【掌編小説】解語之花
(↑ のお話からどうぞ)
仄暗い静謐の中にふわりと香り立った甘美な調べは、まるで、春の木洩れ日のように、それはそれは柔らかな手触りを纏っていた。
ほのぼのと和らいだ世界の輪郭が、次第に薄れていく。
その温かい音色にそっと撫でられると、冷えて凝り固まっていた空気の結び目がするりと解けて、寒さに凍えていた聴衆の躰は陶然と揺蕩い始めた。
眼と鼻の先で、艶やかな音の精がピアノと戯れている。
人の言葉を理解する花。きっと、彼女のような人を「解語之花」と呼ぶのだろう。もしかしたら、耳が存在を認めるよりもずっと太古の昔から、この場所には彼女の旋律が降り頻っていたのかもしれない。奏者の細い指先から滔々と紡がれていく安らかな物語には、そんな突飛な聖域にまで人の思考を攫ってしまえるだけの神秘が宿っていた。
腕を伸ばせば届いてしまいそうな距離でしなやかに揺らめく畏怖に気圧されながらも、僕は必死に言葉を探した。
音。違う。空間を包む“それ”は、もはや「音」を超えていた。
「熱」でも、「光」でも、「神」でもない。
美。
ああ、美。「美」は、かなり“それ”に近い感覚かもしれない。
美しい。たしかに、“それ”は美しいものだ。
でも、足りない。
凛々しい。いや、これもだめだ。まったく充分ではない。
甘い。凄い。清い。儚い……。
淋しい。優しい。温かい……。
柔らかい。恐ろしい。愛おしい……。
どれも“それ”を形容するのに相応しい言葉に聞こえるが、やはり、どれもこれも核心に触れてはいないような気がする。
なんだ、あれは。
僕は、一体、何を目の当たりにしているというのだ。
言葉には自信があった。だが、生憎、生まれ落ちてから今この瞬間までの僕は、味わってしまった感動に足る言葉をもち合わせていなかった。
人類の言葉などでは足元にも及べない存在が、何かの間違いで人類の世界に顕現してしまっている。そうとしか表しようがないほどに、“それ”は観る者すべてを心酔させていた。
高尚な感覚。気高く、そして、あまりにも遠い。言葉ごときが足を踏み入れることなど、最初から赦されていなかったのかもしれない。そう思わざるを得ない。身体中にぷかぷかと散りばめられていた心が、ひと欠片ずつ、大いなる掌によって掬われていくような、そんな途方もない領域に、“それ”は在った。
僕は為す術もなく、座席の背に僕の抜け殻を沈めて、ただ呆然と、奏者アオキユナの手の流れるがままに導かれる完全なる調和にゆったりと身を委ねていた。“それ”を前にして躰が感じたすべてを記し留めておく手段として、「言葉」というのは、ひどく、悔やまれるほどにひどく、無力なものであった。
ただ、ふたつだけ、確かな言葉があった。
使命。そう、言うなれば、ひとつ目は「使命」であった。
まず、魅了された僕たち聴衆には、垣間見えてしまった“それ”に対して金銭を支払わなければならない、という使命があるはずだった。何百万円だろうと、何十億円だろうと、彼女自身から提示された金額を、耳を揃えて不足なく献上しなければならない。僕たちが遭遇してしまったのは、それほどの芸術品であった。
だからこそ、怒りさえ湧いた。
罪は、償わなければならない。それなのに、これほどまでに罪悪感を掻き立ててくる音楽が、なぜ無償で公開されてしまっているのだろうか。
コンサートの運営に携わっている者は、一体、何を考えているというのだ。
無料で聴き通されて然るべき芸当ではないことなど、すでに明々白々である。今すぐにでも鍵盤を弾く彼女の手を止めさせ、第一部を閉幕させるべきだ。そして、ここから先は第二部としてプログラムを分け、引き続きこの演奏を耳にしたいと希う聴衆には、彼女の所望するだけの金銭を支払わせるべきだ。
いくらでも払おう。少なくとも、僕にはそのぐらいの覚悟があった。
一呼吸の鮮烈な間に触れて演奏が終わると、たちまちホールはけたたましい拍手喝采に包まれた。
僕は瞬きすらも忘れて放心していた。一銭も支払わずに、この余韻に背を向けて各々の帰路につくことなど、あってはならない愚行に思えた。
他の何と引き換えても、アオキユナという洗練された崇高な逸材を世界に存続させなければならない。彼女とピアノが織り成す絶世の造形には、確実に、それだけの絶対的な値打ちがあった。
