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気づきまでの思考と感情に沿う②~幻想から現実へ~



まわりの人に感謝して、私もまわりの人に優しく、愛と感謝を巡らせながら生きよう、と思いました。
思考は続きました。

よーし、今までの、両親に対して嘆く、慣れた生き方から、もう、変えていこう、と思いました。
慣れた生き方... 慣れた生き方...  。
思考が自然と進みました。
私にとって、慣れた生き方とは、過去からずっと続けてきた生き方で、ホッとする生き方... 。
... ... ん? ホッとする... ... ??
...と、ここまで考えて、なんとなく... ...ん?...あれ?...と思いました。
慣れた生き方... ...
ホッとする生き方... ...

私は、先日の、両親と会えなくて、内心ホッとした事を思い出しました。両親と会えなくて残念なはずが、内心ホッとした自分、...

私... 、あの時、両親に会えない事で...ホッとした...。
あの時、会いたかったはずなのに、会えなくて、ホッとした...。
それは、つまり、
" 私は、慣れた生き方が変化しない事にホッとした "
" 私は...本心では、今までと変化のない、両親との関係に嘆く状況が続く事にホッと安心したんだ..."
" 私は、本心では、両親との関係が、このまま変化しない事を望んでいたんだ "
身動きが停止しました。気づきの瞬間でした。


大きな衝撃を感じましたが、どういう事か、すぐにはよく理解出来ませんでした。


... え ? じゃあ 、私は...、両親との関係が、今の状態という事を好んでいたの??選んでいたの??
両親との今の関係を...、今の状況を...、自分で選んでいた...?


もしかして、私...、現実を...、見れていないんじゃ...
??現実を見ていないのは... 私??
現実が見れていないのは... ...私だったとか?
愕然としました。
あれ、... ... じゃあ、現実って... ...??


宗教を信仰して、もう長い年月、経過している。
入信してから今までずっと、その間信仰し続けている、両親達がいる。それが現実だ、ただただそれが現実だ、と思いました。


ゆっくり感じるように、瞬間的のように、思考が巡りました。


今、宗教を信仰し続けていて、宗教バイアスが掛かっている、今の両親の姿が、今の両親で、それは元々昔関わっていた両親で、今いる現実の両親。
ずっと過去から今まで、今も変わらない事実。
理想の両親がどこかに別に存在する訳じゃない。
理想の、思い描く両親なんて、いないんだ。
今存在している両親が、両親で、それが現実なんだ... と思いました。


... ... 私、違ってた。と思いました。
現実を見てこなかったのは ... ... 私...。
そうだ... 現実を見てなかったのは... ... 私だ...。
わーーー... ...現実を見ていなかったのは、私だった...。
身動き停止状態から、しゃがみ込み、立ち上がり、また停止しました。


私は、...もしかして、私にとって、都合のいいように、現実を選んでいた?
無意識に、私は、自分の見たいように、自分の見たいような現実ばかりを見ていた...。つまり、本当に存在して、本当にある現実ではなく、幻想を見ていた...。



私はあの日の昼間に、ニュートラルな自分で、現実を垣間見たようで、だから、母親に自分でも驚く程の平常心で、冷静に連絡が出来たように思います。
でも、その後、両親に会えない事に内心ホッとした時、自分の中の矛盾した気持ちに一瞬気づき、違和感を感じたのに、スルーした。
その時から、また私はいつもの慣れた生き方、
=慣れた現実の捉え方、=幻想、=自分が見たい現実、=この両親は本来の両親ではないと否定し、両親との関係に嘆く自分、の中に戻り、幻想を見ての思考になっていたと思います。
私は自分が見たい現実の中で、両親に対して叶わない思いを抱いて嘆いていたのです。私は幻想の中で、叶わない幻想を見ていたようです。


私は、自分は現実を見て生きていると、疑わずにそう思っていました。思い込んでいました。
私が見て生きているのが現実で、両親達の方が、現実を見ずに生きていると思っていました。
でも、違っていました。
私は、現実の両親、妹が、宗教を信仰しているという事実。今となってはもう長年のその現実を、受け入れる事が出来ていませんでした。
ずっと認めたくなくて、受け入れたくなくて、その現実から逃げ続けていたんだと、気づきました。


