今、ワタシに奇跡が起きている
宇宙全体が協同しないと、この私は存在できないのです。
だからね、私が思っているような私も、その私の作り上げた世界も本当は無い。
お互いがお互いを必要として、つまり拠りあって存在していて、どこにも「ここからが私」なんて境界線は引けないんだ。
実は私の存在は、宇宙そのものである。
瓜生崇
今日は、朝から原稿というか、駄文を一本作った。
機関誌に掲載してもらう任せられた「エッセイ」というか、短い文章。
800字という文字制限で、最初に書き終えてみると、アレヤコレヤ書き散らかしたかったことを連ねていたら、2000字を軽く超えた。
ま、そんなものだろう。
それくらいは了解済み、想定内というやつだ。
なんせ、ここ「note」はじめてみて、結局は自分の言いたいことを適当にいうのに、わたしの場合は、ちゃんと整理しないで書き散らかすと、2000字は簡単に超えることが解った。
小学生や中学生のころ、原稿用紙に2枚とか3枚なんか書けとか言われたら、そんなに書けるか!となっていたが、5枚は簡単に書けるようにはなったということだ、内容とか、人様にお見せできるものとか、そうした事を気にせねばだが。
で、2000字を超えた文章を、ここいらねぇな、ここ足りんから軽く一言入れて、ここはまったくナンノコッチャわからなくさせるだけだし全カット、なんてことをして、ほぼぴったし800字に仕上げることができた。
やればできるじゃない ❣
と、褒めておいてやった、自分で。
毎日、ここに載せている文章も、こうやってつくればいいのだが、そうなるとおそらくカットしまくりで、必要なことだけにしたら、たぶん、「今日の言葉」載せて終わっちゃう気もする。
それだと、朝イチに写真と一緒に載せたのと一緒だし、改めて、ブログというか、文章として乗せる必要がなくなってしまう。
だし、これはこれで、書き散らかし、言い散らかしのままで善しとする。
そういやぁ、大学の卒論、原稿用紙50枚のところ、20枚書いて、そこからあと30枚を無理やり増やすので苦労したよなぁ。
皆様、100枚、200枚書いて、それを50枚以内にするのに苦労する中、あたしゃ、増やすのに苦労したわけだ。
内容薄いはずだぜ😁
削って、いいものを作るというのは知らないわけではなかったのよ、当時も。
だって、ほら、一応は役者目指していたから、映画なんて何百時間と撮りまくって、それを2時間弱に削る作業が一番大事ってのも聞いたことあったし、自分でも演出しながら、いらない箇所を削ったり、たまに足したり、役者のいらない間を削ったりで、ようやく見せられるものができる、ってのはしっていたのよ。
でも、100枚どころか、20枚ですらすんげぇ頑張らないと書けなかったヤローには、それを倍以上にするのがどんだけ大変だったか。
結論は最初に出ちゃってたのですよ。
はからずも「今日の言葉」と同じこと。
で、それをどうやってタイトルと結びつけるかに19枚くらい掛けて適当に言い訳して、後の30枚は、そう言えばこんなふうにも、ああいえばこうだし、だからどうした、みたく無理くりノリツッコミのような文章で肉付けした。
今から考えれば、よくまぁあんなんで通ったもんだぜ、ってしろもんだった。
ま、最近になって、言いたかったことは別段そんなに間違ってなかったじゃん!口頭試問でボロカス責められたけど、そんなこと誰も言っておらんし、親鸞は言ってない!とか。
いや、でも、そのままは言ってないけど、そういうことは奥の奥で、行間から感じるのよ、なんて言えるほどのものもなかったし、そこまで勉強も全くしていなかったし、第一そんな事言う知恵すらなかったので、「エヘヘへへ、ダメっすか?」でごまかして終えた口頭試問。
タイトルが「真宗の人間像」。
ま、浄土真宗というか、親鸞を通して人間とは何かを問う、そんなことを書けばいいのだったのだが、宇宙のこと書いちゃったし、親鸞の著書や偉いその道のセンセの著書をほとんど参考にしないで、ホーキングの宇宙論参考にしちゃったから、そりゃ、めちゃくちゃ。
だって、ホーキングの宇宙論なんて、いよいよぶっ飛んでて理解できないのに、そこから適当に都合の良さげなコトバ引っ張って、それを自分の勝手な屁理屈にくっつけただけだしね、教授もびっくりでしょ。
ただ、何かしら、おりおりに、そんなタイトルの卒論書かせてもらったお陰で、「真宗の」というのは外して、「人間」といもの、ほんとうのところ人間ってなんだ?、ということは考えさせられる。
これは、芝居やっていたころも、事務員やっていたころも。
そんなこんなで、今日の言葉は、コトバの上辺はそれこそ自分の書いた卒論を上手に無駄なく端的に言い当てているのでわかるのだけど、深層、深淵、ではなんなんだ?といところは未だに解っていないので、改めてわかんねぇコトバだなぁと思わされている。
コトバって、難しい。
宇宙というといかにも壮大で、雄大で、深淵で、謎めいていて、素晴らしいものに感じてしまうが、ポジティブな感じになりがちだが、そんなとこだけを受け止めて、わたしはすばらし〜!ポジティブ〜!みんな尊く幸せ〜!ってなったら、ただの能天気でしかないもんな。
そう、それくらい尊いのだけど、そうなっていないよね現実。
まったく大事にしていないよね現在。
自分を持ち物でしか評価していないよね、自分自身。
そこを感じなきゃダメなんだろうな。
わたしがいまココにあることがビッグバン以来の一番の奇跡。
その軌跡はビッグバン以来の歴史と、全ての関わりが作り出したものであり、わたしが創り出したものではない。
で、その奇跡は刻々と積み重ねられている。
隣の人も奇跡。
嫌いなアイツも奇跡。
にくいアンチクショーも奇跡。
認められないあのヤローも奇跡。
ミミズもオケラもアメンボも奇跡。
山川草木も奇跡。
奇跡でないものはない。
奇跡をぞんざいに扱ってやしないかい?