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諦められるまであきらめないで!

人は、自分自身をあきらめるのが、
もっともつらいのです。  
あきらめられないからこそ、
自己否定を重ねていき、
さらに自分を追い込んでしまうのです。
「未来の自分」の実現のために
「今、この瞬間」を犠牲にしてしまっているのです。
        諸富祥彦

昨夜
帰宅して
シャワーを浴びて
食事を作り
当然食べ
のんびりとしていたら
パ〜ン パパパ〜ン
という音が聞こえてきた。

さあ
今日は
前段のいちいちを説明というか
書いていこうと思う。
ゆえに大したどころか
どうでもいい話となる。

昨夜

わりと涼しかったな
でも、窓を開けたからと言って
涼しい風が入ってくるわけではない。
ダイニングキッチンのエアコンは
何年もぶっ壊れたままだ。
暑かろうが、蒸そうが、
窓を開けて凌ぐしかない。
この時期
突然の雨にも気を配りながら過ごさねばならない。
昨夜はそういう意味では
のんびりととまではいかないが
わりと楽に過ごせた。
夏の夜はきつい。
夜なんだから涼しくなるべきだろ!
なのに夜でも気温は高い。
建物はしっかり熱を保ってしまっているので
室温計以上の暑さを感じる。
夜なんだから。。。
あきらめがつかない。

シャワー

もともと
風呂(シャワーも含め)は
寝る前に
一日の最後の仕事として入っていた。
のんびりと
シャワーでものんびりと
気持を落ち着けられる大事な時間だった。

新型コロナウィルス禍の過ごし方で
帰宅したら
まずは
手を洗い、うがいをし、できれば風呂に入りましょう!
と言われて
珍しく素直に言うことを聞いているわけだ。
この程度のルーティンを変えるだけでも
けっこうなストレスではある。
だいたいのんびりできない。
風呂上がってからやらにゃならないことがあるのでは。
プラス
できたら頭から洗いましょう!
ときた。
きほん洗体してから頭を洗ってきた
自分で風呂に入るようになってから半世紀。
これを変えるのはなかなか納得がいかない。
だが
せっかく言うことを聞いて風呂に入る時間帯を変えたのだから
洗う順番も変えようと頑張っている。
頭と顔を洗い、体を洗う・・・。
物足りない。
落ちがつかない。
なんか、ちゃんと洗えてない気がする、
頭が痒く感じる。
結局
頭と顔をまず洗い
体を洗い
仕上げにもう一度
頭と顔を洗っている。
シャンプーの減りが早い。
もとに戻そうかと思案していたその時
東京の感染が改めて拡大した、
もう少し我慢しよう。。。
あきらめがつかない2

食事

食事は
中学生の頃くらいから
空腹になると勝手に冷蔵庫を開けて作るようになっていた。
ま、高校生までは適当に、ありもんを炒めるだけとか。
量さえあれば、夕食まで凌げれば大丈夫なので
味は二の次だった。
大学に入り
一人暮らしが始まると
あれやこれや
自分の食べたいものを作るように成り
煮物やおでんや麻婆豆腐や餃子なんかも作るように成り
大雑把で面倒くさがり屋な自分にしては
わりとまめに作ってきた。
で、今でも外食をするよりも
弁当を買って帰るよりも
できる限り自分で食事は作っている。
その作り出しが
風呂の時間が前に入り込んできやがったので
一時間、遅れ
そうなると当然食事の時間も一時間遅れる。
たまに凝ったものを作っていたのだが
一時間作り出しが遅れると
そんな凝ったものを作る気にならない。
出来上がって、食べられるのが22時とか嫌だし。。。
出来上がる前に
アイスとかせんべいとか食べちゃって
出来上がったときには食欲なくなっているとかあるし。
で、昨夜は、最近ハマっている
トンテキを作った。
それと味噌汁。
とんでもない量のキャベツの千切りと
けっこうな量のベビーリーフと
ポテトサラダを添えて。
で、全てを食べ終えて
あ!もらったイクラの醤油漬けが残っていたんだ!
食べちゃわないと!
と、プラス一膳を食す。
食べ過ぎた。。。
久々に食い過ぎで辛かった。
あぁ〜、食いたいもんを作って食いて〜!
あきらめがつかない3