鍵盤からそっと手を離し、ここではないどこか空のほうから舞台上に降りてきたアオキユナは、ようやく立ち上がって僕たちと相対し、嫋やかに腰を折って一礼した。
その清廉な一挙手一投足に、視線が囚われる。彼女がそよそよと袖脇に吹き去った後もなお、依然として脳裏では彼女の調べが鳴り響いていた。それは、間違いなく、この場に居合わせた全人類が抱いた幻聴であり、本物の夢に他ならなかった。
そして、もうひとつ、確かな「言葉」がある。
「……」
僕は、なんとしてでも喉を震わせて、この思いを乗せた言葉を彼女に伝えなければならなかった―――
コーヒーの香りがふと鼻先を掠めて、虚空の底に溺れていた僕の意識は眼前に引き戻された。
弱い力だった。だが、それは、消失しかけていた瀕死のバッテリーをリブートするには充分すぎるほど、非常に頼りになる力だった。そのぐらい、僕という生命の緒は擦り切れていた。
コトン、とくぐもった音を聞いた。
震える手元の周囲へ視線を泳がせると、袖机の上に温かい陶器のマグカップが置かれていた。
滔々と湯気が立ち上る、黒く禍々しい液体。その中で悄然と揺れる奇怪な影を認めて、そいつの正体が僕であることを僕は知覚した。
久々に声を出そうとしたものだから、驚いた喉元に空気が詰まり、僕は激しく咳き込んだ。慌てて掴み取ったマグカップを呷り、熱いコーヒーを腹の底へ落とす。風前の灯火だった四肢が瞬時に熱を取り戻していく心地は、気味が悪いほど生々しいものであった。
「……ああ、ありがとう」
僕は少しだけ身動ぎをして、脇に佇む救世主に、樹海のように寒くて暗いどこかを彷徨っていた思考をここへ連れ戻してくれたことを詫びた。
「難しい顔してるわねぇ、おっさん」
コーヒーへの礼と受け取ったであろうその澄んだ声を聞いて、そこで僕はようやく、妻のカオルコが書斎に入ってきたのだと理解した。
「……言葉の限界だ」
「トザワ先生、その口癖はもう聞き飽きましたよ」
腰に手を当てたカオルコは、僕の眼前で光を放つパソコンのディスプレイに視線を遣り、肩を竦めてひとつ吐き捨てた。
凍えた下顎が小刻みに震えて、カチカチと歯を鳴らす。その音を聞いて、最後に歯を磨いたのは何日前のことだっただろうか、という悪寒が背筋を駆け抜け、僕はヒヤリと恐怖した。
「どうして……」
許可なく入ってきたのか、と問い詰める隙もなく彼女は僕を遮り、低い声で続けた。
「さすがに、様子を見に来たくもなるわよ。丸二日もリビングに出てこないんだから、今度こそ床にひっくり返って死んでるんじゃないか、って」
「はは……、大丈夫だよ……。まだ、こうして生きているじゃないか」
僕がプロの小説家としてデビューしたのが、十五歳の夏。あの誤った選択から、もうすぐ十年が経とうとしていた。
トザワカオルコは、夢を諦めることに慣れていた。
僕とカオルコが結婚を決めた時、彼女は真っ先に、出版社に就職して音楽系雑誌の編集に携わるのだ、という目下の将来像を手放した。
当時、年齢は二歳離れていたとはいえど、僕たちはまだ高校生だった。僕が高一で、彼女が高三の年である。目指したい未来はそう易々と転向させていいものじゃない、と僕が説得をすると、「この、どうしようもない感覚は二回目だから、いいのよ」と彼女はあっけらかんとして笑ったのだ。
「どうしようもない感覚って?」
僕はそんなことを訊いたはずだ。
「なんと言えばいいのかしらねぇ……。ああ、あたしは天才じゃなかったんだなぁ、って、そう思い知らされるような、そんな感覚」
彼女は僕を眺めて言った。だが、その瞳は僕ではなく、悠久の時を超えた遥か昔のいつの日かを見ていた。
「……あの時と同じだわ」
清々しい目をして憑き物が晴れたように安堵するカオルコは、次に瞬きをした途端にたちまち崩れ去ってしまいそうな儚い印象を受けた。
「……あの時?」
お互いの肩が触れるほどの距離で知らない思い出を慈しむ彼女が急激に遠のいた気がして、僕は悔しい感情を押し殺してさらに訊ねた。
「中学生の時にね、プロのピアニストになることを諦めたの」
「へえ、それは……、またどうして?」
「……出会っちゃったのよ。ああ、この子には一生かけても敵わないな、って認めざるを得ない神童に」
僕もよく知る少女、アオキユナの名前が初めて彼女の口からするりと零れ出たのは、その時だった。
