つらら
エッセイと呼べるか分かりませんが、エッセイのようなものを書いてみました。
思えば、(一番古い記憶は中学生のときから)私はまぶしい光が苦手だった。 休みの日に、床に寝転がりながら部屋にさす日差しを見つめる。それを眺めながら、胸が締め付けられ、少し涙がにじむ。 誰に言うでもなく、誰かもそう思っているような、もしかしたら自分だけかもしれないような、どちらであっても不安な気持ちをそっと胸にしまい込んで、何も無かったかのように、また日常を過ごしていく。 大丈夫、それくらいのこと。大丈夫、大したことではない。大丈夫、大丈夫。そう言い聞かせて、やってきた。言
心がざわついて、うるさくて、黙ってくれないときは、宇多田ヒカルさんのplay a love songが響く。イヤフォンをつけて、周りの音が聞こえないように音量を上げて、目を閉じて、聴く。少しずつ、浄化できると祈って、聴く。
長い間、自分はとても裏表が激しい人間で、ずるい人間なのだと思ってきた。 どちらの面も知っている人からしたら、見ていて腹が立つほど二面性があるだろう、ということは自分でもよく分かる。 けれど、私が悩んでいたことは、自分がずるい人間であることでも、それに腹を立てられることでも無かった。自分のモヤモヤが晴れないのは、どちらも自分であるからであって、どちらの自分も、自分以上でも以下でも無かった。そこに嘘は無かった。たぶん笑 高校時代はよくBUMP OF CHICKENの歌をよく
先日、テレビ番組で森進一さんと息子さんのhiroさんが出演されていて、hiroさんが襟裳岬を歌った。 私は30代なので襟裳岬はリアルタイムで知らない歳なのだけど、とても思い出深い一曲だ。良くも、悪くも。 自分の出来なさや自分の不甲斐なさ、周りに対する不信感、不信感を超えて一種のマインドコントロールのような状態になっていた高校時代によく聴いた。MDに移した襟裳岬は、私の心に寄り添ってくれた。帰りのバスの中でよく聴いた。とても大好きな曲なのだけれど、その頃を思い出す曲でもあっ
なぜか心がポキッと折れてしまって、なかなか修復に時間がかかっている。無理に直さなくてもいいかなって思ったり、焦っている自分もいたり。自分の心に正直に、今は少し、休もうかなって思ってる。日常は続くけれど。
そんなわけは無いんだけれど、でも、あれは私へのメッセージだったのでは無いかな、と、少し過信している。怒っているのかな、って思ってしまう悪い癖が出てしまいそうになったけど、持ち直さないと。メッセージだ、メッセージ。怒りかも忠告かもしれないけれど、どちらにせよ、伝えてるんだと思う。
10年ほど前、魅力的な若林さんに惹かれ、大学時代には、若林さんってめちゃくちゃ良い!!って話を友人に熱く語ったことをとても鮮明に覚えている。あれは大学の食堂だった。今よりももっと言語化が未熟だったし、とにかく「何が良いかよく分からんけどめっちゃ好きやねん、ほんまめっちゃ良いねん」と力説した。友人は、「分かる、好きそうやんな。」と言った。 そんな若林さんがnoteを始めたと聞いて、急いで登録した。 でも、私が若林さんの本を初めて手に取ったのは実は数ヶ月前だった。『社会人大学
1 「ねえ、誰も傷付かないことばってなんだと思う?」 「え、クイズ?」 「ううん。」 「えっと、ハンバーグとか?」 「それ自分が好きな食べ物でしょ。」 「たしかに。楽しい、とか。」 「楽しいと感じられないときにそのことばを聞いたらどう思うかな。」(今私は楽しくない) 「うーん、だったら、、、えーっと、、、愛、とか?」 「愛されたことないと思ってる人が聞いたら傷付くかもしれないよ。」(愛されたことない) 「そうか。」 わたしがこんな質問をすることを、彼は面倒くさいと思っている
