最低条件
命は、個人以上のものです。
空を飛ぶ鳥の命も、野原に咲いている花の命も命でしょう。
その命は、誰かのものというものではありません。
命は、誰かの所有物ではないのです。
私たちは、この誰のものでもない命を生きているのです。
大峯 顯
カレー南蛮そばを食べてきた。
「南蛮」なんて昔は付けなかったなぁ。
「カレーうどん」「カレーそば」
で、いつの頃からか、「南蛮」が付くようになった。
いや、蕎麦屋のメニュー・お品書きには「南蛮」付いていたのかもだが、注文する側として、いちいち南蛮は付けなかった。
だいたい、カレーそばがなかったよな。
あったんだけど、カレーはうどんでしょ!、だったので、めったに頼まなかった。
そうなると、マルちゃんは「カレーうどん」で販売しているし、カレー南蛮うどんではなくカレーうどんとなんの疑問もなく注文するのっだったのだろう。
だいたい江戸っ子は気が短けぇ〜から、いちいち南蛮だのなんだの言ってらんね〜んだよ。
鴨そば、カレーうどん。
ネギが入っていよういまいがそんな細かいこと気にしてられねぇ!
って、江戸っ子でもないわたしは思うのだった。
で、コトバの響きの問題なのか、どうも、うどんの場合は「カレーうどん」がしっくりくる。
「カレー南蛮うどん」はどうも言いにくい。
あれ?これ前も書いた?同じこと?
ま、いいや😅
そばの場合は、「カレーそば」よりも「カレー南蛮そば」の方がしっくりくる。
もう少しいうと、「カレー南蛮、そばで」が一番しっくりくる。
「カレー南蛮、うどんで」は違うし、「カレー、うどんで」もだめ。
そんな感じだ。
たぶん、マルちゃんのカレーうどんもあるが、家でカレーを作った翌日とかにうどんに掛けて食べる際に「カレーうどん」と呼んでいたので、そこで慣らされた影響も大きいのだろう。
南蛮渡来のカレーに南蛮渡来のネギを入れてだからバリバリ南蛮だな。
カレー南蛮でなくて、南ばんバンにしてもいいんじゃね?
「南ばんバンうどん」に「南ばんバンそば」
南原バンバンバン、てのも昔あったなぁ。
どんどん話が見えなくなってきました、本日も。
では、カレー南蛮そばが出来上がって、眼の前に出てくる間に、今日の言葉から感じたことを頭に浮かべていたので、そのことを書いておこう。
無理やり、カレー南蛮そばきっかけで始めてみます、導入は、せっかくなので。
このカレー南蛮そばはどれだけの命が賭され、どれだけの人が育て、どれだけの人がその命を絶ち、加工し、運ばれ、作られ、わたしの口に運ばれたのだろう。
一食でもどれだけの命と思いと願いと苦労と手間がかけられているのかも量れない。
そんなことが毎日毎日繰り返され、何十年も繰り返されてきた。
食だけで考えても、「わたし」という人間の身体は、とんでもな量り知れない、わからないもんで出来上がっている。
わたし=身体ではない。
で、わたしの身体、でもない。
作られた身体。
で、この体の中で、どれだけの細胞や微生物が暮らしていることだろう。
それらの集合体が身体だとすると、宇宙のようなもんだ、身体は。
わたしというのは、対になるもの、相手がいてはじめて成立する。
個で成立することはない。
「わたし」という観念がそこにある瞬間、わたしでないものが出来上がる。
その、わたしでないものに対して初めて「わたし」が成り立つ。
ゆえに、わたしも「わたし」のものではなく、外から与えられたものだ。
だから、釈迦は「わたしは無い」といった。
でも、現実に「わたし」がある。
色即是空 空即是色
わたしの身体は、外からの飲食物と内にある細胞やら微生物やらなんやらかんやらで出来上がっていて、「わたし」という観念は外の対象物が作り上げたものである。
つまり、「わたし」は誰のものでもない。
もちろんわたしのものであろうはずがない。
だから、大事に扱わなければならない。
それは「あなた」も一緒だ。
「あなた」も「わたし」も実は同じなのだ。
「わたし」は細胞や微生物のものでもなければ「あなた」や外的対象物のものでもなければわたしのものでもない。
「わたし」もだが、一切のものは誰のものでもないし、一切のものはその関連性から考えれば同じくして存在し、同一であり、単独ではなく、「わたし」の大事でもある。
命は、「わたし」だけのものでもなく、「わたし」のものでもなく、だれのものでもなく、共にあることではじめて成立しているものであり、単独には成立しえないものである。
命は、この肉体でもなく、内臓でもなく、骨でも脳でもなく、意志でもなく、心でもない。
住民票でも、戸籍でもない。
命は一切の関わり、関連性、つまりは「縁」によってあるもの。
「縁」ってもんは、過去現在未来、一瞬たりとも途切れることなく繋がり、縦横無尽、連綿と繰り広げられ、一切の境界なく繋がっているもの。
良し悪しもないければ、吉凶もない。
意志もなく、図らいもなく、あるがままにあるもの。
その縁によって作り上げられた「わたし」は、誰が否定しようが肯定しようが関係なく、ましてや、「わたし」が勝手に否定できるわけもない。
天上天下唯我独尊
ここの立ち位置から見ると、どれだけ経済だとか政治だとか人間社会というものが歪んでいるかが見えてくる。
で、少しでも互いに他を(本当は「自」も「他」もないのだが)害さずに、「自」も害さずにあることができるかを試行錯誤しながら作っていくのが「社会」というもの。
ひとりでも悲しい涙を流す人がいたら、それは自分自身の涙である。
ひとりでも「死にたい」と思うような人がいるのであれば、それは自分の思いでもある。
ひとりでも差別を、人権侵害を感じる人がいるのであれば、わたしの差別であり、わたしのいるこの社会には人権というものが確立されていない。
ちなみに、人権は人権では確立できない。
人間の権利だけを見て、他の権利を見なければ、一切対等の見地に立たなければ、人権はありえない。
つまり、人権という言葉自体が差別をはらんでいる。
だから、わたしに言わせれば、一切の存在が対等、五分なんてとてもでもないけれどできないのだから、せめて人権くらいなんとかようや、そういうところだ。
だれのためでもない。
「わたし」が在ることが大事と思い思われる社会を作るための必須最低条件だ。