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エッセイ|日本詩人クラブ『詩界論叢 2023』を読んでみた。(1)
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昨年末にお誘いを受け、この1月に日本詩人クラブに入会させて頂きました。同時に、昨年12月に発行された『詩界論叢 2023 創刊号』が送られてきました。
5章に分けられており、
Ⅰ 詩人論・詩作品論…すでに亡くなられている詩人について。
Ⅱ 詩人論・詩作品論…現役詩人について。
Ⅲ 世界・文化・文芸
Ⅳ 人の世・社会・詩作
Ⅴ 詩に向き合うこと―詩の心
という内容です。
参加した執筆者119名。それぞれが詩論、詩人論、詩、エッセイなど、自由なテーマで思い思いに語っていて大変読みごたえがありました。各人ページ制限もないようで、最終的に約500ページにわたる一大冊子となったようです。
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気になった箇所について、何回に渡るか分かりませんが、取り上げてお送りして行きます。
今回は、橋浦洋志さん(以下、橋浦)の「『手』は馬鹿づらをして」というエッセイです。第Ⅰ章に収録されています。「手」を手掛かりとして、萩原朔太郎やリルケの詩を引用し、言葉を慎重に用いることを訴えます。
まず、
身体としての手の活動が多様な形で実現され
てきた原初からの歴史を振り返ります。
人類は手のおかげで、生活のために道具を生み出し、他の人とのコミュニケーションを広げてきました。そして手の身体性についても触れます。橋浦は、身体は社会的な存在である、と述べます。
身体のあり方はその人の社会的な存在の質も決定する。ここでの身体は、具体的な身体であると同時に言葉として比喩化された身体でもある。身体は、社会的に充分機能しているときは身体であることを意識しない。このとき身体は滑らかに社会と融和し一般化されていて、いわゆる「健全な身体」としてある。しかし「健全な身体」そのものを生きている人はいない。身体はそもそも「死」を前提にした身体であり、身体は常に身体自身によって脅かされている。身体は常に病んでいるのである。
この言葉は、現在ここにある「身体」というものの本質を正確に射抜いている気がします。その常に病んでいることに、健全な社会は気づかないふりをしている、と。「健全」という言葉にも疑いの目を向けます。
「健全な身体」という社会的スローガンは、人を生産性へと駆り立てるイデオロギーに基づいている。
ここでは自ら湧き上がる生存欲求のことではなく、政治によって与えられる「健全な身体」という言葉がスローガンとして用いられるとき、それはイデオロギーの側面も生じてくる、ということだと思います。
そこに欺瞞的なものを感受してしまった人は、身体の社会化について立ち止まってしまいます。橋浦はそれを「いったん見失う」と表現します。しかし生きることが続く以上、見失ったあと、その身体を別の次元に比喩化された身体として取り戻さねばなりません。ここで萩原朔太郎の詩「春夜」の一部が引用されます。
浅利のやうなもの、
蛤のやうなもの、
みじんこのやうなもの、
それら生物の身体は砂にうもれ、
どこからともなく、
絹いとのような手が無数に生え、
手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。
「絹いとのような手」は、何物をもつかむことはできません。ただ浪に浮遊することしかできません。そこに身体性や生産性は失われてしまっています。橋浦は、それを「社会的な『手』の拒否」と表します。一般的な比喩化もできません。
従って、読み手は慣習的なイメージを手がかりにしてこれを捕まえようとしても、それは振り切られ、安定した「手」に至りつくことはない。
「絹いと」を「触手」とする解釈を退け、触れることの不可能性こそが、この詩に表されていると強調します。さらに朔太郎の詩「ばくてりやの世界」も部分引用し、手の孤絶をあらわにし、己(身体性)はかなしみという情念に場所を確保するしかない、とします。
つまり朔太郎は何を訴えようとしているのかというと
朔太郎の「手」は、急速に近代化され生産性によって収奪された身体の危機を射貫いている。
ということです。
手ははがねとなり、
いんさんとして土地を掘る、
いぢらしき感傷の手は土地を掘る。
手を自己愛的なもの、他者に滑らかに差し出されることのないもの、と考えます。
文明や文化は過剰な生命の顕れともいえる。やらなくても良いことに手を出し、余計なことに好んで手を出す。この人という存在の奇妙さに気づくと、自分自身の行動のことごとくが余計なものに思えてくる。自己存在そのものが「でしゃばり」なのだ。
文明の急速な近代化によって得られた万能の「手」を過剰な生命の顕れ、と考えます。それを「でしゃばり」とさえ言います。これは朔太郎の言葉でもあります。
みつめる土地の底から、
馬鹿づらをして、
手がでる、
足がでる、
くびがでしゃばる。
生きることは身体を動かすことですから、手・足・くびの振舞いを避けられません。現代に至り、それは過剰な動き=でしゃばりになっている、と捉えます。「馬鹿づら」をして、手・足・くびは動こうとします。それを止めようとすれば「死」という地点に至ります。
「ふれる」ということについて、リルケも懐疑を表しています。
遠く離りてあれよ かく われは つねにいましめてん。
うれしきかなや「物たち」の歌うをきけば。
さるを きみらのふるるとき かたくなに「物」なべて黙すなり。
「物」みなの いのちを奪う そは なべて きみらなるべし。
これについて橋浦は次のように言います。
「われは おそる ひとの言葉を」で始まるこの詩は、言葉を貧しく扱う人への警告を発している。人は言葉をいい切りすぎる。さも当たり前のように物を名指し(言葉でふれる)、事を確定して平気である。このような態度をリルケは退ける。
物に触れる一歩前で立ち止まり、言葉をゆっくり探ることの大切さ。それを述べます。朔太郎もリルケも、ほぼ同質の、言葉に対する「恐れ」を抱いていると言えます。それは急速な近代化・文明化への恐れや懐疑とも言えるでしょう。このエッセイは結論を提示しないまま、読者と社会に委ねられる形で終わります。
「手」は、「身体」であると同時に身体化された「言葉」でもあるからだ。「手」はもっともらしい馬鹿づらをして差し出され、我々の言葉は無遠慮にものごとに触れて顧みることがない。
ここでは近代を経て現代に生きている、言葉を扱う者へ警鐘が鳴らされています。またそのあまりに軽々しい風潮を、風刺しているようでもあります。一般人に対しても、言葉を扱ったり組み立てたりしようとする者に対しても、「手」による現代の過度な生産性とは過度な自己顕示のことでもあるのでしょう。そのことが暗示されていると感じました。
非常に胸に刺さり、詩を作ろうとするときに思い起こさずにはいられないエッセイでした。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。