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文章を書くとき、本音か?建前か?

顔も名前も出していない「note」なら、自由に書けると思ってた。
誰の目も気にせず、本音を綴れるはずだと。

でも、いざ書こうとすると、なぜか手が止まる。
特に、自分の「陰」の部分──モヤモヤや不安、焦り、弱さ。
そういうことを書こうとすると、急に書けなくなる。

「こんなの書いても、誰が読むんだろう?」
「暗いことばかり書いてたら、誰も共感してくれないんじゃないか?」
「やっぱり、みんな明るい話のほうが好きだよね?」

そんな考えが浮かんで、結局、書けなくなってしまう。

たしかに、世の中は「陽」の部分を求めているように思える。
ポジティブで前向きな話のほうが受け入れられやすいし、キラキラしたもののほうが人気がある。
「ネガティブな話をしても仕方ない」「前向きに頑張ろう」って雰囲気が、どこか当たり前になってる。

だから、「陰」の部分を書くのは怖い。
「重い」と思われるかもしれないし、「そんなの気にしすぎ」って流されるかもしれない。
だったら、書かないほうがいいのかもしれない。
どうせなら、明るくて楽しいことを書いたほうがいいのかもしれない。

でも、本当にそれでいいんだろうか?

ふと考えてみると、自分が今まで心を動かされたのって、誰かの「陰」の部分だったりする。
「こんなことで悩んでるのは自分だけじゃないんだ」って思えた瞬間。
誰かの言葉に救われたことが、何度もあった。

キラキラした成功談よりも、むしろ挫折や悩みを正直に書いてる人のほうが、心に残ったりする。
それはたぶん、人ってみんな何かしらの不安や悩みを抱えてるから。
言わないだけで、みんなそれぞれ、自分の中の「陰」と向き合いながら生きてる。

だからこそ、「陰」の部分を書くことには意味があるんだと思う。
誰にでもウケるわけじゃなくても、たった一人の誰かの心に届けば、それでいい。

もちろん、それでも「書くのが怖い」って気持ちはなくならない。
傷つくのは怖いし、理解されないかもしれない不安もある。

だから、無理に書く必要はないし、少しずつでいいと思う。
「陰」も「陽」も両方あっていいし、自分なりのバランスで書いていければいい。

結局、書くことで救われるのは、自分自身なのかもしれない。
だから、私はこれからも 陰陽問わず、書き続けたいと思う。

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