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私の過去⑰~無条件の愛・ラスボス的観念~【追記あり】




【2024.2.5 、7.21 追記しました】


愛を学ぶため ... ... ??
もしかして...
その愛はもうずっとそこにあったもの... ...?
ずっとそこにあったのに、忘れきっていたもの... ...?
もしかして...
その愛を思い出すため ... ...??
忘れていた愛を思い出すため、
そのための長い長い今までだったの ... ... ??
そう思いました。


私は、愛を知らなかったのかもしれません...
もしかして、育つ過程の体験で、愛を認識出来なくなってしまったのかもしれません。
そして、愛というものを忘れてしまっていたのかもしれません。...

きっと愛は、生まれつき、誰もが持っているもの。
私は、その愛を学ぶために、
その愛を、もう一度認識出来るようになるために、
その愛を、もう一度思い出すために、
そしてその愛はもうずっと自分の中にあったのなら、
その事も思い出すために、
そのための、
私が自分で決めてきた人生のシナリオだった...?
そのための、長い長い今までの体験だったのかもしれない...。
そう思いました。
そして、私の人生に、出演してくれたキャスト全員が、それぞれ1人1人全員が熱演して、役割を務めてくれた(くれている)...。
私が愛を学ぶために、愛を思い出すために、...
もしもそうだとしたら、...感謝しかない...。
そう思いました。
両親は、私が書いて来たシナリオに、嫌われ役的な役柄で出演してくれたのだろうか... ... 。そう思いました。



今はまず、自分自身を無条件に愛してみよう...、
なかなか慣れないのですが、そう思って、過ごしています。
ただ、そうしていると、自分自身の感情を更によく観察出来るようになって、自分自身のより深い部分の感情に気づく事が出来るようになってきました。

そして、まだ向き合いは続いていて、先日
再び、自分自身に問いかける事になりました。


私は、過去の今までのすべてを水に流して、両親に会いに行けたら、もしかして1番いいのかもしれない... ...会いに行けたらいいのだろうに... ...
でも、今現在まだ私は、そうする事が出来ずにいる...そうする事は、とても心に無理をしての行動になるから...
と、そう思っていて、
...そう思っているという事は...、

私の心の奥の奥に...まだ何かある...と感じました。
ラスボス的な何かがあるように感じました。
ここ最近感じていた、気づきたいけど気づくのが怖いような、見ようとして怖くて見ないような、そんな感覚、それだと思いました。
もう、ここまで自分自身に向き合ってきました。
ついに、たぶん最後と思われる、ラスボスに向き合うしかない、と思いました。
なんだろう、この何か...、この何か... ...
まだ、私の心の中にあって、モヤモヤさせたり、
心を苦しくさせている感情...
私がよく聞いている、ソウルリーダーさんの話し
(YouTube │ Azusa.Kさん おしゃべるチャンネル)
を何回も聞いて参考にしました。
私が、本当に手放すべきものとは...?
私が、手放すべき観念とは...?  ...と、
自分自身に問いました。
私が手放したら1番心が解放されるもの...
もしかしたら目の前にあって、目の前にあり過ぎて、大き過ぎて見えていないもの...そういう観念...


そこで、はっ 、としました。
あっ ... ... 、となりました。
あっ ... ... 、えーー~ ... ... ... えーーー??
... ... そういう事なの... ... ... ?? ... と。
長年、ずっと自分を苦しめていたもの...
それは、世の中の、一般常識的な観念でした。
私が幼い頃から家族、親戚、ご近所の人から、普通に当たり前に言われていた記憶があります。
そしてその後、
私が勝手に思い描き、
私が勝手に作り出したもの。
私が勝手に思い込んでいたものでした。
私の場合は、
" 子供は親に会いに行くべき "
" 長女(私)だから実家を継ぐべき " そういうような観念です。
子供は親の言う事を聞くのが1番良いとか、
反抗して家を出ても、時々会いに行くべきとか、
子供は親を赦すべきとか、
子供は実家を継いで守るべきとか、
それが世間的に普通で、世間の常識的に1番良いと言われている、みたいな、これだ、と思いました。
その一般常識を、普通の事、当たり前の良い事だと思い込み、それが出来ないから、行えないから悪いと思い込み、内心辛く感じ、勝手に苦しい苦しいと自分をぎゅうぎゅう縛っていた...。
その勝手な思い込みをして、ずっと苦しい苦しいと言っていたのは、私のエゴでした...。
今そう出来ない現実的な理由も状況も実際にあるのに、あるのにも関わらず、
その思い込みは私の中にずっと静かに居座り続け、気持ちの奥の奥に隠れていました。
隠れていながらも、
あまりにも当たり前にあり過ぎて、気づきたくても気づけなかった事だった...、と思いました。
本当に、そういう事か... ... と思いました。
きっと、この事に、この事まで、自分で、自分自身で、たどり着く事、気づく事が必要だったんだと思います。