逃げていた。私は、逃げ続けていた。
それは、この前、母親に、自分の本当の気持ちを言えなかった私も同じでした。
本当の気持ちを伝えて、また自分が傷つく事が怖くて、過去のようにまた傷つく事が嫌で、
咄嗟に自己防衛をした自分。逃げてしまった自分。
あれ...私は...逃げてた...と気づいた時、
一瞬、逃げてしまった事を悔やむ気持ちも湧きました。でも次の瞬間、逃げていいんだよ、逃げていいんだよ、過去の事があるもんね。
怖かったんだもんね。そういう自分でいいんだよ。そういう逃げてしまう自分を大事にしていけばいいんだから。と、自分に言っていました。
そうすると、気持ちが、楽になりました。
気持ちの深掘りが継続出来ました。


自問自答しました。
なぜ逃げてしまったの...?/怖いから...
なぜ怖いの?/傷つくから...
なぜ傷つくと思ったの...?/今まで、(両親に)関わるといつも傷ついたから...
いつも傷つく、いつも傷つけられてきた。
そう言えば、実家にいる時も、実家から出た後も、私は両親と関わるたびに、両親の対応や言葉でいつも傷ついてきた...。確かに、それは事実だったと思いました。
私は、今まで、そういう受け入れられない両親の対応や言葉、態度などは、拒絶してきました。
こんな事、本来の両親の対応や言葉ではないと、現実を見ていないので、本当の現実の両親の対応なのに、事実を事実として捉えずに、宗教バイアスが掛かった偽りの両親の対応だ、という捉え方をしていました。
もしかして私は、自分の意思で、両親を美化していた...? そして、その美化した両親を信じてきた...?と思いました。
宗教バイアスが掛かった両親だから私を傷つける、宗教バイアスがない両親は私を傷つけない、という訳ではなくて、
宗教バイアスの有無関係なく、どちらにしても両親の対応や言葉は、私を傷つける物だったんだ、これが事実、本当の事...。
もう、美化して見ない。もう現実の姿をしっかり見る。そう思いました。


私は、ずっと、こうであってほしいという理想の両親を思い描いていて、宗教バイアスのない、本来の両親はこういう姿なんだと、自分の見たい両親を見たくて、実際の本当の現実の両親の姿を見ていなかったようです。見たくない、現実に存在する両親の事は、私が否定していた。
改めて、...今の両親が本当の両親...?と思いました。
私がどこかにいるはずと追い求めていた両親ではなく、今の両親が、今いる現実の両親...。宗教バイアスの掛かった、今の両親が、本当の、現実の両親なんだ...。
そう... 現実を見ていないのは、私だった...。
私は、現実を見ていなかったんだ...。
と、繰り返し、はっきりと、そう思いました。


わかっていたようで、私はわかっていなかった。
あれだけ、両親に、宗教教義に染まるのではなく現実を見て生きてほしいと思いながら、当の私が現実を見て生きていなかったと思います。
わかっていたようで、わかった気になっていて、わかっていませんでした...。



感情は、何層にもなっている上、逆説的な経緯を辿り、気づくのかもしれません...。
そして、私は、感情と向き合っていく事は 、
まるで、螺旋階段をゆっくりと降りて行くように、何度も同じような景色を見ながら、何度も似ている感情を感じながら、だんだん心または脳の深層部に降りて行くような感じ、そんな感覚に感じました。
たぶん、その螺旋階段をゆっくり進みながら、自分の中から出てくる素直な感情に沿うこと、感じること。
感じよう感じよう、わかろうわかろうとはせずに、自然な流れに任せて委ねて、感じて、気持ちを見つめて、受容して、わかっていく事。
感じるすべての感情を、ねじ曲げずに、順番に1つ1つ、ネガティブな感情も、抑圧する事なく、否定する事もせずに、丁寧に向き合って、感じきる事が大事なのかもしれません。
そしてその途中で感じる、自分の気持ちの中の矛盾や、違和感があったら、それは、本当の気持ちに気づく大事なヒントになるような気がしました。


私には、今まで向き合い感じてきた、一連の、全部の過程が必要な事だったと思います。
幼い頃から、抑圧した、未消化の感情を作り過ぎてきたために、拗らせ過ぎてきたために、何層にも重なり過ぎた未消化の感情を、1つ1つ感じて、根気強く、層をめくっていく事が必要だったと思います。
もしかしたら、まだ、層があるのかもしれません...。まだ、感じきれていない、未消化の感情があるかもしれません...。
とりあえず、今は、なんとかここまで、辿り着いて、どうしようもなかったんだもんね...、私は、拗らせてしまったんだもんね...。と、
いいよ、いいよ、こういう自分だよ、いいんだよ...。と、気持ちに摩擦なく、穏やかに、自分に言い聞かせています。




さよならの代わりに/JUJU




お読み頂き、ありがとうございました。




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