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根本悪

虐待の後ろには、

必ず理知があります。

人間であるからやるんです。

       祖父江文宏

日常のなんでもないとき
自分の人間性を疑いたくなることがよくある。

あたり前の生活をしていればこそ
気がつけるのかもしれない。
あたり前にそれをしてしまうから。

いま、昼食を摂りに街に出た。

昼食後、路地を歩いての帰路途中
わりと前方で車が右折して路地に入ってきた。

車一台は普通に通れるが、すれ違いはできないような細い道。
歩行者や自転車がいる場合は、相当気をつけて徐行するか、歩行者や自転車がすり抜けるまで停車して待つかしないような道。

歩行者はわたしだけ。
わたしの前方5メートルのところには、両サイドから車が侵入してきた場合ように、車が2台すれ違えるようの広くなった箇所がある。

前方の車は、障害物はわたしだけなので、あたり前にある程度のスピードで向かってくる。

よく、ここの道では、歩行者が避けろ!、とばかりに走ってくる車がいる。

こいつは?

敢えて道のど真ん中を歩き出す。

車同士のすれ違い用箇所の手間まで歩いて相手の出方を伺おうとすると、車はすでに最徐行で、こちらの歩を止めさせるようなことはしません、というような構え。

そこで気を善くしたわたしは、拡張された道の端に寄って立ち止まり、笑顔で(つもり)どうぞと目配せ。
運転をしていた方は、片手を上げ、ペコペコしながら通過していった。

で、再び歩きだして、
「性格、悪っ😓」と反省しながら戻ってきた。

相手が速度を落とさずに走っていたら、間違いなく、そのまま道のど真ん中を車の手前まで歩き寄っていったろうな。。。メンチ切りながら。

よろしくないなぁ。

これをあたり前にやってしまう。
道を譲ったにしても、その前には「わたしの正義」があり、それに見合う相手であれば道を譲り、見合わないようなら邪魔をするように進む。
その瞬間は思惑など一切ない。
一瞬で判断して!ってわけではない。
無意識にやっちゃっているのが性格の根本的悪さを物語っている。

ちなみに自分が車に乗っている場合はというと、免許を取るために通った教習所が、とてつもなく厳しかった。それも40年近く前だから、教えてもらいに行く、教えてやってる、
「教官!ドジでノロマな亀のわたしに運転を教えてください(T_T)」
って世界の頃の話だから、ハンパなく厳しく、おかげさまでそのあたりは仕込まれた。

「忘れんな!車に乗るってのは犯罪なんだ。だけど特別に運転させてやるっていうことだから免許ってもんがあって、必要なんだよ。道は歩行者のもんだ、覚えとけ!クラクションだの、どけ!だの、もってのほかだ。車の前で、人間様が疲れて座っていても、その方がどかれるまで一時間でも二時間でも待つってのが基本だ!」

「いいか!下手くそほど道を譲れねぇ。どこで停まっていいのかすらわからない下手。だから、道は基本譲るという気持で運転しろ。」

こんな感じで教えられて身に付いたから、その辺はワリとちゃんと出来てる風。

あ!この教えで救われたことがある。

免許をとって、車を買って、その翌日。
京都の山道をドライブしに行った。
細い道。
前から大きなセダンが。
窓は全面スモークのいかついベンツ。
今でこそ、ベンツはだれでも乗っているが、当時は医者か医者の娘かヤクザの車。
で全面スモークってことは、間違いなくヤクザ屋さん。
必死に端に寄って停まった。
するとベンツがパッシング。ウィンドウから手が出てそっちがコッチにこいということ。
確かにここではベンツは通れないかも。向こうの方が道が広い。
恐る恐る、車を前進させて、擦れ違・・・ウッ!
ガガガガガ!!!

