無かったことにしたかった記憶と向き合うときがきた
すごくすごく久しく、走りたいなと言う思いが体から湧いて
久しぶりに夜の土手をランニングした。
中学から陸上を初めて5年間、がむしゃらにそれだけを追ってた。
そのうち、4年間は摂食障害に悩まされながらの陸上人生だったけど、。
最後には、
と言うか最後というものもなかったけど、もう一歩も陸上というものに近づきたくないと思って生きてきた。
そんな中で、唐突に「走るか、、」と思いついて、走れる肉体など消え去った体で片道3キロの土手を走ったり歩いたりした。
走っていると、本当によく考える。頭が動く。
ただひたすらに陸上競技に向き合っていた自分、振り回し、振り回されていた。走るのが得意で始めたのに、生きることもよく分からなくなって最後はボロボロだったと思う。
兄が、ずっとやってきた野球をしっかり終わらせられなかったことを心残りに思っていると言った。私は、全く共感できなかった。でも、実は共感できなかったんじゃなくて、向き合えないから、自分にはできないことだと感じたのだと思う。
私は、陸上をしていた自分も、そのとき思っていたことも感じていたことも、一緒に走ってきた仲間も、先生も、競技場も、試合も、陸上界の雰囲気も、全部思い出したくなかった。
でも、
陸上も、あの人たちも、私自身も、憎んで恥じて生き続けることはとても酷だ。苦しさを見て見ぬ振りして抱えてるだけだと思う。
人が怖くて、自分が嫌いで、大切な人の言葉も信じられなかったけど、だから大学で学ぼうと思ったし、今の私がいる。
人生は一本の線で繋がっていて、起こること全てには必ず意味がある。
苦労は買ってでもしろなんて思ったことはないけれど、自分が望んだ生活や人生じゃなくても、毎日生きて生活をして、1日1日を紡いでいったらきっと何かの形になる。
だからこそ、私は今の自分が好きだから、あの5年間をなかったようにはできない。
向き合う時がやっと、やっと来たんだと思った。
きっと、いろいろなことを学んで、いろんな人と出会って、陸上のない世界を生きても、植え付けられた考えはそう簡単には揺らがないし、自分の否定的な部分を見つめることも難しいことだと思う。
価値観を更新するのにきっと何年もかかると思うけれど、憎い気持ちや苦しい気持ちを手放して、無くした気持ちを取り戻したい。
陸上をやめてからも、家族は本当に楽しそうに走ることと向き合っていた。自分にはもう関係のない世界だと思う反面、心底羨ましく思ったりしていた。
家族がいたから陸上と完全に縁を切らず、今この文章が書けていると思うし、生きることが辛かったあのときも乗り越えられたのだと思う。
家族も、友達も、どんな私も好きと言ってくれる人に胸を張れるようになりたい。