見えない道
根 まど・みちお
ない
今が今 これらの草や木を
草として
木として
こんなに栄えさせてくれている
その肝心なものの姿が
どうして ないのだろう
と 気がつくこともできないほどに
あっけらかんと
こんなにして消えているのか
人間の視界からは
いつも肝心かなめなものが
意味づけしなければ、分からなければ、言葉にできなければ、存在を否定する。
自分に必要のないと決めたものの存在は否定する。
そんな傲慢が生み出すのは恐怖だけだ。
五感で感じ取れないものへの恐怖。
認めたくないだけ、自分にわからないものがあることを。
どうにもできない存在が、なんともしようがない現象を認めたくない。
そして、無理やり言葉をつけて、名前をつけて、形化して、あたかも見え、あたかも操作できると思いこむ。
できないよね、どうにも。
豪雨や震災や台風による災害が、新型コロナが教えてくれている。
お前ら傲慢なんだよ、って。
科学が解明できるのは見えるものだけ。
医療も。
心も。
見えないものがほとんど。
なんでも見えるようにして、感じられるようにして、意味づけすることで、人間は見えるものだけしか、感じられるものだけしか信用できなくなった。
だから、怖くてしようがない。
だって、基本、ほんとうのところはなにも見えてないんだから。
「根」が見えてない。
根が見えないってことは、何に関してもその表層しか、上辺だけしか見えていない。
ほんの一部も一部。
なにも分かっていないんだよね、いくら科学が進もうが医学が進もうが心理学が進もうが。
暗闇にいてなにも見えていないのに、「オレには見える!」ってホラを吹いている。
言えば言うほど、知らず識らずの内に恐怖は募る。
自分では成長して、なんでも分かるふうになっていると勘違いしていても、ある日突然、なにも見えていなかったことに気付かされる。
無知の知ってやつかな。
そこからが始まりなんだな。
そこから、闇路を歩いているという自覚を持って歩みだすことが大事。
そのとき、初めて自らの一歩が間違いなく大地を確認しているのに気づく事ができる。
ほんとうが少しだけ、見えないけれど、いっしょにある気ができる。
暗闇にあるという自覚が、なにも見えていないという自覚が、なぜか、少し安心をくれる。
「大丈夫だよ」
という声が聞こえてくる。