『律法は愛の影にあり』
2024年12月29日
2024年最後の日曜日となりました。今年のTICAは「NEW ERA」(新しい時代のはじまり)という言葉を主の前に掲げてきました。それは虚しい言葉の響きに終わらず、人の想像をはるかに超えて主が働かれているということを私たちは見てきました。救いに導かれた人も多く、働き手として加わってくださった人も多く、聖書をともに学ぶ人も増えてきています。教会の目の前の広い駐車場の敷地は10年以上前に「こんな広い土地があったらな…」と思って皆で眺めたことはありましたが、今年、その土地をクリス牧師が買うと言った時は「そんな無茶な!」と不信仰にも思いました。しかし、主に願って、わずか数か月の内にそれが与えられました。
本当にこれまでにないことが起こっていった驚くべき1年でした。
さて、そんな今年最後の日曜もルカによる福音書から良きサマリア人の話をさせていただこうと思います。
教会で何度も語られているところを何故、取り上げるように示されたのか私にもわかりませんが、この良きサマリア人の話は非常に重要なことを今、私たちに示すものなのかもしれません。
■ルカ10:25~37
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
この例え話には祭司とレビ人が出てきて良きサマリア人と対比して悪者のように扱われますが、実は律法の観点から彼らの行動は擁護できるものです。祭司やレビ人が血や死体に触れることは汚れることになり、祭儀に携わる故に律法で禁じられていました。ですから、彼らは律法を守ったに過ぎないのです。ですから、この律法の専門家は律法を守り行うことが神を愛することだと理解していたのでしょう。ただ、「隣人を愛する」ということを理解できていなかったのだと思います。
そこで疑問なのですが、キリストも最も大切なこととして太鼓判を押したこの2つの律法、何故、最も大切だと言われたのでしょうか。あらためてこの箇所をよくよく読み返してみると、この最も大事とする部分が自分のなかでしっかり腑に落ちていないことに気づきました。
この良きサマリア人の例えの真意はどこにあるのでしょうか。
皆さんはこの箇所をどう考えるでしょうか。
【まとめ】
アメリカ、カナダなど一部の国にはこの例え話が元になった「良きサマリア人の法(Good Samaritan laws)」というものがあります。この法は急病人や負傷者を善意による救命処置をとる場合、それが結果、失敗したとしても助けた人に責任を問わないという法です。日本ではこれに相当するまでの法はありませんが、AEDを使用して救命活動を行った際に結果、命が助からなくても責任を問われることがないよう守られています。
人助けというのは思っているほど簡単ではなく、リスクが伴うと言わざるを得ません。このサマリア人はユダヤ人から差別され、ときには敵視されることもありました。そのサマリア人がユダヤ人を助けるというのは相当なリスクがある行為でした。もし、怪我人が助からなかったらその責任を他のユダヤ人から指摘されていたかもしれませんし、強盗扱いされる危険もあったかもしれません。
つまり、ここに登場する祭司、レビ人、サマリア人は皆、怪我人を助けることに少なからぬリスクを抱えていたことになります。
そこで最も大切とされた律法について考えてみたいと思います。
この「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」という言葉(申命記6:5)は出エジプトの時代に神がモーセを通してイスラエルの民をシナイ山へ導いて、十戒を授けた時にモーセの口から語られたものです。イスラエルの民は子羊の犠牲によってエジプトから救い出され正しい道に導かれました。この言葉はまず、神がご自身の民を愛されたという大前提があるのです。
ですから、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ19:18)には、愛されたが故に隣人を愛することの大切さが語られるところで、イスラエルの民が本当の意味で祭司の国の役割を果たすことが求められているのだと思います。
キリストは律法において責められるところがひとつも無かったにも関わらず、すべての隣人のために律法の外にある者のように不当に裁かれて十字架にかけられました。それほどのリスクを背負う価値が隣人としての私たちにあったでしょうか。
■ヨハネ15:15(口語訳)
わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
私たちがキリストを知らずにいた時に既に「あなたがたを友と呼んだ」と言っています。そして、この「友」にかかっているのがこの言葉です。
■ヨハネ15:13(口語訳)
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
「これよりも大きな愛はない」と言う愛は「友」に対して向けられるものですが、その「友」が単なる隣人だというのですから、キリストの愛は人の領域をはるかに越えています。
キリストを試そうとしたこの律法の専門家ですが、新共同訳で「律法学者」と書かれていないところが気になります。ギリシャ語の原文でも別な表現が使われていますので、この人はもしかしたらキリストに着いて来ていたうちのひとりで、この時はわからなかったかもしれませんが後にキリストの隣人愛を理解したかもしれません。
■1ペテロ4:8
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
律法が人を神に近づけさせますが、律法は人を縛るものではありません。
同じように私たち罪人であると思うことは神に近づく第一歩ですが、罪によって私たちはいつまでも縛られるべきではありません。
キリストの愛が悔い改めの罪を覆い私たちを解放してくださるように。
2025年、その解放された愛があなたの隣人に広くおよんでいきますように。