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「平成の名小説」全レビュー(1) 石原慎太郎「落雷」

令和元年7月に発売された、「新潮」別冊の「平成の名小説」。平成のあいだに文芸誌「新潮」に掲載された短篇小説とエッセイのなかから合計55作品を選りすぐったアンソロジーです。この30年に活躍してきた大ベテランから若手まで、幅広い作家の作品が一気に見わたせるお得な一冊。そこからはたして、平成という時代の文化や社会が見通せるのか、はたまたこれらの文学作品は時代を越えたなにかを描き出しているのか……。
というわけで、不定期になりますが、この本に載った全作品を、掲載順にちまちま紹介・レビューしてみたいと思います。日本の現代文学のひとつの手触りのようなものをレポートできたらうれしいです。以下、印象的な一節を引用したうえで、作品の概要と読みどころを書いていきます。はじめの作品は石原慎太郎「落雷」。「新潮」平成元年10月号より。

そんな最中にも妙なものに感じいったのを覚えている。それは頭上にはじける光の束が、その瞬間私たちが踏まえた甲板に印して落す影の鮮かなまでの黒さだった。私は今まであんなに明るく鮮かな自分の影を見たことがない。

4ページほどのとても短い作品です。新聞社の招待ゴルフに出かけた語り手が、同じ組のメンバーであるW氏が雷への過剰にも思える恐怖をあらわにしたことをきっかけに、自身のかつての経験を思い出します。
ひとつ目は、大学二年のころ、立山に登山した際におそろしい雷雲に遭遇したこと。ふたつ目の記憶は1967年夏のこと、鳥羽のヨットレースに参加するためのクルージングをおこなっていた語り手が、やはり雷雲に捕まります。せまりくる電光と雷鳴のなかで、語り手は死を意識しますが、ぎりぎりのところで激しい落雷の直撃を避けます。すぐそばに落ちた雷の炎の柱が水柱へと変わり、あとに不思議な光の輪が残るのを目撃して、語り手はこう述べるのです——「あれはあるいは、私たちに代わって葬られたものの魂だったのだろうか」。

一種のネイチャーライティングですが、同時にゴルフ・登山・ヨットレースという、人間が自然を飼い慣らして遊戯に組み込んだ娯楽のなかに、コントロール不能な自然が出現していることが第一のポイントでしょう。
わたしたちはたしかに、高度に人工的な環境に身を置き、山や海などの自然もスポーツや娯楽の対象にして、ときにはその制御のありようを愉しんでさえいる。けれども不意に襲ってくる地震や津波や火災や台風といった自然の脅威を前にすると、人間が自然を制御するという構図が、いかにもろい虚構でしかないかを、何度も何度も思い知らされることになります。

そのとき意識することになるのが死であり、その死によって照射される生です。この生と死のぎりぎりの瞬間を描き出す地点が、この作品の第二のポイントとなる箇所です。この物語は雷の光をとおして、ある意味ではわかりやすく、死に照らされる生を描いています。わかりやすいというのは、寓意的であるといい換えてもいい(死を象徴する雷の光が、生のかけがえのなさを照らすという寓意です)。
けれどもそのわかりやすさを安直さに陥らせずに、味わい深い物語にしているのは、雷=自然が予感させる死が、引用した一節にあるように、妙に明るい影として印象づけられる点です。頭上の光の束が、鮮やかに黒い自分の影をつくりだす。そのとき、光と闇、生と死は、対立したものではなく、光かがやく闇、生き生きとした死として、不思議な融合を遂げてしまいます。「明るく鮮かな自分の影」、いい表現です。この瞬間、おそろしい死がとおとい生を照らし出すのではなく、変に明るい死を語り手は生きている。作品全体の硬質で淡々とした自然描写が、文字通り雷に打たれたようなこの神秘的な瞬間に説得力をもたせています。

神秘的と書きましたが、同時にその感慨は、危機のどまんなかにいることを思えば非常にのんきなものでもあり、どこか間抜けでさえある。それでも、死を予感するほどの危険な雷のなかで、強烈な明るさと暗さのなかで、なんだかぼんやり感慨にふけってしまうような、別の位相から自分をのんきに眺めてしまうような、一瞬の奇妙なリアリティは、とてもよくわかるように思うのです。

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