八月の湯治⑦【名犬モモとの日々】
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陽が西に傾き、アスファルトに伸びる二つの影。
両者を繋ぐリード、三英荘のアイドル犬(モモ)の対蹠に立つのは、私。
湯治場は良い意味で客と経営者との距離が近い。日数が長くなればなるほど信頼感は深まり、垣根は低くなっていく。サービスの提供者と利用者の関係ではなく、一緒に病を治す「パートナー」に近い。
旅館やホテルなどのサービス業とは一線を画す。そのため、「お茶も出さない」、「布団も敷かない」、などのクレームは、湯治客からすれば噴飯ものだ。(予約サイトの口コミで見かける。書き込むのは自由だが私はそれを見ると悲しくなる)。
過去に長期滞在をした宿では、館主の留守を守るのは当たり前、草刈りを手伝うなどの経験も。
そう言えばある湯治場、玄関から「すいませーん」と誰かが呼んでいる。
宿には私しかおらず、とりあえず応対。日本食研の社員証を下げた新人らしき女性営業マンが立っていた。
女性 「私、この地域の担当になりまして、ご挨拶に参りました。」
「ペラペラペラ」
私 「アッ、私旅館の者ではないです」
女性 「えッ!すみません。完全に旅館の方だと思いました」
湯治場では様々な経験をしてきた。
だが、流石に飼い犬の散歩を託されたのは初めてだ。
到着した初日から、モモ(2歳のシーズー)は屈託なく私に懐いてきた。誰にでも構わずと飛びかかるようで、若干女将さんも手を焼いているそうな。
何日かすると、直立している私の膝に前足を乗せてきたり、踵を甘噛みしてくる(それほど痛くない)。3日目からはゴロンと横になり腹を出すように。
女将 「オタクさん、随分気に入られたね。普通こんなに懐かないよ」
私 「そうですか(まんざらでもない)。寂しくならなくていい」
私が余り可愛がるので、女将さんにも驚かれた。
女将 「凄い手がかかるんだよ、毎月のトリミングと爪切り代、7千円」
私 「結構大変ですね。まあこれだけ可愛ければね」
モモは全く吠えない(シーズーってみんなそうなのか?)。
床がカーペットのため、2階から3階までをサイレントで縦横無尽に駆け回る。換気のため戸を開けパソコン作業をしていると、横にスッとモモの姿が。
「いつからいたの?」、「部屋に入っちゃだめだよ」
抱っこをして廊下に戻す。
人間の足音にも敏感で、私が廊下を降り始めると尻尾を振って迎えに来る。「買い物に行ってくるね」、と言って宿から出ようとしても、膝元から離れようとしない。それを女将さんが引き離す。
ある日の夕刻、いつものように村松物産店へおにぎりを取りに行く。
宿の前面道路の向かい、女将さんがモモと遊んでいた。この日は凄まじい暑さだった。
私 「村松まで行ってきます。それにしても暑いですね」
女将 「暑くて疲れちゃったよ、散歩に行こうとしたんだけど」
「モモを連れてってあげて、いい運動になるよ」
私 「では、あまり遠くには行かないようにします」
犬の散歩は十数年振り、湯橋を渡って温泉街を下りる。
途中、旅館関係者だろうか、「モモちゃーん」と手を振る方も。いつも女将さんが連れ歩いているので、周知のようだ。
「あれっ、今日はモモちゃんと一緒なの?」、と村松の大女将。
おにぎりを受け取り、また三英荘へと戻って行く。
帰りは少し寄り道しつつ、30分後に無事に帰宿。女将さんは梨を剥いて待っていてくれた。細かく刻んだ梨はモモの元に。
私 「梨食べるの?」
女将 「モモは結構なんでも食べるよ。トマトはダメだったけどね」
湯治生活も折り返したある日、モモの様子がいつもと違う。やけに落ち着きがない。前夜から一帯は大雨が降っており、夜も雨音が激しかった。
女将 「モモは怖がりなんだよ、夜も落ち着きがなくて。雨を怖がるの。」
私 「変な天気が続きますね。」
西から迫る雨雲。ここ数日、ずっと雨が降り続けていた。九州四国地方で甚大な被害をもたらした豪雨。時々スコールのように屋根を激しく叩く。
モモとの同居、湯治生活の終焉は、突然訪れることになる。
令和3年8月13日
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