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お気楽に😃

期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。
我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。
道徳の拘束力もそこに基礎をもっている。
他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遙かに困難である。
時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。

            三木清


さぁ!これから会議に出る!

期待に応えねば!

出席することに意義がある。
また、やめときゃいいのに、期待されている気になって、大きなお世話でそこで発言までしちゃったりもするんだろうなぁ、今日も。

期待されている気ってのは、期待されていないと寂しいなぁ〜、って弱気と、期待されているから頑張らなきゃって、自分を無理やりやる気ににさせるための自己満足だ。

じゃ、本当に期待されているかというと、そんなこともなく、その期待された気になってした言動がみなさんのお役に立つと、「いやぁ〜、助かりましたよ(^o^)」「ほんと、期待を裏切らないよね」なんて言われて、気持ちよくなって、またその気になる。

そんなもんだから、それが外れると、ホント邪魔でウザいジジイでしかない。

「誰もオマエになんぞ期待してねぇ〜し!」
と、罵られれたとしても文句が言えないかもしれない。
ま、万が一、そんなこと言われようもんなら、モンクどころか、罵ってきた奴をとことん追い詰めて許さない!となるだろうけど😅

お互い様で期待をしあって生活をしているのは確かだ。

何もしない人間には、何でもいいからなにかして、と期待するし、邪魔なやつには、邪魔だけはしないで、と期待をする。

社会ってそんなんで成り立っている。

じゃ、その期待ってやつには、絶対に応えなければならないのかと言うと、そんな必要はない。

一緒になにかを作り上げていく、何かを成し遂げようとしていく、そうした関係性では期待に応えようという志向は大事かもしれないが、じゃ、もしもその途中でよんどころない事情で、病とか怪我とかで、自分が期待に応えられない、そこから抜けねばならなくなったとして、一瞬がっかりはしてもらえるかもしれないが、モンクの一つも言って恨んでもくれるかもしれないが、代わりはすぐに見つかって、何事もなかったかのように事が進む。
そんなことは儘ある。

「〇〇さんが退職してしまったら、もうウチの会社は明日からどうしたらいいのか・・・。」

数ヶ月、数年後にはまた違った形で仕事は回っている。
たとえ、会社は、仕事は回らなくなったとしても、少なくとも何事もなかったかのように社会は回っている。

期待は、間違いなく、わたしの機動力ではあるが、期待に応えることは義務でもなければ、応えられないからと言って悪いことではない。

わたしにとって、その期待が必要なのか、不要なのか、それくらいの軽い気持ちで期待には接することをすすめる。

期待ってものは誰かのためにあるのではないということだろう。

「期待してくれて本当にありがとう!😆!でも無理😃」

これでもいいのだと思うよ。

ということを書き連ねて、これから会議へと行ってこよう。
気楽に会議に臨むためへの自分への助言でした😆

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