パ〜ン パパパ〜ン

食後
ダレっとしていたら
開けた窓の外から
パ〜ン パパパ〜ン
という破裂音が。
花火だ。
少しのあいだ観ている。
毎夏、窓から見えるこの花火は
今年もだが
あることを忘れているのだが
始まるとけっこう楽しみにしている、毎週末。
そう
豊島園遊園地の花火大会だ。
観ながら
あ!もう今年で終わりなんだ、豊島園の花火。。。
と気づいた。
豊島園は西武池袋線沿線で生まれ育った人間にとっては
原風景であり、ソウルフードのような存在だ。
くいもんではないけど。
練馬区の成人式は豊島園遊園地で行われてきている。
ちなみに、わたしはそのころ大学が地方で、
そこで免許を取るため練馬区民でなかったので
成人式には呼ばれていない。
ぷらす、住民票を動かした次期がとてつもなく素晴らしかったようで、
現地の成人式リストにも載らず、
そこからも案内はもらえなかった。
ま、どちらで呼ばれても行く気はなかったけど。。。
彼女と遊んでいる方が良かったし。
もとい。
豊島園といえば流れるプール。
わたしが小学生の当時は珍しいものだった。
そして、当時はめっちゃ怖いと思えていたジェットコースター。
冬場はアイススケート。
そんなことを思い出しながら
ほんの少しノスタルジックな気分を味わっていた。
そういやぁ、豊島園でデートって
40くらいになって初めてした感じだな。
豊島園で花見会やるから来いよ、と呼ばれ
20数年ぶりに遊びに行き
その時、仲良くしていた方が
「空飛ぶ絨毯」に乗りたい!
というので
酒飲んでるし勘弁してくれ!と拒否。
じゃ、今度!わたしを豊島園に連れてって!
とそうとう前にヒットした原田知世の映画ぽく言われ
酔ったおっさんは
「しようがねぇ〜なぁ〜😊でへへへ」
と調子に乗って約束してしまい
後日その女子に連れられて豊島園に再訪。
そして入園するなり
速攻で、なんの準備もストレッチもなく
「空飛ぶ絨毯」へ引っ張られて乗り
一発で死にそうになった!
が、その方はスイッチが入ってしまい
結局、その後「空飛ぶ絨毯」3回乗らされた。
もう最後の方は
頭はマギャン。
今となっては楽しい思い出。
じゃまた乗るか?と問われたら
丁重にお断りしたい。
豊島園遊園地がなくなるのはちょいと寂しいが
「空飛ぶ絨毯」は大丈夫。
あきらめついた!!!

自己否定からのあきらめ

自己否定ってもんは
肯定したいという自己があるということ。
それだけではない。
自己否定をしている自己を肯定する。
「無知の知」的な
「わたしは凡夫」的な
本当は思ってないだろ?
と思えるような
自分を誇っている自己否定もある。
どちらにしても
あきらめはつかない。
自己というものがある限り
あきらめはない。
あきらめというのは
突き詰めれば
自己がなくなること。
そこに立つまでは
あきらめ悪くあることが必要だ。

そこで気づいた!
「空飛ぶ絨毯」にやられたわたしは
イッちゃっていたため
自己もクソもなくなってしまって
あきらめがついたのかもしれん!
いや、それ、諦めじゃなくて、逃げだし。
投げやりの世界だし。

放り投げる
投げやるのと
諦めるはまったく違う。

人間として生まれた以上
人間であることを突き詰める
自分が何であるかを自分に証明する
自分はじつは自分だけではないこと
自分は自分のものではなくいただきものなのだというところに行き着くまで
諦めはつかない。
だから
敢えて言いたい。

適当にやって
諦めてんじゃねぇ〜よ!

あきらめ悪くさぁ
嫌われようが
省かれようが
あきらめ悪く生きていこうや。




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