襟裳岬
先日、テレビ番組で森進一さんと息子さんのhiroさんが出演されていて、hiroさんが襟裳岬を歌った。
私は30代なので襟裳岬はリアルタイムで知らない歳なのだけど、とても思い出深い一曲だ。良くも、悪くも。
自分の出来なさや自分の不甲斐なさ、周りに対する不信感、不信感を超えて一種のマインドコントロールのような状態になっていた高校時代によく聴いた。MDに移した襟裳岬は、私の心に寄り添ってくれた。帰りのバスの中でよく聴いた。とても大好きな曲なのだけれど、その頃を思い出す曲でもあって、素直に心に響いてくれなくなってしまった。
ところが、先日hiroさんの襟裳岬を聴いた瞬間、あの頃寄り添ってくれた襟裳岬のように心にスーッと入ってきた。森進一さんの襟裳岬を聴いていたあの頃のように、あの頃の自分を慰めてくれた。慰めるという表現は少し違っているかもしれない。少し恥ずかしいけれど、癒してくれた、という言葉がしっくりくる。
音楽はいつも私に大きな影響を与え(大多数の人がそうだと思うけれど)、心を動かす大きな要因になる。音楽にくっついた思い出はなかなか切り離すことは難しくて、よくない感情をくるんでしまった音楽ほど、その二つはなかなか剥がすことは出来ない。
難しいもので、負の感情を払拭するために自分を守ってくれた曲であっても、思い出の引き出しにしまっておくときに、くるんでいた感情との粘着力は高くなることがよくある。引き出しを開けた瞬間、音楽が流れ始め、分厚くくるんでいたはずの感情の方が自分に襲ってくるのだ。
そんなことが起こることをしばしば経験してきたので、その引き出しを開けることは、故意にやめていた。
そこで訪れたのが、hiroさんの襟裳岬だった。
それは思い出の襟裳岬に上塗りではなかった。いきなり引き出しを開けられて、森進一さんの襟裳岬でくるんだ感情(時間が経ったので強度な粘着力)を勢いよく引き剥がし、どこかに吹き飛ばしてしまった。hiroさんの短い襟裳岬が終わる頃には、その感情はなんとなくでしか思い出せなくなっていた。
その日の夜は、森進一さんの襟裳岬を聴いて、よく眠った。