世間的に一般常識で普通と言われる事、
これが、私の場合は、私の中にあったラスボスでした。
気づきました。
気づいたから、手放していけそうな...気がしています。
そこでした...。
自己中心的かもしれません。
行き着いた所が、ここ... ... ??と、
え??これ??  と、自分でも最初感じました。
でも、ここ、ここでした。
ここに気づく事、
私はここに到達するべく、
最近の感覚、怖いけど...もう少し、...あともう少し...という感覚があったんだと思いました。


例え、子供が親の言う事を聞かなくても、
反抗しても、家を出ても、会い行かなくても、
親を赦せても、赦せなくても...
実家を守っても、守らなくても、いい...
どちらがいいとか、悪いとかも、ない...
とにかく、ニュートラルでいい...
ゼロで、いい...
生きたいように、生きていい...


そしてその先に、本当に逆説的ですが、
両親に何かあれば、
私はその時はすぐに会いに行くと思います。
出来る範囲の、出来る限りの行動をすると思います。
無条件の愛はそこにあるんだと思います...
無条件の愛は最初からそこにあったんです...
無条件の愛は、やっぱり誰もがもともとから自分の中に持っているものだった...
消えてなくならないものだった...
私の中の無条件の愛も消えてなくなってはいなかった...
ただ、わからなくなってしまってた...
忘れてしまっていたようです...
忘れていた愛を...、これから、少しずつ、思い出していけるのでは...と思います。


2023.3.5(日)の早朝  
カフェインレスのホットコーヒーを飲みながら、
天候は晴れ 、山の稜線が綺麗に見えます。
私が大好きな山のシルエットです。
ソウルリーダー Azusa.Kさん、大きなヒントになる話しを、本当にありがとうございました。
友人、大事な気づきに繋がる言葉を、本当にありがとうございました。
本当に、気づきをもらえ助けてもらいました。
今日の日の出は6:30
太陽が山の影からもうすぐ見えます。

... ... ... あぁ ... ... ... 苦しかった ... ... ... ...
もう、いい、これで ... と思いました。
私が、最後に気づいて手放すもの、
私の場合は、
私は両親に会いに行くべき、実家を見るべきという思い込み、観念、既成概念でした。



私は今、気づいたばかりです...。
短期間で集中的に取り組んだ、自分の過去との向き合いも、現時点で一旦棚上げしておこうと思います。
もしも、両親と会う必要があるのなら、
実家に赴く必要があるのなら、
それは今後、きっと自然な流れで、
自然なタイミングで、やってくると思います。
そして私の人生はたぶん、今後も気づきを続けながら、少しずつ変化しながら、まだしばらくは、続いていきそうに思います。
これからの人生、私は、どんなふうにシナリオ立てて来たんだろう...と思います。
先の事は、知らないほうが、わからないほうが楽しみかもしれません。
私は、自分自身を大切に、無条件に愛して、まわりの人を大切に、1日1日過ごしていくだけ... そう思います。
そうしていると、きっと、
全て、然るべき事が、然るべきタイミングで起こるんだろうな...と、そう思います。
その時私は、自分の心に、気持ちに、素直に従いたいと思っています。



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【継ぐ事。実家やその家業を継いでいらっしゃる方を本心で尊敬します。いろんな想いを経て、そうするとご自身で決めて、受け継ぎ生きていらっしゃるのかもしれない。それは素直に、本当に、凄い事だと思います。(継ぐ事・継がない事が、単純によい・わるいという事ではなく、それにひと言では語れないですよね。)

