【メンバーインタビュー】姉弟で異端児であり続ける、裁判官からトグルでの新たな挑戦 -前編-
採用広報担当の髙橋です!
トグルホールディングス(以下トグル)は、まちづくりにDXで革新をもたらす企業です。その独自のビジョンに共感し、多くの優秀な人材が集まっています。
今回は、2024年5月にトグルへ転職し、新しい挑戦を続ける、HRユニット長・UT-LAB運営責任者の伊藤嘉恵さんのインタビューを2部作でご紹介します!
Q1. 自己紹介
-ご自身の経歴を教えてください-
嘉恵:埼玉県出身で、6人家族、4人兄弟の3番目として生まれました。弟の嘉盛とは3歳差、兄や姉とは、8歳ほど年が離れており、嘉盛とは2人兄弟のように過ごしました。父は創業者として不動産業(トグル・フジケン株式会社の前身であるフジケンホーム株式会社)を営み、母は育児をしながら父の営む会社の経理を手伝っていました。保育園の頃、埼玉県深谷市に引越し、自然の中で育ち、裸足で過ごしたり、オーガニックな環境で自分の五感だけを磨くような、文字を覚えたりテレビを見ることも禁止されているような教育方針の保育園でのびのびと育ちました。その影響で、小学校に入るまでひらがなも全く書けなかったのですが、小学校に入ってからは文字が読めるようになり、読書と勉強が大好きになりました。
小中高は、地元の公立学校に進学しました。小学校の頃は、1ヶ月に100冊読むこともあり、常に読書をしている生活でした。中学生の頃には、日本文学全集や世界文学全集など内容も大してわかってもいないのに手当たり次第読みあさっていましたね。今でも活字中毒です。
高校は熊谷女子高校に進学しました。親戚がアメリカに住んでいたり、家族でよく海外旅行に行ったりしていたので、幼い頃から海外に対して興味がありました。日本にないもの、まだ見ぬ世界に刺激を受けるのが好きで、広い世界を見たいという気持ちが強かったのです。そんなことから、幼い頃から、国際的な職業に就くのが夢でした。
小学校の頃は外交官になりたいと思っていました。中学生の頃には通訳になろうと考え、上智大学への進学を目指しました。高校は推薦で入学したので、しっかり勉強を続けないと上智大学に入るのは難しいと中学校の頃の塾の先生に言われました。そのため、通訳になることを目指して、高校1年生の時から大学入学を目標に予備校に通い、部活もせずにひたすら勉強していました。
勉強は得意だったので、目標を決めて一生懸命に取り組みました。本当は文学部に入りたかったのですが、両親からは、反対されました。通訳の仕事は自分の考えを伝えるのではなく、誰かの考えを通訳するだけではもったいない、自分の意見を述べ自立した職業につくために法学部に進学しなさいという意向でした。親は厳しかったですし、当時はまだ自分の意志が弱かったため、自分の選択に自信が持てず、結局は両親の意見に従い法学部に進学することにしました。
- その後、大学に進学されたと思いますが、どのような大学生活を送りましたか?-
嘉恵:高校卒業後は、慶應義塾大学法学部法律学科に進学しました。
大学では、広告に興味を持ち、広告学研究会に所属して、イベントの企画・運営やCM制作などに関わりました。メッセージやイメージを用いて人に何かを伝え、人々の行動や世界を変えるということに関心がありました。また、ビジュアルアートやデザインにも関心がありました。そこで、大学では真面目に広告学を学ぼうと思い、広告学研究会に入ったのですが、中身はイベサーで初めはびっくりしました。でも一度始めたことは辞めない性格なこともあり、4年間続けました。そこで自分なりに得た結論は、広告は好きであるが、この「業界」は向いていないということでした。業界のカルチャーやカラーが正直まるっきり合わないなと思いました。
大学3年生時には司法試験を目指す人が多く所属するゼミに入ったのですが、弁護士になるイメージが湧かず、スランプに陥りました。周りの学生は無批判に「弁護士」というエリートで社会的地位の高い職業を目指しているように見えました。人生においてもっと何か強い「何か」を求めていた当時の私は、彼らのようにはなれませんでした。そして、未熟で法律家という職業の素晴らしさに気づくこともできず、強い熱意も持てずに、ただ司法試験のための大量の勉強量に圧倒されていました。
