしてその場にへたり込むように体育座りをする
当たり前のことだけれど、そんな奴は体育館の中で僕だけだ
恥かしいのと情けないのとでじっと体育館の床の木目を見つめていた

その前から母にはサッカーをやめたいと何度も訴えていたが母は決して首を縦に振らなかった
「続ければ上手くなるし、スポーツというのは面白いものだよ」というのが彼女の主張だった
しかし、サッカーを2年続けた挙句のリフティング大会での惨事を目にして、彼女もついにサッカーをやめることを認めてくれた
本当にうれしかったな

しかし、彼女の僕に対するスポーツ教育の熱は冷めたわけではなかった
息子をスポーツマンにするという彼女の情熱はサッカーをやめたくらいで消えることはなかった
今度は僕に水泳教室に通えと通告してきた

これ以上僕のみっともない話を書きたくもないから詳細は書かないけれど、とにかく僕が彼女の希望通りスポーツを好きになる日は結局のところ訪れることはなかった(もちろん、この文章を書いている今日現在も訪れていない)

さっきも書いたけれど、僕は読書が好きだったし、学校の勉強がとても得意だった
本の世界の中を主人公と一緒に旅することは夢みたいに楽しかったし、授業で他の子がわからない問題を答えたりテストで良い点を取ることは純粋にうれしかった

でも、それについて両親が僕を褒めたという記憶はあまりない
勿論、最初は「100点すごいね」くらいのことは言っただろうけれど、僕がいつもいつも100点を取るから彼らはすぐにそれに慣れてしまった
それに、だいたい彼らには読書習慣というものがほとんどなかったから、僕が本ばかり読むことは彼らの目には陰気なことくらいに映っていたんじゃないかな

それで僕は母に言ったんだ
「僕は勉強するのが好きなんだよ、体育は好きじゃないんだ」
アパートのリビング、母はソファーでテレビを見ていたと思う
僕はもじもじして、ひとしきり頭を掻いたり袖を握りしめたりして、それからぼそぼそとした声でそう言った

彼女は僕のほうを見るとため息混じりにこう言った

「えー、ママは勉強なんかできなくていいから、スポーツマンの子どもが欲しかったな」

心底がっかりしたという言い方だった
そのあとどんな会話をしたのかはあまりよく覚えていない
スポーツが得意だった妹の話を持ち出して比較をされたような気がするけれど定かでない
とにかく彼女が言ったセリフが何度も何度も僕の頭の中をぐるぐる回っていたことを覚えている

僕は小学生のころの記憶というのはあまりないんだけれど、この母との会話は数少ない小学生のころの僕の記憶だ


時々「今までの人生で一番悲しかったことはなんですか」みたいな質問をされることがあるでしょ
その手の質問って答えをひとつに絞るのはなかなか難しいよなと思うんだけれど、僕の人生での一番悲しかったことのいくつかの候補の中には、この母との会話が入ってくる

これはまた後で書こうと思うことなんだけれど、高校生の時、父からも僕は勉強をすることに否定的なことを言われている

どうやら僕と両親とはそのあたりの価値観が大きく異なっていて、もちろん単純に価値観が違うことは何も問題がないのだけれど(価値観が全く同じ人なんていないしね)、僕の両親の場合、価値観の否定と人間性の否定が手をつないで一緒にやってくるみたいなところがあった
そしてその価値観の相違を自分の価値観に合わせて修正させようと試みるという、あまり上品とはいえない傾向が彼らにはあったように僕に感じられる

もちろんそんな理屈っぽいことを小学生が考えられるわけはなくて、ただただ当時の僕は自分が母には求められていない子なんだな、がんばっても母が求める子どもになれないなと、単純にそんな風に感じたんだろうと思う
そういう空気を感じながら、両親の意向に沿った子になれない自分を、両親に申し訳ないと思いながら日々を過ごしていた

ちなみに、さっき書いた母と僕との会話はそれから30年後くらいに僕と母の間で蒸し返されることとなり、僕が母との交流を断つきっかけのひとつになる

(続)


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