エッセイと呼べるほど大したものでは無いけれど、ここまで少しだけ書いてきて、自分自身の文章を読み返すと、いろいろな感情が襲ってくる。 日々の感じたことを言葉にするというのは、本当に頭の中が整理される。当たり前のことだけれど。アウトプットは得意では無いけれど、頭の中で悶々と考えていても何も始まらなければ、何も生まれない。文章にするために頭を整理し、読んでくれる方がいるならその方たちにも、そしてきっと何より自分自身に分かるよう、自分なりに工夫してみようと挑戦している。 大した文章
もっと早く気付くべきだった。私は同窓会も行かなくて良いし、飲み会に行かなくたって良いし、オールなんてしなくたって良い。 SNSで楽しい日常をアップしたり、大勢の友だちと盛り上がってる写真を撮ったり。自分の表現の仕方を知らなかった私は、みんなの真似をしようと試みた。でも、それでは心は穏やかにならなかった。 昔から、昔というのはいつからだろうか。少しずつ気づき始めたのは中学生の頃だった。中学一年生の私は、所謂、クラスの中で目立つ位置にいた。というのも、目立つ子と一緒にいる時間
バーベキューや焼肉をするとき、肉を率先して焼く人と、焼かなくても焼いた肉が目の前にやってくるタイプの人がいる(らしい)。 ちなみに私は、記憶の限り、家族以外とバーベキューをした経験はない。焼肉は、辛うじてあるけれど。 こんなこと言うと、好きでもないはずの“バーベキュー”という言葉が、ちくっと私の胸を刺してくる。 私は、肉を焼かない。 世間では、「気が利かない」「先輩を立てない」などと言われることは知っているし、自分でも、何で焼くというだけのこの行為が出来ないんだろう、と本
数年ぶりに再読。積ん読がたくさんあるので読んでいこうと思ってるのに、久しぶりにもう一回読みたくて手に取った。 積まれた本はなかなか低くならない。 この本を初めて読んだ数年前、俳句に苦手意識を持っていた私が、しばらく頭の中の五七五が止まらなかった。 ここに出てくる小学生や中学生、大人、みんなが素直にあたたかく、切なく、優しい句を詠んでいた。一つ一つの句にグッと心をつかまれるこの感覚がとても心地良く、癖になる。 十七音に、素直に本音が出せる秘密が隠されている、それが俳句なのだ
「愛された記憶は人を支える」という、昨年亡くなった田辺聖子さんのアフォリズムでもあるこの言葉を、ずっとずっと大切に思ってきたけれど、私の思う「愛する」とは何だったのか。 愛すると言うことは、あなたが大切だよと伝えたり、抱きしめたり、よく出来たねと褒めたり、あなたのこんなところが素敵だよと伝えたり、、、、、だけでは無かった。 「出来ないことが出来るようになること」や、「自分自身を知ること」「分からないことが分かるようになること」を、出来るようにすること、きっかけを作ること、
遅ればせながら、読了。 ドキッとして、ハッとする言葉の連続。 子どもは鋭くて、正直で、そして温かい
私は子どもの頃から歌番組が大好きで、時代ごとに、「お笑いブーム」「クイズ番組ブーム」などあるけれど、私が小・中学生の頃は歌番組が多かったような気がする。 親子で楽しめる歌の大辞テンも、人気の歌手(今はアーティストと言う方が主流だけど)が出演するMステも、歌うのは本人では無いけれど楽しい夜もヒッパレも、CDTVだって、夜中にやっている音楽番組だって、何でも大好きだった。 そんな歌手が大晦日に集まる紅白歌合戦は特別だった。知らない演歌歌手も祖母は喜んでいたし、知らない綺麗なおば
とある本の中に、「考え方や思想や言葉に衝撃を受け、その人物の本を読み漁ったり、何か辛くなったら頼ったり、助けられたり。自分の中の全てがそのもので埋めつくされているものでも、いろいろな経験や、たくさんの出会いを経験していくうちに、それだけが全てで無いことに気付き、今までは自分の中の全てだったものが、自分の一部として構成されていく。」というような的なことが書かれてあった。(私の解釈) 私は、中学生のときからBUMP OF CHICKENが大好きだった。高校生のときには、BUMP