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両親に伝えなければならない事~私の使命~




その後、両親に会いに行く事を考えて、行って私はどうするのだろう?と考えました。
会っていなかった期間が長過ぎる事を考えると、どんなふうな空気感で会えるのか、解りませんでした。
お互いの心理的負担があるかもしれないと考えると、無理なく短時間の滞在でと思いました。そして、準備しなければ、たぶん、久しぶりに会えて良かったね...という場になるだけで、話し伝える事が不得手な者達同士、結局伝えたい事を何も伝えられないまま私は帰宅する、という事になると考えました。
私が伝えたい事は、書いて持って行こうと思いました。三度目の正直で手紙を書く事にしました。会いに行く、という気持ちが決まった後は、手紙を書く事へのハードルは無くなっていました。

何をどんなふうに書き伝えるかを、毎日毎晩考えました。両親の事を考えて、相手の信条、信仰、生き方、人格、性格等を尊重しながら、自分の事も、私自身の尊厳も大切にして伝えるという事をよく考え、時間を掛けたいと思いました。
下書きをしてから少しずつ便箋に書きました。書いている途中で、色々な事に気づき直しました。
気づいたら、その瞬間に気持ちが変化する為に、気づいたその瞬間とその後の気持ちを大事にしようと思いました。
私はもう心が何にも囚われないように、という事を意識していました。それは、もう心が過去にも囚われないように...、という事だと思いました。
過去に抱いた過去の気持ちではなく、今の、この時この瞬間の気持ちに正直になる。そう思い、何度も書き直しを繰り返しました。


1番伝えたい事、伝えなければならない事に繋がる事は、私達は機能不全家族だった、という事でした。

父親、母親、そして私も(妹も)、全員が機能不全家族の一員でした。
父親、母親はそれぞれが育った家族で世代間連鎖していた機能不全家族の一員。
私はそういう両親からの育て方の影響を受けた機能不全家族の一員でした。
人は誰もが自分が育った家族しか、知りません。だから自分の家族が機能不全家族だとしても、気づかずに、自分が受けた躾や育て方、子供との関わり方を、無意識に、当たり前に、疑問を感じずに、時には良かれと思ってしてしまう。
両親は、自分達が育った家族環境等の影響で、自分達の子育ての仕方の偏りに気がつかなかった。
私が経験してしまった事は、私の人生に、大きな影響を与えましたが、その原因は、両親双方の家族に代々伝わっていた機能不全家族の連鎖によるものだったという事です。
つまり、私が経験してしまった生きづらさは、両親の責任では無かった、という、この事を、伝えよう、伝えなければと思いました。

そして、それと、
機能不全家族であるが故に愛情の表現に偏りがある中でも、両親が私を愛してくれていた(愛する気持ちが心には確かにあった)ように、父親、母親のそれぞれの両親(私から見たら各祖父母)も、同じように、父親、母親を愛していた。両親は確かにその両親に愛されていた、という事を、伝えなければ、と思いました。
親子の間に本来確かにある愛情が、機能不全家族の連鎖によって歪みや偏りのある愛情表現になる事。それが、子供には、自分は親から愛されていない、愛されなかった、大事にされなかったという思い込みになり、生きづらさになる事。
思い込みに気づき取り払えば、親の心からの愛情に気づける事。
機能不全家族にも、揺るぎない、確かな親子の愛情が連鎖している事。両親はもしかしたら既にもう、とっくにその事に気づいているのかもしれないと思いましたが、そして私はうまく伝えられるか、解りませんでしたが、その事を、伝えたいと思いました。

そして、そう考えたその時、不意に、今年の春5月頃の向き合いの途中に、大おばから私に向かって、ご両親を癒してあげて、と言われた気がした事を思い出しました。(note記事 両親を癒してとの大おばの声)
あっ... ...と思いました。そうだ、私、両親を癒してと、言われていた...、そう思いました。
急に、あの出来事のその言葉は、今の私に向けて言われた言葉なのではないか、と思いました。頭の中にあの時のおばの声が思い出され、そうとしか、思えなくなってしまいました。
もしかしたら、やはり両親は、昔の当時の事を気に病んでいるのかもしれない。私は、早く行かないといけないのでは...と、焦る気持ちになりました。
もう躊躇いは全く無くなり、むしろ早く手紙を書き終えて、実家へ行かなければ、と思いました。以前、母親の言葉の後ろに見え隠れを感じた父親の影を気にする、そんな場合では無くなりました。
もう何も全く気にならない、それより本当に早く行って両親に会わねばと。
私の手紙と、気持ちを伝える事は、本当に両親の心の癒しに繋がるのかもしれない、きっと繋がっていく気がする、だから行こう、という気持ちになりました。


