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私は私を生きていい~父親からの呪縛が解けた日~



私の内側の感覚のイメージですが、自分の真ん中にニュートラルな自分がいて、左右のどちらか片方が他人軸側、もう片方、反対側が自分軸側。
真ん中、ニュートラルな自分から、どちらかに偏り、傾いた状態が、エゴに傾いた状態(の自分)。
私はずっと、生育過程にて肯定される事がなく、否定される環境で過ごし、'自分'という物がわからずに育ちました。
'自分'という物が無く、'自分'が無いから'自分'を自分で認められず、他人に承認を求めて、他人のため、誰かのためという行動基準、気付かずに、自分にとってごく普通に、他人軸で生きていました。

他人軸のエゴは、先日の、両親や妹を助けたい、と思ってしまった、'自分がなんとかしないといけない'、という思いでした。
この気持ちがエゴだという事に気づいて、気づいた後は、自分がなんとかしなくていい、無理になんとかする物ではない、本人達の自由、と理解出来て、そのエゴの気持ちは、その後、見返りや結果を求めない無条件の愛、の気持ちになりました。


その後...、自分の中で、偏りを感じました。
もう片方、反対側の自分軸側にもう1つエゴが存在しているのでは...と思いました。
自分軸のエゴ...。
私は、他人軸で生きてきてしまったため、自分軸という事が、よくわかりませんでした。
自分軸という物に、気持ちを重ねてみたいと思い、私のまわりで、1番自分軸が強い人の事を考えました。父親の事を考えました。
父親は、やはり今もなお、私にネガティブな感情を感じさせる人物でした。
私は、なぜ、父親にそういう感情を感じるのか...、
自分の内面に訊ねていきました。


...なぜ父親にネガティブな気持ちを感じるのか...。
高圧的だから。威圧的だから。
人の話しを聞かないで、何も解ってくれないから。何も解ろうとしてくれないから。
自分の価値観を押し付けて制限をかけ、物事の考え方捉え方すべてを押し付けてくるから。

だから嫌だ。
そう... 、私は父親に対してそう思っている。
そういう父親は嫌だと感じる、私。
父親は、自分の考え、捉え方、価値観ばかりが正しいと思い、自分の信念を最優先して、他人の事、特に自分と同じ宗教以外の人の事を否定して、理解しようとしない。そして理解しない。だから嫌だ。
私は父親をそう捉えている。
という事は、
私は、父親に否定せずに理解してほしい、私の事を理解しようとしてほしい、と思っている。...

私は本心は、父親に、否定しないで、理解してほしい、理解しようとしてほしい、理解してもらいたいと思っている、という事でした。


これが本当の気持ちで、それが叶わないから、私は自分の思うように、父親に理解してもらえるように、 'なんとかしよう'  'なんとかしなければ' という思い。
ずっと、この気持ちを持っていた、と思いました。
'自分の思うように、理解してもらえるようにしよう'、これが、自分軸のエゴだ、と思いました。


他人軸側での事を参考にしました。
他人軸側のエゴを手放した時と同じように、自分軸側でも、エゴを手放すには...と考えました。
相手を、自分の思うように、コントロールしたいという欲を手放す。... と考えて、

私が、ずっと、思っていた事、を手放すという事は、...自分の思うように、理解してもらえなくてもいい...と思う、...事。
...だから、

... はっ ... としました。


「理解してもらおうとしなくてもよかったんだ」
「理解してもらおうと思わなくてよかったんだ」

そう思いました。

あ... 、私... 、そのままでいいんだ... ...!
私、ありのままでいいんだ... ...!
父親に、理解してもらおうとしなくていいんだ... ...
父親に、理解してもらおうと思わなくてもいいんだ... ...と思いました。
(理解してもらおうとしなくていい
理解してもらおうと思わなくていい
≠  理解してもらわなくてもいい)


そうか... ... そうだったんだ... ...と、思わず涙が込み上げてきました。


あぁ、そうかぁ... ... と、...
気づいたその瞬間に、まるで自分に掛かっていた呪いが解けたような感覚がしました。
魔法みたいに、それまで自分を縛っていた物がハラハラ解け落ちて、自分を取り囲み固めて制限していた型枠が、その一瞬に自分から外れて砕け散ったようでした。その映像が脳裏に写し出され...、衝撃でした。...


私は、私そのままでいい。
私は、私ありのままでいい。
私は、私を、生きていい...、
私は、自分を生きていい... とは、そういう事なんだ... と、そう思いました。
私は、もう、自由に、私を生きていい。
自分の思うように、ありのままの私で生きていい...、という事だと思いました。自分に対する、無条件の愛、だと思いました。


そのままでいい、ありのままでいい、と、今まで何回も書いてきました。
でも、本当にそうだと、本当にそういう事だったんだと、本当にわかって、腑に落ちて、書いているのは、今、かもしれません。


「(私が私以外の何かについて)なんとかしよう、
(私が私以外の物事に対して)なんとかしなければ、と思わなくてよかったんだ」
(〜しようとしなくていい
〜しようと思わなくていい   という事)

やっとわかった、と、いう事も、何回も書いてるような気がします。
それにいつも、本当に、当たり前の事を言っている...と思います。
でも、その当たり前の事に、本当の意味で気づいたこの事は、私にとっては、自分の人生が覆る程の衝撃を受け、意味のある気づきでした。
私は、今日(2023.6.3)、父親からの呪縛が解けた...、と思いました。