人生で初めての挫折でした。広告業界は向いていないし、司法試験受験にも熱が入らない、やりたいことも見つからない、周りの友人は皆何の迷いもなく司法試験の勉強をしている一方、私は自分の将来の目標や目的が見つからず、くすぶっており、とても辛かったです。人間って面白いことに、自分の意識ではやりたいことも、体が動かなくなってしまうことがあるんですよね。体が動かなくなると落ちこぼれます。人生で初めて大きな壁にぶち当たりました。
-スランプを抜けるきっかけはありましたか?-
嘉恵:大学3年生の夏に行ったフランス留学が大きなきっかけとなりました。大学の必修で選択し苦労して習得したフランス語を話せるようになりたいと考え、語学留学に行くことにしました。そこで触れたフランスでの自由な生き方や考え方、日本とはまるっきり異なる価値観や社会構造に感銘を受けました。
個人主義の国であるフランスでは、日本とは対極で、自分の考えや気持ちを率直に表現することが最も重要です。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」ではありませんが、まず自分がどう考えるのかが根本的に求められる社会でした。そして、フランスは革命の国です。誰からも何かを強要されることはなく、自由である、そんな力強い人々や文化に心から心酔しました。日本では「自分勝手」「非常識」だと思われることも、フランスでは「美徳」であるという価値観の違いに触れ、親の期待や社会的な「正解」の前に「自分が本当にやりたいことは何か」を真剣に考えるきっかけとなり、私の人生にとって大きな転機となりました。
振り返ると、自分の中で眠っていた「自分の頭で考えて、自分の考えを持って動く」という裁判官やスタートアップで必要とされる素養はフランスとの出会いで自分の中の異端児としての性質が一気に開花したように思います。「落ちこぼれ」も個性や能力の一つなのだと捉えなおすことができたのもフランス留学がきっかけでした。
帰国後、ロースクールに進学することは辞め、最終的に、慶應法学部を卒業した後、もともと興味のあった美術や哲学を学ぶこととし、慶應文学部(美学美術史学専攻)に学士入学をすることとしました。親や周囲の期待を随分と裏切ったと思います。
当時は、法律の世界から足を洗った気分で学芸員になろうと考えていました。年間70回ほど美術館に通い、非常に熱心に美術について学んでいました。当時オープンした森美術館では2年ほどアルバイトしたり、最先端のアートに触れるよう心がけていました。絵画や哲学など専門的な内容についても学ぶのは楽しかったのですが、実際に学芸員になるためには学芸員の取得だけでは足りず、博士課程まで進まなければならず、就職先もほとんどないという厳しい状況であることを知りました。
親からは「自立しなさい」という言葉もあり、自分としても弁護士になるという期待を裏切って文学部に進んだにもかかわらず、さらに親のすねをかじって長期間モラトリアムを続けるのは難しいと思いました。そのため、学芸員の資格は取得したものの学芸員になることは諦め一般企業に就職することに決めました。
-どのような就職活動、新卒時代でしたか?-
嘉恵:就職活動の際に意識したことは、自分の性格に合った業界や職種を選ぶことでした。「美しいもの」に触れるのが好きでしたし、空間を作り上げるという意味で、インテリアやハウスメーカー、デベロッパーに興味がありました。他方で、自分の専門性を活かせる職種を選びたいとも考えました。そして、語学力や法律の知識を活かせる秘書職に目を向け、法律事務所の秘書としてアンダーソン・毛利・友常法律事務所(日本の4大法律事務所の1つ。以下「AMT」)にエントリーし、内定をいただきました。
AMTは、国際的な雰囲気と自分の専門性を活かせる環境が整っていましたし、事務所の方々の人柄や穏やかでおおらかな組織文化が自分に合っていると直感し、AMTに入所することに決めました。
社会人1年目に結婚し、その後子供を産むことにしました。生き急いでいるように見えるかもしれませんが、私の中では結婚と出産は人生で優先順位高く叶えたいことでした。何かを選択する際には、常識ではなく、「自分軸」で選択することにしていますからそれを実行したまででした。
ただ、子供が生まれたことで、また異なる人生のステージに入りました。弁護士秘書の仕事はやりがいもあり楽しかったのですが、結婚して子供を持つという決断をして産休に入ると、社会人1年目の輝かしい時間と自分の状況が大きく変わってしまいました。
