服装

私は子どもの頃から歌番組が大好きで、時代ごとに、「お笑いブーム」「クイズ番組ブーム」などあるけれど、私が小・中学生の頃は歌番組が多かったような気がする。
親子で楽しめる歌の大辞テンも、人気の歌手(今はアーティストと言う方が主流だけど)が出演するMステも、歌うのは本人では無いけれど楽しい夜もヒッパレも、CDTVだって、夜中にやっている音楽番組だって、何でも大好きだった。

そんな歌手が大晦日に集まる紅白歌合戦は特別だった。知らない演歌歌手も祖母は喜んでいたし、知らない綺麗なおばちゃんの歌も、両親は笑顔で口ずさんでいた。
でも、私の違和感は拭えなかった。とにかく、なぜか恥ずかしかったのだ。いつも私が観ている彼らではない。みんながみんな、過度な髪飾りをし、過度にキラキラ輝く服を着ていた。
いつも通りの彼らは美しいのに、私は歌が好きなだけなのに、何をこんなにも、と。気恥ずかしさが拭えず、年の暮れの何とも言えない心のざわつきと一緒に、その見た目を消化することが出来なかった。こんな小さなことが振り回されている自分は、何となくこの世では一人なのではないか、と不安も一緒に毎年募っていた。

しかし、理由は簡単ではっきりしている。そう、私がさっき書いている。大晦日は、紅白歌合戦は、「特別」なのだ。「特別」な日に、「特別」な服装をする。ただそれだけのことだった。


先日、息子の幼稚園で小さな小さなお祭りがあった。注意事項には「お子さまと同様、保護者の方も汚れても良い服装でお越し下さい。」と書かれてあった。息子には黒いパンツに深い緑のTシャツを着せた。私も黒のパンツに、濃いグレーのTシャツを着たが、猛暑の中とても汗をかくことが想像されたので、家を出る直前、汚れても良い白いTシャツに着替えた。

幼稚園に着き、説明を終えたあと、小さな小さなお祭りが始まった。そのとき、保護者の一人が鞄の中から、とても煌びやかな、美しい花柄のエプロンを取り出し、颯爽と纏った。纏ったという言葉の見本のような動作だった。美しかった。カッコ良かった。
彼女はきっと、「汚れても良いように」エプロンを着けた。ただそれだけ。私が息子に深い緑のTシャツを選んだのと同じように、濃いグレーのTシャツを選んだけれどやっぱり汚れても良い白いTシャツを選んだように、ただ、汚れても良いようにエプロンを身につけた。カッコ良かった。今回は気恥ずかしくは無かった。

私の心をいつもざわつかせるのは、「用途以上の理由」を持ち合わせているとき。
いつもの服装でも歌えるはずなのに、華美な衣装にドキッとし、汚れても良いという理由だけではなく、「美しい花柄のエプロン」というファッション性の意味を持つと途端にわたしは動揺する。幼い頃の感情は、気恥ずかしさが大半を占めていたけれど、私も少し、やってみたいと素直に思えるようになった。

それを成長と呼ぶのは少し、怪しいけれど。


そしてそのお祭りで、私も息子も全く服は汚れなかったのだけど。



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