勝手な飛躍した思考で、自己満足かもしれない。両親は癒しとかそんな事必要としてないかもしれない、全く何も気にしていないかもしれない...そうも思いました。
理想的で独善的、私は時々こういう一面があると、自覚もありました。興味があり、自分をより深く知る為のツールの1つとして少し触れていた星読み、天体同士のアスペクトでも私はそういう傾向がありました。
意識が宇宙へ向くと、今度は私は生まれる前に自分でこんなふうに人生のシナリオを書いたんじゃないだろうか...と思いました。
もしも、そうで、両親を癒す事も私の人生のストーリーにして来ているのなら、本当に伝えなければと、どちらにしても早く伝えようと思いました。
代々続く家族の世代間の連鎖がカルマなのなら気づき伝えて解消する事と、両親の気持ちを癒す事と、両親はそれぞれの親に愛されていたという事を伝える事。その事は、私自身が両親を愛していて、愛されていたという事に気づいたから連鎖してわかったという事、を伝える事。私の使命だと思いました。


私の幼少期や学生時代はドラマのようだと思った事がありましたが、ドラマはまだ続いてる。私が書いた脚本は、ドラマチックな展開だったみたい、と思いました。
両親を想い手紙を書く、というシーンも。実家へ向かうワンシーン。帰る車内のワンシーンも。カットが掛かるまで、しっかり演じなければ。
私は、私という、私の人生の主役を演じよう、行こう。今回は、必ず行って帰ろう、と思いました。逸る気持ちを抑えて、自分で自分に、落ち着くようにと、言い聞かせました。
早く行かなくては、という事が、もしも私の勘違いであったなら、それならその方が良いのだし、とりあえず行こう。
実家への距離は先日程までには遠く感じなくなっていました。遅くなってごめんねと、両親に手紙を渡す私を思い描きました。


こんなふうに考えている自分に、私はもう本当に両親を愛しているじゃないかと、自覚しました。
そもそも愛してる。たぶんきっと産まれた時から大好きで、ずっと愛してたんだ。もう愛は恨みをも消すんだ、と、そう思いました。
私が、私だけが、一方的にこんな気持ちで、両親はそんなに想ってくれていない、もしかしてそれでも、そんな事いい、どうでもいい、もう関係ないと思いました。
もしもその状態なら、両親はまだ機能不全家族故の偏りのある愛情とその表現が真実だと思い込んでいるだけ。
もう、私は愛されていたし、愛されている、そう確かに信じられていて、気持ちに揺らぎはありませんでした。私自身が確かに両親を愛していて、そんな自分を信じられていました。
愛しか勝たん状態になっていました。
ずっとずっと、私は、親から愛されていないと思って、思い込んで生きてきました。でも、本当は、愛されていた。それがニュートラルな状態。
機能不全家族で育ったフィルターで、思い込みで、受け取り方の癖で、私は見えなかった。ずっとずっと気づかず、苦しかった。生きづらかった。
心の1番奥の深い所にあった、両親の事を、私自身が愛する気持ちに深く気づいたら、両親から、私は愛されていた、その事に気づきました。
それは、個々人によって状況環境は千差万別だとしても、きっと誰もみんながそう、と、間違っていないと思いました。生きづらさが溶けて消えていき、幸せだと思いました。


実家へ向かう日、目眩も起きず、準備を行えました。気持ちを平常にと、自分に言い聞かせて、ゆっくり焦らずに行こうと思いました。こうして色々な事に気づけてきて、今日こうして動いて向かえる事、深呼吸して、たくさんの支えや導きに感謝して、出発しました。



帰り道/OAU
カノン(ピアノ)/パッヘルベル



お読み頂き、ありがとうございました。





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