コスッた。

ベンツにコスッた。

ヤクザのベンツにコスッた。

人生が終わった。
わたしの今後一生の生活は、こちらの方への謝罪の気持をお金という形で返すという一生になった(T_T)

当時の高級車には、ドア部分に100円ライター大の硬質のゴムでできた保護するものが付いていた。
それと、わたしの車が擦れた。
あちらはその硬質ゴムが少し擦れた感。
わたしの車は車体に綺麗に一直線の、まるでオシャレのためにわざといれたようなラインが。
だが、聞いている。どんな些細な傷、傷と言えないような傷でも
「こんなケチの付いた車に乗ってられっか!新車に変え!」
ってやられた人々の話。。。(T_T)

もうダメだ。。。

車を降りて、あちらも降りてきて、
運転席から、若い運転手系が、と思っていたら、高そうなスーツを着た方が。
運転手ではなくご自身で運転されていたのね。
襟には見事な金色のバッチ。
ともかく平謝り。
少しでも軽い刑で許してちょんまげ。。。

「アチャ〜!!!」
「す・す・すみません・・・。」
「いやいや、わぁ、おにいちゃん、ま、ちょいちょい、まぁあせるな」
「は、はい・・・」
「ありゃ〜。どうしよ?」
もうだめだ。。。
「これ、新車やろ?」
「???はい。」
「いつ買てん?」
「昨日きたばっかです」
「うわぁ〜、ごめんなぁ〜〜〜」
「?????」
「せっかくお兄ちゃんが一生懸命端に寄せて停まってくれたんだしワシが行けばよかったのに、コッチ来いなんてワシが言ったから。いやぁ。ホントにすまん。な、ちゃんと若葉マークも見ていたんよ。で、あまりに一生懸命寄せてくれているから、コッチのほうが広くていいぞって、おせっかいな気分になってな。なのになぁ、ほんま、すまん。どうしようか。いくらくらい掛かるかなぁ。これな、うちの自宅の電話だから、怖がらんと電話してきて大丈夫だからな。ここにかけて。分かるようにしとくからな、修理代と振込先、留守番しとるのに伝えといてくれるか」
「いえ、そ、そんな。コスッたのボクの方ですし。いえ、ほんと、自分で直しますから大丈夫です。それよりもそちらの・・・。」
「あぁ、こんなのゴムやし。このままでもいいし、嫌なら剥がしてペチって新しいの貼っつけたらいいだけや(笑)」
「それでしたら良かったです」
「ま、じゃ、これ以上ワシラみたいんと絡むのもいややろし。今日はお兄さんに甘えさせてもらうわ。お互い様ということで。でも、ほんと、気が変わったら言ってきてな。じゃ、ちょいいそぐしこれでな」

これで済んだ。

ま、こちらが譲らなくても、同じ結果だったかもしれないが、必死に端に寄せて道を譲ろうとしていたということで、先方はこちらに入口の時点で好意をもってもらえていたようで、そのおかげで会話も怖い思いせずに済んだ。

昨日今日と、まったく関係ない話が長すぎだな😅

人間の思惑、知識、理知は
素晴らしいものがある反面
とても危険でもある。

不要な暴力性を持つのは
人間ならではの理知があるからだ。

自分の秤でものごとを量り
善し悪しをつけ
価値をつけ
上下をつけ
手に入れるために暴力をふるう。
一喜一憂をし
気晴らしに暴力を振るう。
喜びたいがために暴力で片を付ける。

こんな生きものは人間だけだ。

人間であればこそなすのが
暴力であり、差別であり、虐待であり
殺人であり、戦争である。

知恵に疑いを持たなくなったらおしまいだ。

いつでもそうだ。
自分を
自分の立場を
自分の居場所、カテゴリを
誇って、そこに疑問を持たなくなった瞬間、そこには必ず欺瞞と差別からなる暴力性が付随する。
正義の暴走が始まる。

そんな事はわたしはしないだろう、と思いたいが、人間である以上かならずその種を所有している。

実際一生それを他に対して行使するがなかったとしても、それはたまたまそれを行使するような状況に置かれなかっただけであって、どんな立派な人間であろうが、優しかろうが、状況さえ整えば殺人ですら成し遂げる。

逆に言えば、例えばその種を人一倍多く持っていたとしても、状況がととなわなければ一生その種はどこかに保管されたまま、あることすらも忘れられる。

そしてその状況は、自分で作るのではなく、気がつくとそこにあるものだ。

人間であることを再確認しよう。
そして、よくよく気をつけて生きていくくらいしかできない。

再度、今日の昼食後の一件を反省。
自分のあまりにも人間性が出すぎた悪意を猛省。



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