その頃、子供という生き物が不思議に思えてならず、僕は公園で遊ぶ彼らと一緒に戯れることがあった。日々の合間を縫いつつ、週末の陽が暮れる時間帯だけでも、ふらりと近所の公園に足を運んでいたのだ。
ザリガニ釣りやら虫捕りやらボール遊びやら、子供たちは毎日毎日飽きもせずに、狭い公園の中を縦横無尽に駆け回っていた。その自由の輪の中に、平然と、カオルコの夢を諦めさせた天才少女はいたのである。
いつの日かの日曜日、町の小さな芸術劇場にて定期的に開催されている市民コンサートで、僕は初めて、アオキユナのピアノ演奏を聴いた。
細々として経緯は、あまりよく憶えていない。ピアノのお披露目が近いの、と気恥ずかしそうに呟く彼女に、観に行ってもいいか、と冗談で訊ねたような気がする。凄まじい剣幕で猛然と拒まれた記憶があるのだが、その演奏会は大きな選考会へ繋がる予選か何かで、入場料が無料らしいということをインターネットの情報で知り、結局僕はこっそり足を運んだのだ。
アオキユナの演奏を目の当たりにして、ああ、と思ったのをよく憶えている。
優雅にピアノを弾きこなすカオルコが、自身の才能に終止符を打った理由が、なんとなく解ってしまったような気がした。
苛烈だった。ひとつ次元が違った。あまりにも衝撃が強く、まったく言葉が出てこなかった。課題曲が決まっているらしく、出場する子たちはみんな同じクラシック楽曲を続々と弾いていくのだが、彼女の演奏だけ、まったく別の音楽を耳にしているような印象を受けたのだ。
僕には音楽の才がなく、学校のリコーダーすらまともに吹けた例がなかったので、幼くして悠々とピアノを弾きこなす演奏者たちに素直に感服していた。だが、アオキユナの演奏を聴いて、初めて、これはお遊戯会ではなく、熾烈な選考争いなのだと思い知らされた。
センスがある。素人ながら、はっきりとそう感じた。彼女の演奏は、師匠の指示に従い、ただ与えられた楽譜をなぞるような音楽とは全くの別物だった。
なんと言えばしっくりくるのか、この感動をどう言葉に直せば伝わるのか、小説家としてひどく苦しんだ。僕は今でも、想像や理解を超えた事象を描くことを極力避けるようにしている。その根底には、あの時の、軽はずみに足を踏み入れてしまったアオキユナの聖域があった。
探していた、とでも言おうか。
探していた。そう、探していた。彼女はその演奏を通して、ひたむきに何かを探していたのだ。
群を抜いて、圧倒的に卓越した表現力があった。それは間違いない。しかし、そんな形式的な説明の型には到底収めきれない何かを、僕は見た。
思い出すと、今でも恐ろしい。あれは一体、なんだったのだろう。
僕と結婚することが、なぜ音楽雑誌の編集者になるのを諦めることと結びつくのか、カオルコの考えが僕には読めなかった。
「だって、小説しか書けない人と結婚するんだもん。あたしが同じ出版業界で生きていたら、出版物が売れなくなった時に共倒れになっちゃうじゃない」
僕が高校を卒業してカオルコと同棲を始めた頃にそれとなく訊ねると、彼女は呆れるように言った。
「将来が約束されている天才と違って、吹っ切れた凡才は何にでもなれるんだから」
常識でしょう、と語尾が続いているような口調だった。そんなカオルコは、経営学部在学中に僕と入籍して、すぐに娘のカナコを出産。現在はインターネット上で小さな楽器店を営みながら、週末は近所の商店街の一角で大人向けのピアノ教室を開いている。
僕もカオルコも基本的に在宅勤務なので、力を合わせれば仕事と家事と子育てを回すことは存外大変ではなかった。僕に関しては、小学生時代から世には出さずとも落書きのような小説はつらつらと書いており、ストックは無尽蔵にあったので、トザワモトヤの名が売れ出して固定ファンが付いてからは大して苦労していない。だから思い返せば、十五でプロ作家としてデビューし、十九でカオルコと結婚して同時期に彼女が出産、娘のカナコが五歳になる二十四歳までの十年間、創作活動と呼べる作業はほとんどしなかった。
大学に進学して、実家を継ぎなさい。不安定な小説家なんて辞めて、企業に就職しなさい。銀行員か公務員が安定だけど、教師だけは辞めておきなさい。あなたはまだ十代なのに、学生結婚なんて早すぎる。そんな愚かで浅はかな思想を押し付けてくる馬鹿な親とは、高校卒業と同時に縁を絶った。