私も長女で責任感は強いほうでした。
だから誰かから正式に言われた訳でもないのに、親戚やまわりの大人の人が言っていた言葉を聞いたり、空気を察知して、いつの頃からか私は実家を継ぐ者だという気持ちになりました。
それが私の場合は思い込みになっていました。

世間的一般論でそうする事が普通、そうする事が当たり前でよいと言われている事。
既成概念、固定観念、そういう事の延長の捉え方をしていました。
そしてその捉え方に遊び(余裕、ゆとり、別の視点など)が持てなかった状態でした。
実際に自分の進路を考えた時、私は、両親とあまりにも信じる物事が違い、同じ場所で一緒に住む事は難しいと当時思いました。実家を出るしかないと判断しました。

長い年月、罪悪感を持つ事になりました。
今考えたら、冷静に見て、実家を継ぐという事は両親と違う信仰・生き方を選んだ時点で、その時の私には無理な事でした。
既成概念、固定観念とは異なる現実だったのですが、それは私が1人で罪悪感を抱かなくてもよい事でした。
既成概念はあくまでも概念。固定観念はあくまでも観念。それに添って生きる人もいれば、添わずに生きる人もいて、そのどちらでもいい。1人1人が自由に選んでいい事。生きたいように生きればそれでいい。その事に気づきました。

内心実家を継いで守ってほしいと思っていただろう親戚の叔祖父には、怖がらずにきちんと会って、経緯や自分の気持ちを話せばよい事だったと、今はわかるようになりました。
それが18歳の私には本当に全くわかりませんでした。誰にも相談出来ず、その後大人になっていく時もわかりませんでした。

ただただ苦しみました。私の中に、作ってしまった思い込みがあったからでした。
思い込みを作った自分が悪いという事ではありません。作らされたからまわりが悪いという事でもありません。誰も悪くないんです。
育成環境+私の気質や特性によって強く思い込みをしてしまっていた、そういう事実があったという事でした。
その思い込みがあった為に、年々苦しく生きづらくなってしまいました。

だからその間違った自分の思い込みに気づいて、捉え直す事。
有り難い事にそういう機会を持つきっかけを頂いて、向き合う事が出来ました。
記事本編で、自分との向き合いは一旦棚上げと書いていましたが、心は動き、自動的な感じで、自然な感じで、この後も継続していきました。
捉え方を、偏りなく正しく捉え直し、長年の思い込みを書き換える事で、玉ねぎの皮を1枚1枚めくるかのように、繰り返しそうしていく事で、私はだんだん心が楽になっていきました。
導かれて(と書くと怪しく捉えられてしまいそうですが、本当にそのように感じる程に)、本当に不思議で貴重な体験をしました。


実家の祖父母とは違う信仰・生き方を選んだ私の父親と母親。そしてその父親母親とは違う信仰・生き方を選んだ私。
それぞれ、自由に、自分の生きたい生き方を選んだという事。今は、どちらも、それでよかったんだと思います。
父親も、母親も、妹も、私も、選んだ生き方は、たまたま少数派。マイノリティだったかもしれない。そう見えるかもしれない。
でも、その生き方自体にも、各々の存在にも、各々の生き方にも、本当に、それぞれ、何の正誤も善悪も優劣もなかった。
上下も勝ち負けもないし、真偽もなかった。
それぞれ個々にとって、それぞれの真実があるだけでした。
それぞれ平等に尊重される、それぞれの物語があるだけでした。(2024.7.21再追記)



受け継ぎ方もいろいろでした。父親は実家から出なかったという意味で、場所は受け継ぎましたが、(お墓や仏壇など)先祖代々伝わる物事や精神的な物事は受け継がなかった。
私は、実家から出て場所は受け継がなかったけれど、ご先祖さまから繋がる命のバトンの有り難みや大切さには気づき、時々お墓参りに行ったり、日々感謝して生きる精神は受け継いでいます。

そして両親と私、信仰の対象は異なっても、大きな存在に対して感謝して生きるという生き方は似ている部分もあると、共通しているところもあると。それは、どちらも同じように大切にしなければいけない事だと、今は気づきました。2024.2.5 追記】



最後までお読み頂き、ありがとうございました。





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