当時、大学の友人達は皆司法試験に合格したり、弁護士としてのキャリアを始めたりしており、皆が意気揚々と社会人生活を始める頃でした。そのような中、私は出産・育児という選択をしたのですが、またもや社会で取り残されたような気分となり、何かしなければと焦りました。自分の選択ではありますが、また挫折をしたような気分となりました。
-また挫折感を味わい、今度はどうしたのでしょうか?-
嘉恵:自分の性格、経験、志を踏まえ、女性として様々なライフプランに左右されず、社会的な意味で真に「自立」するために起業家か法律家になるしかないと考えるようになりました。
また、AMTでの弁護士たちの働きぶりを見て、法律に対する興味が湧いてきたことも大きな影響がありました。当時、事務所の弁護士の先生方がブルドックソース事件をはじめとする社会的影響の大きい案件をものすごい熱量で全力で扱っている様子を間近で見て、法律家の情熱や法律に世の中を変える力があることに感動を覚えました。さらに、裁判官は3名の合議体や時に一人で、答えのまだない未知の課題に対して、理論を打ち立て、大胆かつ精緻に、迅速な判断を下していることを目の当たりにし、そのプロフェッショナルさや知性の力と弁護士よりもさらに社会的インパクトの大きい職務に大きな感銘を受け、初めて「裁判官になりたい」と思うようになりました。そこからですね、初めて司法試験を目指そうと思ったのは。
-法律家になろうと考えて、一度諦めた司法試験受験を目指したわけですね-
嘉恵:はい。今回は自分の中で強い気持ちがありましたので、一念発起し、育休中に勉強を開始し、育休明けから1年ほど職場復帰して、東京大学の法科大学院(ロースクール)を受験し、合格したので進学をすることにしました。
幼い子供がいながら司法試験受験することは、常識的には無茶なことだとは思いましたし、周囲に計画を話せば反対されるだろうと思って、東大ロースクールに合格するまで自分の「野望」を誰にも口外しませんでした。自分にとって東大ロースクールに入ることは、野望を現実にするための重要なステップでした。東大ロースクールは司法試験合格率No.1でしたから、周囲の反対もある中で自分の覚悟や現実的な達成可能性を示すための最良の選択肢でした。「まぁ、東大受かったなら仕方ないか」と思ってもらえることを狙って(笑)、それを実現しAMTを退職をしました。
実際のところ、ロースクールに通いながら、当時2歳の息子の子育てと学業を両立させるのは想像以上にハードシングスでした。授業に遅刻や欠席をすると単位が取得できないし、授業では発言も求められるためかなりの予習復習が求められましたので、授業についていくために子供の体調管理や予習復習が大変で... ロースクールでの進級試験も難しく、周囲は時間的にも余裕のある若くて超優秀な学生ばかりで、落ちこぼれないよう限られた時間で最大限のパフォーマンスを上げる努力と工夫が必要でした。ベビーカーを押しながら、家事をしながら、どんな隙間時間でも勉強していました。
当時の夫も忙しく、子供の保育園の送り迎えや食事の準備、寝かしつけなどをほぼワンオペに近い形でこなしていました。でも、自分で決めたことなので計画を実現するまで諦めないと、必死に歯を食いしばってやっていましたね。ただ、両親には多大な協力をしてもらい、随分と迷惑をかけました。周囲の理解と協力なしでは乗り越えられなかったことばかりで感謝しています。
-ロースクール進学後は、裁判官になるためにどのような進路をたどったのでしょうか?-
嘉恵:ロースクールを卒業後すると、司法試験の受験資格を得られます。司法試験は非常に過酷で、1週間ぶっ続けでマークシートや筆記の試験を行うため、体力と知力が試されます。司法試験に合格すると、その後、研修生として1年半の司法研修があります。研修では裁判所、弁護士事務所、検察庁を回る実務修習も行われます。司法修習後には2回目の国家試験である司法試験があり(いわゆる「二回試験」)、二回試験に合格すると、弁護士資格や裁判官・検察官になる資格が得られます。
裁判官になるためには司法試験合格者の中でも、司法研修中に厳しい選考があり、若くて最優秀でないとなれないと言われています。また、一般的に若い方が選ばれる傾向がありました。私は、当時33歳で現役生と10歳ほども差がある状態でしたから、裁判官になるためには1年でも早く司法試験に合格する必要がありました。裁判官になるために絶対に一回で司法試験に合格しようと心に決め、なんとか、一発合格することができました。