いつまで経っても親離れできないんだから、と子供に対して嘆く親が多いが、僕から言わせれば全く逆である。
親が、いつまで経っても子離れできないのだ。
瞬く間に大人に成っていく「我が子」という一人の人間の人生を、親の独断と偏見で縛り付けるようなことがあってはならない。だから、親は我が子に根拠も中身もない説教めいた独りよがりな暴挙を振り翳してくる生き物であるということを身に沁みてよく理解している僕は、娘であるカナコとの向き合い方について、神経質なまでに放任主義になろうと決めている。僕とカオルコが生み落としたこの人間が、生きているうちに何に興味をもつのか、何を嫌悪するのか、誰を愛するようになるのか、究極的には何を成し遂げて死に往くのか、今からでも非常に楽しみだ。死んだ先で再び出会うことが叶うのであれば、ぜひ、自分の生き抜いた世界はどうだったかを問うてみたいものである。
「はーあ、今日もみっちゃん来なかった」
ここ数日、晴れて小学生になったカナコはみっちゃんのことをひどく気にかけている。
近所の公園に時折、かつて僕が「もっちゃん」という愛称でそうしていたように、「みっちゃん」という年の離れたお兄ちゃんがふらりと現れるのだ。カナコはみっちゃんのことを好いているようで、公園で彼と遊べた時は驚くほど上機嫌で我が家に帰ってくる。しかし、今日もいなかった、明日は来るかな、と、最近は日常に“みっちゃん成分”が足りていないようであった。
カナコが「みっちゃん」と呼ぶので僕もそう呼んでいるが、本名は知らない。近所の子であることは確かだし、公園までカナコを迎えに行った時に見かけたら雑談を交わすこともあるので、顔見知りではある。もしかすると、僕はその昔、幼少期のアオキユナと遊んでいたように、少年だった彼とも一緒にザリガニ釣りやボール遊びをしていたかもしれない。子供の成長は恐ろしいほど早く、一歳違えば世界がまるで違うし、少年から青年に成長すると見た目も急激に大人びるため、正直なところ、アオキユナ以外の子は誰がいたのかよく憶えていなかった。
最後に僕がみっちゃんと会ったのは、年が明けて正月の時期だったから、三ヶ月ほど前だ。大学受験を控えているのだという会話をしたから、おそらく、何かと忙しい時期を乗り越えてひと段落した頃のはずだ。県外の大学に受かっているのだとしたら引っ越して一人暮らしを始めているだろうし、もし受験に失敗しているとしたら浪人生活を送っているか、専門学校や就職の道に進んでいることだろう。地元の大学に通うことになっても、もしかしたら、もう近所のお兄ちゃん「みっちゃん」は引退することにしたかもしれない。
「そっかぁ……、残念だったね」
淡い恋心だろうか。いや、こんなに幼くして、それはないか。子供というのは、年の離れたお兄ちゃんお姉ちゃんを好きになるものである。だが、そう自分に言い聞かせど、カナコがみっちゃんのことを最近ずっと気にしていることは、親としてひどくいたたまれなかった。
「あ、パパだ! 久しぶり!」
二日ぶりに書斎を出て居間へ行くと、僕の姿を認めたカナコが嬉々として言った。たかだか二日じゃないか、と微笑ましく思ったが、子供にとっては限りなく無限に近い時が経っているに違いない。
「久しぶり」
「……うえぇ、パパ、なんか臭いよ。お風呂入って!」
「うわぁー、パパ、きたなーい。ねぇ、カナ?」
カナコの純粋無垢な直球に紛れて、カオルコの性悪な変化球が飛んでくる。
「うーん、きたなーい。くさーい!」
「ああ……、これは失礼いたしました」
やはり、今は余裕綽々の僕も、カナコがここから離れて生きていく未来が目前まで迫り来た時には、うじうじと子供じみた態度を取るようになってしまうかもしれない。こころの帯を、しかと締めておかなければ。
カナコが“みっちゃん成分”を再び摂取することができたのは、小学校生活が始まってから二週間ほどが経過した晩春の日曜日だった。
「お花見がしたいわ」
午前中にピアノレッスンを終えて午後からフリーになったカオルコが不意に言った。
「平凡だね」
「だって、春だし」
「行きたい行きたい!」
