認めよう。
喜んでいるのだろう
まど・みちお
犬は喜んでいるのだろう
自分がちょうど犬ぐらいに
犬にして貰えていることだけは
雀も喜んでいるのだろう
自分がちょうど雀ぐらいに
雀にして貰えていることだけは
ヘビもアリもタンポポもスミレも
みんなめいめいに喜んでいるのだろう
自分がちょうど自分くらいに
自分にして貰えていることだけは
で 人間よ
もちろん きみも
喜んでいるのであってくれますように!
自分がちょうど人間くらいに
人間にして貰えていることを
そしてそのうえに
犬も雀もヘビもアリもタンポポもスミレも
そのほかのどんな生き物でもが
みんな ちょうどその生き物くらいに
その生き物にして貰えていることをまでも
人には言えるんだよね。
自分が自分であることに、って。
じゃ、自分は?っていうと、きほん全くそう思えていない。
これが事実。
状況や持ち物によって
極論で言うと
「生まれてきてよかった」
「こんなんだったら・・・。」
とかって変わるのは
状況や持ち物を見てしかいない生き方。
状況が変わる度に
持ち物が増えたり減ったりする度に
自分の価値まで変わると思ってしまっている。
そんなもったいない生き方をしている。
いまは、まだ、自分が自分であることに、喜びとまではいかないが、不満はないし、自分であってそれでいいと思えているが、これがなにか起きた時に、何かを失ったときにもそう思えているか?と問えば、自信はない。
そうあろうと必死に考えているだけだ。
歩けなくなろうが
走れなくなろうが
寝たきりになろうが
破産しようが
その状況を恨めしく、辛く悲しく受け止めても、それでもいまここに「わたし」としてあることは大事なことなんだ、と受け止めたい、と思っているだけで、受け止める自信は全くと言っていいほどない。
毎朝、鳥や草花や虫に会うが、誰一人として自分が自分であることを恨めしく思ったことなど無いだろうな、状況や他者を疎ましく思ったことなど無いだろうな、と、考えさせられることがたまにある。
天敵同士であろうが、危機感はあるにしろ、天敵に対しての恨みもなければ、ましてやそれがいなくなれ、などとは思いもしないだろう。
ただ、そこにあって、そこで生きている。
すごいな、理由なく生きるって。
人間であることは認めよう。
人間であるってことは、そのままを受け止めて喜べないってことだ。
「ちょうど」な「自分」に不満を持ち続けることだ。
だからこそ人間であることは面白い。
人間をやめられない。
人間であることを認めよう。
「ちょうど」な「自分」は喜べないが、人間であることは喜ばしいことなんだと認めよう。