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【小説】乙女の祈り(3)

 カワイくんは男の子だった。あんなにかわいくて、沙良が今までに見たどんな女の子よりもかわいくて、身長も沙良と同じくらいか、もしかしたら少し小さかったかもしれない。なのに、カワイくんは男の子なのだ。あんな素晴らしい人間が、この世界にいるとは思わなかった。あれほどまでに名が体を表している人間というのも、そうそういないだろう。「カワイくん」が「河合」なのか「川井」なのか、はたまた全然違う字なのか、それは分からない。でも、とにかくカワイくんはかわいい。沙良は高一の頃から続けていたファミレスでのバイトを辞め、カワイくんのいるコンビニで働き始めることにした。面接から採用までトントン拍子で進み、今日学校が終わったら初出勤なのだった。表向きは引っ越したから家の近くにバイト先を移した、ということにしているが、もちろん沙良には下心しかない。前に働いていたファミレスだって、アパートから通えない距離ではないけど無理矢理辞めたのだ。沙良はアパートに越してからコンビニに何かしら理由を作って買い物に行ったり、外からガラス張りの店内を覗き込んだりしていた。その結果、カワイくんはほとんど毎日コンビニで働いているようだと分かった。だから、今日もかなりの高確率で「いる」筈なのだ。当然授業に身が入る筈もなく、沙良は黒板の数式をぼーっと眺めていた。数学は一番苦手だった。長々と計算をしてやっと答えらしきものが出たと思ったら、どこの値を、何に使うため求めていたのか全く思い出せないという始末だった。脳が数学を拒絶しているのだ。そのため、沙良は数学の授業中は睡眠をとることに徹していた。しかし、今日は眠くない。カワイくんと店員同士として初のご対面なのだから、眠そうな半開きの目をして会いに行く訳にはいかないと思って昨日は早く寝たのだ。しかし起きていたところでやることもないので、沙良は教室を見渡す。この授業を真面目に聞いている人間は殆どいない。担当教員の松岡は六十過ぎのおっさん、というかおじいさんで、聞いているだけで眠くなる声の持ち主だ。大半の生徒は寝るか課題をやっていて、成績優秀タイプの人間は自分で用意した参考書で勉強を進めている。毎日毎日、誰も聞いていない授業をやってよく頭がおかしくならないものだ。そもそもこの松岡という教師は、人に教えることに長けているとも、好きなようにも思えない。頭は良いのだろうが、出来ない人間の気持ちが分からないので文系クラスで授業をする時にはこちらを見下しているかんじが何となく伝わる。数学教師によくありがちなタイプだ。

 授業が終わると、昼休みがやってくる。沙良は最近、この時間がくるたび嫌だなあ、と思う。一先ず一番最初にトイレに行って用をたし、手を洗う。混んでくるとガヤガヤうるさいし、待っている人がいるのにも関わらず鏡の前を占領するバカ女が発生し始めるのが嫌なのだ。だから沙良は、昼休みが始まると一番にトイレへ向かう。
教室へ戻ると、沙良は自分の席に座ってスマホを確認する。でもこれは画面を見る振りをしているだけで、頭では別のことを考えている。今日も、ゆりかと二人でお昼を食べるのだろうか?沙良は元々、去年から同じクラスだった花穂とお弁当を食べていた。ところが他のグループからハブられて抜けてきたゆりかが合流して三人になり、いつの間にか花穂が抜けて二人になっていた。沙良は毎日昼休みになる度花穂のことを気にしていたが、何か行動を起こしたりすることもないまま一ヶ月近くが経過していた。三人で食べていた短い期間、花穂は殆ど一言も喋らず黙々と食べていた。話しながら食事するのが苦手なのかもしれない。一対一の会話ならできても、複数人になると話せなくなってしまうタイプなのかもしれない。そもそも花穂は絶対誰かと一緒にいないと駄目なタイプではなさそうだし、昼ご飯も一人で食べた方が気楽でいいのかもしれない。そういうことにして、沙良はニ対一のニ側になってしまったことを正当化した。
ゆりかが弁当を持って、沙良の席にやってくる。お腹空いたーと言いながら、ランチバックから弁当箱を取り出す。蓋を開けると、見栄えまできちんと考慮されているのであろう色とりどりのおかずたちがびっしりと詰められている。ゆりかのお母さんはよくもまあ毎日こんなお弁当作るよなあ、と感心しながら沙良は朝コンビニで買ったパスタサラダとサンドイッチをビニール袋から取り出した。
「あのね、私クリスマスイブに卒業ライブやることになったんだけど、沙良来てくれる?」
ゆりかが声を潜めて言った。ゆりかは地下アイドルをやっていて、学校の人間でそのことを知っているのは沙良だけらしい。でも、ゆりかは来年受験勉強に専念するため高二の冬でいったん今のグループは辞めるのだという。
「うん、行くよ。どこでやるの?」
ゆりかはスマホで、ライブハウスを検索して見せてくれた。
「対バンでね、最後だから私がセトリ組んでいいって。やばいー超楽しみ!」
クリスマスまではまだ二ヶ月近くある。事前に言っておけばシフトを空けてもらえるだろう。色々話は聞いていても、実際に歌って踊っているゆりかを見たことはないので興味があった。
「あーでも、沙良はバイト先のイケメンくんとお近づきになれたら、もしかするとクリスマスデートとか行っちゃうかんじ?」
ゆりかがニヤニヤしながら言う。
「いやあ、流石に無理でしょ。いいよ、クリスマスはゆりかのライブ行くよ。」
口ではそう言ってみるものの、もし、もしも、カワイくんと仲良くなれて、付き合えたりしちゃったりなんかしたら?それは今の沙良にとって、人生で起こりうる最も幸せなことだった。

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