ただ、裁判官になるためには、司法試験に合格するだけでは足りず、研修中の行動や成績が重要で、インターンシップのような形で裁判官にふさわしい人物かについて評価がされます。これまたハードシングスでしたが、周囲の方の支えもあり、運よく最終的に裁判官として任官することができました。たしか内定発表がクリスマス・イブの日の電報でとても嬉しかったことを覚えています。同期の中では最年長で、子持ちでしたから異色異例の任官でした。異端児だったと思います。
-裁判官になった後はどのようなお仕事をされていましたか?-
嘉恵:裁判官は2、3年ごとに全国転勤します。異動先の希望は出せますが、自分では選べません。私は、修習時代は前橋で1年半過ごし、初任はさいたま地裁となりました。さいたま地裁では刑事事件を中心に扱い、死刑事件や無期懲役事件、無罪事件など、社会的に大きな注目を集めるような事件も数多く担当しました。民事執行・保全事件、破産、商事事件等も担当しました。
さいたま地裁で3年半ほど勤務した後、フランスへ在外派遣されました。
若手裁判官は2年ほどの裁判所外部での経験が推奨されており、外部での経験として弁護士事務所や一般企業、報道機関、行政機関、在外派遣(留学)などがあります。
私は、フランスへの在外派遣を希望しました。息子は当時小学校5年生で子連れで留学など普通は諦めるのかなと思いますが、希望したところで選ばれるかわからないし、挑戦してみようと思い、希望を出したところ選出されました。任官任命に引き続き、子連れで若くなくても「挑戦しなさい」というメッセージと受け止め、裁判所という組織の懐の大きさを感じた瞬間でした。非常に嬉しかったです。
ところが嬉しかったのも束の間、在外派遣内定後、渡航数ヶ月前にフランス側の派遣受入先の研修が急にキャンセルとなり、自力で新しい派遣先を探さなければならなくなりました。フランス留学の実現があと一歩というところで潰れそうになり、目の前が真っ暗になりました。あらゆる伝手をたどって奔走しました。飛び込み営業のようなこともして、藁をも掴む気持ちで行動しまくりました。最終的にはご縁あってパリ第2大学の教授が受け入れてくれることになり、フランス留学が実現できました。「泥まみれになる」経験そのものだったと思います。今でもその教授への恩は忘れず交流を続けています。
-フランスでの経験とその後の裁判官生活-
嘉恵:2019年8月から、フランス一番の法学大学といわれているパリ第2大学で客員研究員として研究を行い、またフランスの裁判所や弁護士事務所での実務研修、国立司法学院というフランスの裁判官養成研修所での研修も修了しました。異国での生活の立ち上げなど慣れないことばかりで大変なこともありましたが、現地の大学研究者、裁判官、弁護士、検察官や息子の学校の保護者の方とも多くの出会いがあり、充実した時間を過ごすことができました。料理が趣味なので、プライベートの時間にアラン・デュカスの料理学校でシェフの研修も受けたりしました。
フランスでは1年ほど滞在する予定でしたが、2020年1月に新型コロナウィルスの世界的流行により滞在が短縮され、約8ヶ月で帰国することになりました。コロナ禍での海外生活は困難でしたが、人間もそうですが、非常時にこそ本質が出ると思います。そういった意味で、非常時にフランスでの国民性や政治の動きを目の当たりにすることができ、より深くフランスを理解するきっかけになったと思いますし、法律家としても貴重な経験を得ることができました。
帰国後は東京地裁に配属され、コロナ禍の中で裁判官としての業務に戻りました。その後、再びさいたま地裁に戻り、さらに東京地裁に異動しました。東京地裁では行政部に配属され、国を相手にする訴訟全般、例えば原発訴訟や社会保障関連訴訟、住民訴訟、税金に関する訴訟などを担当しました。
行政部での仕事量は膨大かつ高度な判断が求められるののでハードワークそのものでしたが、世の中の構造や全体を見て、正義を考え、その判断で世の中の流れを変えるきっかけを作ることができると感じ、大きなやりがいがありました。
その後、東京地裁から長野地裁上田支部に異動しました。上田支部は、30名規模の小さな支部で、刑事、民事、家事、少年など行政事件を除く全ての事件類型を担当しました。
後編に続く
後編は以下の内容を深堀していきます!
Q2.入社を決めた理由
Q3.入社してから今までの業務内容
Q4.今後の展望
Q5.どんな人にトグルに来てほしいか
Q6.トグルの魅力を一言で教えてください
お楽しみに!
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