〈支援〉する塾講師をめざして(2/3)
2 教科学習を〈支援〉するには?
「子ども支援学」の知見を実践し、〈支援〉する塾講師になる。塾講師としての仕事を始めた時、私はそう誓った。
「支援者自らの力の優位性の自覚を伴いつつ被支援者をエンパワーする」ことが〈支援〉である。ならば私は、「教師が生徒との力の不均衡を十分に顧慮している場合の生徒への関わり方」をする、〈支援〉する塾講師になろうと。
しかし、進学塾には受験という至上目標がある。「一方的な働きかけ」による「教師主導の指導」の方が圧倒的にやりやすい。
塾講師として〈支援〉するとはどういうことか。
先人たちの言葉にヒントを探るなかで、次の2点に辿り着いた。
①「あれもこれも」と詰め込むのではなく、学ぶものごとを「有限化」する。
②「中動態」のプロセスを取り入れ、偶然を楽しむ余地を残す。
これが、〈支援〉する塾講師としての、授業づくりの指針である。
①学ぶものごとを「有限化」する
哲学者の千葉雅也は、著書『勉強の哲学』において、勉強を支援する存在として、教師の役割を述べている。教師の役割は「勉強の有限化」であるという。
教師の仕事は、「このくらいでいい」と勉強を有限化することである。逆に言えば、「あれもこれも」と教えすぎるのは、生徒を支援するどころか、負荷を増やしてしまいマイナスである。
英語教育界の片隅にいると、「学校では教えてくれない〇〇」と銘打ったコンテンツに出会うことが多くある。確かに、学校の授業や教科書では取り上げられていない、実用的な知識や考え方も多くあるのだろう。
だが、授業の時間も、生徒が予習や復習にかけられる時間にも、限度がある。百科全書的にあらゆることを網羅できればよいが、物理的に不可能だ。
教師の仕事は、「あれもこれも」と詰め込むことばかりではない。むしろ何を選ぶか、何を選ばないか、という目利きにこそ、教師の腕が試される。
では、塾の教室という現場において、「勉強の有限化」とは具体的に何を指すのか。
予備校講師の田中健一と、『独学大全』著者の読書猿は、予備校(講師)の役割について、他者の学習を支援するという視点から、次のように語る。
読書猿は、受験生にとっての予備校の役割を「専門知を持った人に、情報を整理してもらって、その成果を使って自分の学習を支える骨組みをつくる」ことだと述べる。塾や予備校に通ったことのある人にとって、実感を伴う事実ではないだろうか。
例えば、大学受験のために英語の参考書と問題集がほしいと思い、書店に買いに行く。大学受験対策の英語の参考書・問題集だけでも、実に多くの種類がある。その中から自分にあった一冊を選ぶのは、とても難しい。
教材の難易度は、自分の目標に見合っているのか。見合っていたとして、今の自分が取り組めるレベルなのか。デザインや文体が主観的に合う・合わないという問題もある。選ぶだけでも多くの時間や体力を消費してしまいそうだ。
良い一冊に巡り会えたとして、次はその教材に関する学習計画を立て、実行しなければならない。さらに、その一冊だけでその教科の勉強が完成するとは限らない。英語なら、単語帳だけあったところで、文法の勉強はできない。
読解、リスニング、作文の練習をしたいなら、それらの演習を目的にした教材が必要になる。良い一冊を探して、計画を立てて実行して…という手順をまた踏まなければならない。
独学は自由だが、かように大変なものでもある。
そこで、「専門知を持った人に、情報を整理してもらって、その成果を使って自分の学習を支える骨組みをつくる」ための、塾・予備校(講師)の出番だ。
多くの塾・予備校では、プロとしての知見に基づく教材や授業計画を用意している。いつ、何を、どのくらいの量とペースで学習するのか。生徒は基本的に、プロが整理した学習内容に乗っかれば良い。それを身につけるか否かは、生徒次第だ。
読書猿の発言を受けて田中は、予備校講師は「学習内容の整理」を行うために「過去問を徹底的に分析している」のだと言う。
受験勉強の目標は、自分が受ける試験で合格点を取ること。そして過去問とは文字通り、過去に実際に行われた入試の問題である。
つまり過去問は、「その目標を達成したければ、このくらいのことをできるようになろう」という、具体的な目標を教えてくれる教材なのだ。その目標から逆算して、この1年、1ヶ月、1週間で何をするべきか、と考え実行していく。
つまり、塾・予備校の講師も、「学習内容の整理」によって学習を支援することができる。
②「中動態」のプロセスを取り入れる
もうひとつの要素が、「中動態」のプロセスを取り入れることだ。
哲学者の國分功一郎と、先に挙げた千葉雅也は、大学教員の立場から、授業は「中動態」でないといけない、と語る。
「中動態」とは何か。
「能動態」「受動態」なら、昔英語の授業で習ったものとして、多少はなじみがあるかもしれない。