父親からの体罰と宗教教義による数々の制限で、心身を縛られて育ってしまい、そして父親から離れた後は、自分が身に着けてしまった間違った思い込みで、自分で自分の心身を縛って生きてきてしまいました。
自分と向き合いをした事で、幼い頃から溜め込んできてしまった未消化の感情に気づいて、感情を感じて、外へ吐き出しました。
私は、涙や言葉と共に、自分の内側から外へ出す事で、私はその都度気持ちがすっきりとし、自分を浄化しているような感覚でした。(自分に合うやり方は各個人差があるかもしれません。)
大きな浄化をした、大きな感情を感じきり乗り越えた、と感じる度に、これが最後かな?、これで終わったかな? と思いました。でも、その先、またその先、その次、の向き合いがありました。辛抱強さと根気が要りました。大変でも、もう途中で諦めたくないという思いがありました。もしも、これから先もあるのなら、また、向き合うしかないと思っています。


自分の思うように生きていい、という事は、
誰かに、~してもいい?と聞かないで、自分で~したいと思ったら、そのようにやってみてもいい、という事。
私は、父親に、~してもいい?と聞いた時、ことごとく、~したらダメだ。と言われて育ちました。
もしかしたら、私は好奇心が旺盛な子供だったのかもしれません。両親に迷惑をかける程に、~したい、と自分本位に言っていたのだろうか?とも思います。
まわりの人の事を考えずに、自分の希望だけを、すべてをどうしても叶えたいという気持ちは、我儘だと思います。
でも、特に子供の頃、成長期に、~してみたい、~をやってみたい、という素直で純粋な気持ちを抱いて、希望する事は、1人の人として認められ、肯定され、成長していく上でとても大事な事なんだと思います。
可能な限り、その気持ちと希望は大事に尊重されて、認められ、肯定されて、子供達の可能性を伸ばす事に繋がり、まわりから応援されるべき物だと思います。


自分の見たい物を見て、聞きたい事を聞いて、読みたい物を読む事。やりたい何かに挑戦してみる事、行きたい場所へ行ってみる事、話したい人と話す事、自分の好きな事をするために自分の時間を使う事。
心身が何にも縛られたり制限される事なく、自分のただ思うように、過ごしたいように、自由に過ごす事、それは、生きていて当たり前にしてもいい事...、でした。
それらが、ずっと、よくわかりませんでした。
仕方のない事ですが、自分の力ではどうする事も出来ずに抑圧されて育ってしまった代償は、とても、大きなものだった、と、改めて感じました。
どうしようもなく泣けてきました。
父親にも理由がありました。父親なりの愛情でした。でも、それは間違った形の歪んだ愛情で、私や妹にとっては、簡単に解けない罪深い呪縛となりました。父親をそうさせてしまった宗教教義への疑問も拭えない。
人生の途中から宗教団体に入信し、自分の子供達にそういう行いをするという父親の人生の設定。そういう父親の元に産まれるという、私の人生の設定。それらの意味は何なのだろう...。
今までの自分の人生に寄り添い悲しんでしまう気持ちと、父親と私の因果を思い、泣きました。


とても、不器用な進み方だったのかもしれませんが、どうしても思考から辿っていくしかなく、私は、この経緯を辿って来る事しか出来ませんでした。
気づきが不足してる所や、抜け落ちている所や、うまく言語化が出来てない所があるかもしれません。
私は長年ニュートラルな自分ではなく、片方の軸側に偏って生きていたために、敢えてもう片方の軸側の捉え方も、考えなければならなかったのだろうと思います。
そして、辿って来る上で、気づいた事は、現実的に、私を1人の人として肯定して存在を認めて接してくれていた、今の家族、ペットの猫、義父母、職場の人達、友人達の存在は大きな支えになったという事でした。私は、1人じゃなかった...と、感謝の気持ちを感じました。
普段、当たり前に在る事に、なかなか気づかないで過ごしてしまいがちですし、私もずっと見えずに、気づかず、わからないで過ごしていましたが、きっと誰も、身近に、今、関わってくれている人達や動物の愛情がすぐ傍にあるのかもしれない...と思います。
参考にならないかもしれませんが、この記録が、どなたかの何かに僅かでも参考になれば、心から幸いに思います。


自分を縛っていた物が解け、自分を制限していた型枠が外れた今、心身が軽くなりました。
ただ自分の心身には、例えるなら長い間縛っていた物の痕、型枠の痕跡や、筋肉のこわばりや、動きにくさが、まだまだ残っているような状態なんだと思います。
痕が付いた部分を自分でさすって、撫でて、血を巡らせて、痛みをとって、時間を掛けて少しずつ、その痕が薄くなり、消えていくようにしようと思います。
そして、これから、私は私を生きていこう、と思います。
私はもう、人生の平均寿命の半分以上、過ぎてしまいましたが、今からでも、自分のやりたい事に挑戦する事は出来るかも、と思いました。
少し前は、年齢等を気にしていましたが、誰でも、幾つになってからでも、どんな状況でも、何かをやってみようとする事に、遅いという事はない...と思いました。
そしてそれは、きっと、自分のために生きて、その結果、誰かのために生きる、という事に繋がる事になる...と思います。
近いか遠いかいつか必ず訪れる、私がこの命を全うし終えるその時に、いろいろあったけど、私なりに幸せな人生だった...。ハッピーエンド。と言えたらいいな、と思います。





Perfect/Ed Sheeran





最後までお読み頂き、ありがとうございました。







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