そう言って、休日なのに、すっかりお気に召した桜色のランドセルを背負い始めるカナコ。そんなわけで、相も変わらず十代の頃に書き溜めていた小説を出血のようにじわりじわりと世の中に吐き捨てながら不健康な日々を送っていた僕も、春の朗らかな陽気を浴びに公園に来ていた。
日曜、若葉の気配に満ちた、晩春の昼下がり。公園にはちらほらとカオルコのママ友やカナコの同級生もいたりして、散り往く風流な桜を眺める宴はそれなりに盛り上がった。
「あーっ!」とカナコが突然叫喚したのは、そろそろお開きになるかといった絶妙な雰囲気が漂い出した頃合いだった。眼を離した隙に怪我でもしたかと焦ったが、彼女は「みっちゃんいたぁぁぁあああああ!」と手に持っていたシャボン玉のセットを放り出して走り出したのだ。
上手くいかなかったのだ、と、彼の陰鬱な風貌を認めてすぐに察した。だが、カナコを連れ戻そうと反射的に前のめりになったカオルコを僕は瞬時に制した。
みっちゃんに駆け寄るカナコを止めはしなかった。彼を立ち直させる手段として、僕はカナコに賭けたのだ。
そして、その密かな賭けに、僕は勝った。
側にいた女性は彼のお母様だろう、カオルコとすっかり打ち解けたようで、今はこちらを眺めながら、二人して隅の四阿で談笑している。
「受験、失敗しちゃいまして」
麗らかな春空の下でザリガニ釣りに躍起になっている少年少女。彼らの背中を見つめて疲れたようにヘラリと笑うみっちゃんは、ひとしきりカナコの暴走に振り回されて、少しばかり気力を取り戻したように見えた。
「そっかぁ……」
僕は気休めの言葉をかけて彼を慰めるべきか否か迷い、言い淀んで口を噤んだ。
鶯が春を謳い、和やかな沈黙が空気を満たした。
すると、ザリガニを釣り上げた子供たちの笑い声を挟んで、みっちゃんがそっと口を開いた。
「実は俺、知ってるんです」
「……何を?」
わざわざ問い返さなくとも、僕はなぜか、次の瞬間にみっちゃんの口から放たれる言葉をなんとなく予期していた。
「モトヤくんが、小説家だってこと」
実名で活動しているから、知られていたとしても大して驚きはしなかった。
「僕の作品を読んだことはあるかい?」
「……すみません、ないです。活字って、どうも苦手で」
「いや、いいんだ。謝る必要はないよ。僕の小説なんて、読んだって意味ないからね」
「でも、すごい賞をいくつも貰ってるらしいじゃないですか。参考書を買いに行った時に見かけました。書店の入り口に、新作の単行本が山積みになってましたよ」
「……それは、あれだよ。出版社と印刷会社と書店が儲けたいから、大袈裟に顧客の購買欲を煽り立てているだけだよ。今回の新作だって、題材はもう十年ぐらい前に思いついていた物でね、中学生の時にぼんやりと感じていたことを、大人の文章力で書き殴って、無理やり小説っぽく昇華させたに過ぎない」
「……なんか、凄いっすね、ほんと」
「お世辞は止してくれ。トザワモトヤはもう、ありきたりな、散々語られ尽くしたような小説しか書いてない。ファンに媚びを売るだけ売って、ちまちまと小銭を稼いでいるだけさ」
“売れっ子小説家”としての僕が珍しく饒舌になっていることを、何者でもない僕は冷めた心地で俯瞰していた。
これはまだ誰にも打ち明けていないことだが、僕は近々、プロ作家を引退しようかと思っている。
言葉の限界。
高校時代に天才少女アオキユナのピアノ演奏を通して感じた“それ”に、僕は心の底から参ってしまっている。美しいものを「美しい」と書き記すことがこれほど難しいことだったとは、プロ作家デビューしたてで思い上がっていた十五の少年には分からなかったらしい。目の当たりにした神秘をそのまま誰かに伝えるには、僕の脳みそから滲み出てくる「言葉」では全く足りないのだという事実を、僕の躰はひしひしと痛感してしまっていた。
「……物語って、面白いですか?」
みっちゃんに訊かれて、僕は一瞬だけ、小説ではなく、物語のことを考えた。
「……どうだろうね。少なくとも生身の人間よりは、まだマシなほうかもしれない、なんて言ったら怒られるかな……。でも、そのぐらい、僕にとっては面白い物だよ。どうしようもないぐらいに、好きな物だ」
そう先走る口を追うように、すでにすっかり疲弊しきっているはずの僕の脳みそは性懲りもなく、みっちゃんという悩める者の心が少しでも軽くなるような物語を描き始めていた。