Tom broke the vase.(トムがその花瓶を壊した)を
The vase was broken by Tom. (その花瓶はトムによって壊された)
に「書き換え」る、という練習を思い出す人もいるだろう。
「能動態」は、主語が対象に対して働きかける(トムという主語が、花瓶という対象に対して、壊すという働きかけをする)ことを言う。一方「受動態」は、主語が何かの働きかけをされる(壊すという働きかけを花瓶が受ける)ことを言う。
だが、かつて言語には別の「態」(voice)が存在した。それが「中動態」である。
『中動態の世界』における國分功一郎の解説を借りれば、中動態とは、かつてインドからヨーロッパまでの広い範囲の言語に用いられてきた文法形態である。
いま私たちは(トムと花瓶の文の「書き換え」のように)能動/受動の二分法に慣れきっている。しかし、比較言語学の知見によれば、かつて対立していたのは能動態と中動態であり、受動態は後から中動態の派生形として発展したのだという。
では、能動態と中動態を分けるものは何か。國分は言語学の知見を踏まえ、次のように言う。
つまり「中動態」とは、「主語が過程の内にある」ということだ。
では「中動態」の授業とは、どんな授業なのか。
「完成した、重要事項の一覧表みたいなことをしゃべっている授業」では、昨年も今年も来年も、教室にいる生徒が変わっても、生徒が教師から届けられる話は同じである。終始、教師は情報の送り手、生徒は受け手である。この場合、授業の内容について、生徒は過程の外にいる。
対して、「教師が問題と格闘して、時には予定と全然違う話を始めて、目の前で何かが起こっていることを生徒が目撃」し、「何らかの話題で学生が化学変化を起こし、ものを考えるプロセスに入ってい」き、「教師のほうも教えながら学生から教えられて気づくことがあり、それをまた教え」るような授業の場合、毎年まったく同じように進める、ということは難しい。生徒の反応を教師が取り入れ、授業そのものが有機的に変化していくからだ。
教室にいる生徒が変われば、個人や集団としての目標、ある問いに対して出される答え、打ち込んできた部活や習い事、笑いのツボなど、様々な要素が異なる。教師が生徒の反応を取り入れながら授業を有機的に変えていこうとすれば、同じ事項の解説の仕方や、息抜きに織り交ぜる雑談など、様々な面で、授業は一期一会のものになっていく。
学習を媒介にした講師と生徒の関係性は、能動/受動ではなく、中動態的になりうる。
教科の授業というものの性質上、「先生が生徒に教える」という構図になるのはやむをえない。だが、(1)の記事でも見た通り、支援と指導の違いは、「教えるか、教えないか」ではなく、「いずれが主となって力が作用しているか」であったはずだ。
授業を「中動態」的なもの、すなわち生徒が学ぶ過程の内にあるようなものにしていく。
「教師が問題と格闘して、時には予定と全然違う話を始めて、目の前で何かが起こっていることを生徒が目撃する」、「何らかの話題で学生が化学変化を起こし、ものを考えるプロセスに入っていく」。
長期の計画やその日の予定を立てる際、そうした偶然が起きる余裕を残しておく。その余裕が、「教師のほうも教えながら学生から教えられて気づくことがあり、それをまた教え」るような、開かれた心を生む。
そうすれば生徒は、その授業に対し、自分(たち)がこの授業を作る過程に関わっている、と感じることができる。教科の授業においても「参加」を「支援」することは可能だ。
教科学習でも〈支援〉的に接することはできる
ここまで論じてきたことをまとめよう。
〈支援〉する塾講師としての授業づくりの指針は、「有限化」と「中動態」である。
1つ目が「有限化」。教師の役割は「学習内容の整理」にこそある。
受験のための進学塾について言えば、進学塾の授業とは、「学校で学ぶこと」と「入試で求められること」の間に橋をかけ、生徒と共に渡っていくものである。
具体的に言えば、①入試問題の傾向と対策、②学校の授業ではあまり時間が割かれない分野、③生徒がつまづきやすい単元、に焦点を当て、生徒の学びを支援する観点から日々の授業や長期のカリキュラムを組み立てる。
2つ目が「中動態」。生徒が学ぶ過程の内にあるような授業を作る。
教師と生徒の関係性を情報の送り手/受け手、能動/受動の関係に固定することなく、教師と生徒と話題との間に化学反応が起こり、有機的に変化するような時間と空間を生み出す。事前に計画を立てる際に、そうした偶然が発生する余裕を残しておく。
これらが、授業を生業とする先人たちの知見から私が学んだことだ。
ただ、(1)の記事もこの(2)の記事も、その主要な部分は先人の言の引用である。では、そうした先人の知見を踏まえて、この記事の書き手は一人の講師としてどのようなふるまいをしているのか。その話題については、(3)の記事で述べることにしたい。